Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

意思を表さないと、わからない人間関係

2018-07-14 23:07:47 | ひとから学ぶ

 横断歩道にたどり着いた際に、車がやってきていれば「身を引く」。ブレーキを無理に踏んでまで止まってもらおうとは思わない。「渡ろう」と強い意思を示さなければ、通過してくれるだろう、そう思っていると、意外にも止まってくれる車は少なくない。横断者がいれば止まらなければならない、という真面目なドライバーも少なくない。真面目過ぎると渋滞を起こす、それも事実だが、安全第一であることも百も承知だ。

 以前から繰り返し書いているように、わたしは前車との車間を比較的空ける方だ。速度をセーブするために空ける、速度制限を意識したドライバーが車間を空けるのとは少し違う。ブレーキで速度調整をしたくない、いってみれば良い運転とは言えないかもしれないが、だから前車に接近せずに、なるべくエンジンブレーキで調整できる車間をとるようにしている。前車に接近している車が、ぶつからないように盛んにブレーキを踏む光景を後ろから見ると、笑えてしまう。「なぜそこまでして接近したいのか」と。

 確実に「曲がれる」という判断は人によって違う。たとえば対向車が右折指示をしている。常にではないが、わたしの前車との車間は、そういう場面では曖昧な距離かもしれない。でも「曲がろう」とすれば曲がれないわけではないし、わたしもそういう場面を想定していないでもない。したがって「曲がっても良いですよ」という意思表示をすることもあるが、もちろん意思表示をしなくても曲がっていく車も少なくない。むしろ意思表示をしても、なかなか曲がろうとしない車には少し苛立ってしまう。その背景には、そうした判断をさせないような常日ごろの環境があるからかもしれない。

 車の運転とは駆け引きによって自らが有利になるためにするものではなく、状況判断を経験に積み重ねていくこと、だと思うのだが、最近は思いがけない運転に出くわすこともある。それでも日常の中で、「どうすればこの状況が解消できるか」と「考える」ことを忘れないようにして欲しいものだ


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