Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

同じ雪形が男と女に

2008-05-09 12:26:25 | 自然から学ぶ


 中央アルプスの南駒ケ岳に登場する「稗まきじょろし」も現れている。先日の〝比較「駒形」と「島田娘」〟で紹介した写真は、昨年のものも今年のものも、伊那山脈の陣場形山から撮影したものである。なぜか、昨年のものははっきりくっきり、今年のものはどこかぼやけている。写真の編集処理は、昨年も今年も変わらない。にもかかわらず写真の雰囲気が異なるのは、透き通りの差なのかもしれない。今年のもの、ようは5/6の朝は、前日の雨から一転、快晴であった。そこそこ風も吹いていて、視界は良好だった。ところが、時間を追うごとに霞がかかってきていた。したがって時間が経過することにより、霞がかるという印象を持った。それでも山の上から眺める下界は、さほど昨年と違うという印象はなかったのだが、撮影をしてみると、その差は歴然としていたということなのだろう。

 この写真はどちらも山の上に備え付けられている双眼鏡に接眼して撮影したものである。カメラも同じなら双眼鏡も同じはずで、昨年の撮影データを持っているわけではないが、自動で撮影しているからそれほど差が出るはずはない。

 ところで「稗まきじょろし」と言われているこの雪形、長野県が作成した「雪形」の観光用パンフレットでは、この「稗まきじょろし」も紹介しているが、駒ヶ根市中沢あたりからみたものを「稗まき爺」としても紹介している。「じょろし」は女を意味するもので、爺はもちろん男であるからどこをどう捉えて男と女になるのか、微妙な見え方の違いがあるのだろうか。ちなみに写真の雪形を見る限り爺よりも女である。

 山の上に備え付けられた双眼鏡、よくお城の上や、展望台に備え付けられているものと同様のものである。この双眼鏡のよいところはお金がいらないということである。ところがお金がいらないから、好きなだけ利用できてしまう。そこが問題であって、わたしはしばらくご家族でやってきて使いまくっている人たちを待つことになった。一言「貸していただけないですか」といえば空けてはくれたのだろうが、大勢いるわけではないからいつか空くだろうとよけいなことは言わなかった。その是非もあるだろうが、ご家族でやってきて、子どもがいつまでも利用していたら、「ほかの人もいるんだから空けなさい」と親が、あるいは祖父母が促す言葉を発してもよいだろう。そのあたりをうかがいながらも、わたしも「使いたい」という雰囲気は見せなかった。だからその場の雰囲気がそうさせたのだろうが、どちらにも言い分というものもあるかもしれない。いずれにしても、大勢の人で混雑するわけでもない空間だから無料で利用できるというスタイルになるのかもしれないし、またそれでも問題は生じないだろうが、これで大勢の人が訪れるような場所だったらトラブルが起きても不思議ではない。ようは「使用料」「時間制限」という制約があるからこそ秩序が保たれる。情けないかもしれないが、人間社会はそうした制約がないとシステム化できないわけである。

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