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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

新盆の迎え

2013-08-09 23:57:14 | 民俗学

 盆花について触れたが、このあたりでは8月10日ころまでに墓掃除をして新盆の家では祭壇を飾るのがふつうである。新盆であろうがそうでないとしても仏様は墓から迎えるのが一般的である。しかし以前にも触れたように京都市六波羅の珍皇寺の六道参りがよく知られているように、新盆の際に迎えに行く特定の場所があるところもある。伊那谷では伊那市にある六道地蔵尊がよく知られていて、8月6日の未明から仏迎えの人々によって今も賑わうという。

 この六道地蔵尊の祭りを平成2年に調べたことがあった。その際に報告したものが下記のものである。

 

「六道地蔵尊の祭り」

 六道地蔵尊は普段は長野県伊那市美鴛の上川手と下川手両区が管理している無住の堂である。昭和42年に火災にあい、翌昭和43年に現在の堂が再建されている。
 六道地蔵尊については『伊那市寺院誌』に次のようにある。

 (前略)古い土手囲まれ、老松巨木に囲まれた静寂の地で、六本の通の辻に位置している。(中略)わが国に於ける六道地蔵の発祥は古く文徳天皇の仁寿二年(852)小野篁が京都伏見の文善寺に六地蔵を安置したのがはじまりと言われ、後、御白河天皇の保元二年(1157)平清盛がこれを諸国に分置したが、その時一体をこの信濃国笠原庄に堂字を建てて安直したとも伝えられている。また一説には笠原の牧の牧監笠原平吾頼直の墓とも言われる。(後略)

 これらは伝承であり、事実はよくわかっていない。しかし六道地蔵尊の祭りについては、安永8年(1779)に高遠藩老であった葛上紀流が領内の見聞を書き著わした『木の下蔭』巻之中に記録かある。

 六道原は万一里の大原なり古へ笠原牧といひしは是なり原の西の末を下りて上牧下牧といふ両村今もあり 原中に万一町ばかり の森あり六道の辻といふ地蔵堂あり七月七日を祭りといふて六日の夜より民間の男女群集る

といっており、このころの祭りは7月7日であったようである。明治維新ごろはまだ旧暦の7月6・7日であったようで、明治以後旧暦の7月6日に変わり、さらに新暦の8月6日に移行している。
 明治末期までほ5日の日に上川手天伯社の森に若連と呼ばれる若い人々が勢ぞろいして、六道地蔵尊へ先祖の魂迎えにでかけていた。現在は上川手と下川手両区の老年会といわれる60歳以上の有志の集まりが、六道地蔵尊の祭りの世話をしている。この老年会は老人会といった女性を含めた組織とは異なり、男の人のみの加入希望者の会である。
 無住の堂のため普段は石の地蔵尊が安置されており、本尊は宝蔵に保管されている。宝蔵は六道地蔵尊が火災にあった翌年の昭和43年に作られたもので、それ以前は上川手の年番の時は上川手区内の養寿堂に安置され、下川手区の年番の時は下川手区内の曹洞宗愛宕山永安寺に安置されていた。境内には地蔵堂の他に元和9年(1623)銘の石燈籠型六地蔵や、正徳4年(1714)銘の南無阿弥陀仏名号塔、享保8年(1723)銘の念仏塔などの石仏群がある。また、石燈籠型六地蔵の傍らに痛みが激しい十王石像が並べられているが、これも1600年代の物と思われる。
 現在の六道地蔵尊の祭りは、先にも述べたように上川手と下川手の老年会の人々によって一年交替の年番制で行なわれている。平成2年は下川手の当番で、7月22日に役員ら6人が集まり、六道地蔵堂の傍らにある賽の河原に積まれる小石を集めて水洗いをした。賽の河原は六道地蔵堂の南側の野天にある十王像周辺のことをいい、祭りの時にこの北側に賽の河原の祭壇が作られる。小石には「六道」「南無」「地蔵」「供養」「賽」「佛」などの字が書かれており、消えかかった石は書き直される。小石の大きさは直径5cm前後の物である。
 8月4日には新御霊が乗りついて帰るといわれる松の小枝を、近くの山より用意する。これは松の枝の先20cmほどの若木で二千本ほど用意する。昔は六道の森で用意していたが、若木で20cmほどのものが採れなくなり、区内の松山から用意するようになった。また松の小枝と共に訪れた人々に配る御礼も準備される。御礼には、

  各亡□有緑無縁
 南無六道地蔵大菩薩
 一切積々□位等
           六道地蔵尊(□は上に「ヨ」下に「天」)

と書かれている。また賽の河原で配られる御礼には地蔵尊像が描かれている。これらの御礼は版木で刷っていたが、六道の御礼は板木が古くなったので3年ほど前から印刷所へ頼んでいる。
 8月5日は老年会全員による祭りの準備の日である。20人ほどの人が集まり、女の人たち(60歳以上)が数人手伝う。現在参加している老年会の人たちの記憶では、昔から老年会が祭りを執行していたという。祭りの時祭壇に掛けられる掛軸の箱に昭和15年の墨書があり、並記して両川手老年会の字か見える。
 準備は朝8時より始まる。伊那市美篶小学校4年生が六道の森を奉仕で掃除している。地蔵堂での準備は祭壇を作ることから始まる。普段の地蔵堂は壁が正面、南側、北側と三方になく、吹き抜けになっており、正面中央の本尊を置くべき壇にも石造の丸彫地蔵が安置されているだけである。ここに厨子に入った木像の地蔵菩薩立像が安置され、その上に「卍」の幕か張られる。さらに「六道地蔵尊」の額が吊され、天井からは川手中と名の入った長さ1mほどのちょうちんが両側に吊される。本尊の前に賽銭箱が用意されるとその前面に二段のローソク立てが置かれる。その両側には大きな線香立てが置かれ、賽銭箱の両側に菊、アスター、八車草などの花、が飾られる。祭壇に向って左側の線香立ての横に大きな鉦が置かれる。地蔵堂の中央の天井からは大きな丸いちょうちんが吊され、吹き抜けになっている堂の三方に幕が張られる。また堂の入口には「南無六道地蔵尊」と書かれた燈寵が吊される。
 地蔵堂の南側には賽の河原の祭壇が作られる。トタン葺の屋根下に幕が張られ、鬼が子供をいじめている賽の河原の掛軸が二本吊される。その前に花が飾られ、ローソク立てが二段立てられる。その横には線香立てが置かれ、十王像の前に7月22日に洗われた小石か雑然と散らばされる。
 この日は新御霊の依り代となる松の小枝を「六道地蔵尊」と印刷された紙袋に入れる作業も行なわれる。松の小枝を一つひとつ小袋に入れる作業である。「六道地蔵尊」と印刷した袋に入れるようになったのは10年ほど前からで、それ以前は松の小枝の元を和紙で巻いただけのものであった。これをお参りに来た人々は腰に巻いた三尺にさして、仏を背負って帰った。
 平成2年は7月22日、8月4日、8月5日と3日間準備の日をとったが、例年だと祭りの前日である5日にすべての準備を行なっている。
 5日は老年会のうち10人ぐらいが地蔵堂と軒続きになっている休憩所へおこもりをし、6日の未明から訪れる人々を迎えるわけである。 6日は午前零時ごろから早い人々が訪れる。午前4時から5時ごろが参拝者の最も多い時間である。普段は水田地帯のため参拝の人はほとんど訪れないが、この日ばかりは車を使って訪れる人々の車が農道にあふれ、警察による交通整理が行なわれる。昔は乗り物を使ってはいけないといわれていたが、今はほとんどの人々が車による参拝になっている。
 境内では屋台店が参道の両側にいくつも並び、参拝者の列が長く続く。昔は屋台店の境内での位置や礼金の調整を青年会が行なっていた。地蔵堂に入ると堂の両側で老年会の人々がお札と松の小枝を配っている。両方で700円である。お札をもらうと地蔵尊の前で線香を立て拝礼して行くのである。堂内には読経が聞えるが、これはカセットテーブレコーダーにより流されているものである。午前8時になると上川手にある曹洞宗洞泉寺の住職が実際に来て読経をする。洞泉寺には松の小枝への魂入れも頼んでいるが、読経も魂入れも昔は行なわなかったようである。
 堂内を出ると子供を亡くした人が、南側にある賽の河原にお参りをする。300円でお札をもらうと線香を立てて拝礼し、十王像の前にころがっている小石を積んで行く。これはこの世の勤めをせず早く来てしまった仏が積んだ石を鬼が崩してしまうため、一緒に石を積んでやるのだという。石は積めるだけ高く積むと良いといい、子供を亡くした人が一生懸命に涙を流しながら積んでいく。
 この新御霊の迎えは、昔は3年間行なったが現在は1年だけである。霊は六道の森の松の木にとまっており、お参りすると木の下へ降りてきて家へ帰るという。また昔は老年会が用意した松の枝をお札とともにもらうのは新盆の家で、新盆でない家がお参りに行くと近くの松の枝を折って家に持ち帰った。大正時代には六道地蔵尊に参拝した後、近くの松の枝を折って持ち帰り、その松の枝に魂が乗り移っているものだとされていた。いつのころからか老年会でこの松の枝をお札とともに用意するようになり、六道の森で松の枝を折って帰るということも次第に行なわれなくなった。本来はお参りした人々が近くの松の枝に仏を乗り移らせて、腰の三尺にさし背負って帰ったものであろう。
 六道地蔵尊の祭りに訪れる人々は、北は上伊那郡辰野町から南は駒ヶ根市あたりまでの人々である。昔は塩尻市から飯田市あたりまでの人々も訪れたようである。また、東の高遠町や長谷村では、現在でも新盆の1年だけではなく3年間訪れている。
  六道地蔵尊へ訪れる人々は、ほぼ午前中でなくなり、午後は老年会の人々により後片付けとなる。それでも日没ごろまでぽつりぽつりと訪れる人がいる。昔は一日中参拝者で賑わったようで、夕方になると青年会の人々が上川手天伯社の宵祭りの燈龍に火をともした その足で六道の森に集まり、境内で盆踊りが行なわれた。盆踊りは青年会の担当で、夜遅くまで行なわれ、美篶一円に限らず手良、野 底牧、伊那、富県といった所から人々が集まった。昭和10年を過ぎたころから集まる人が少くなり、行なわれなくなったようである。 特に歌われたものにエーヨー節があった。

  たむらからきて ありゃこのさわぎ
   おゆるし下さい おむらかた
  サ ヨーイ ソレ
 (返し歌)
  たむら若いしゅう よくきてくれた
   さぞやぬれつら エーヨー まめの葉で

 この他伊那節や木曽節が歌われた。


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