Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

年賀状の民俗

2012-01-05 20:36:42 | ひとから学ぶ

 届いた年賀状に返事を出す、ここ5年ほどのわたしの年賀状とのつき合い方である。①年末が忙しすぎてなかなか手を出せなかったこと、②かつてのように年賀状に楽しみを抱けなくなったこと、などがその理由である。なによりプリントゴッコ登場以前の年賀状、プリントゴッコ時代、そしてその後の年賀状はずいぶん違っている。自分でも重々承知していることだが、プリントゴッコ以前には郵便局に備え付けられていた干支や正月を表すようなゴム印を利用して年賀状を書いたり自らそんな印を作ったりして空間に彩を散りばめ、補うように文字を並べたものだ。時には版画をやったこともある。プリントゴッコの登場とともに、カラフルな個性的な年賀状が登場したが、いずれにしても文字が激減。わたしはプリントゴッコ時代を経ずにいきなりワープロ時代に入ったから文字を書かない先駆けだったかもしれない。これとは別に印刷ものも多く出回ったが、いずれにしても自分のプリンターで印刷するにも、印刷屋さん、あるいは一時流行った写真屋さんに委託するにも、文字が激減したことは事実。妻によく言われるのは「あんたの年賀状って文字が無いね」だ。男と女の違いとも言えるが、その一因に女より男の方がよりパソコン時代に先行して入ったということもある。そして面倒くさいことが苦手な男は、女に比して間抜けでも納得ししまうところだ。几帳面な人間が少なくなったと言える証しでもある。

 時代ごとに自分の年賀状を並べようとしても、かつてのようにパソコンで管理していない時代のものなど手元にあるはずもない。自分が自分に必ず年賀状を出していれば、すべて揃うというわけであるが、そんな人は世の中にいないだろう(もしいたら年賀状文化の玄人と言えるが)。そういう意味では、宛名もパソコンで印刷している人たちにとっての年賀状とはどういうものなのか、などという年賀状の民俗を考えたくもなる。

 わたしも往時に比べれば、年賀状の枚数が四分の1くらいに減少してきた。その現象はもちろんこの5年ほどの間に起きたこと。待ちの姿勢で年賀状を出し、できる限り減らそうとしていたことがそうさせた。もはや元旦に出すのも「遅い」という雰囲気ではないし、そろそろ最後の年賀状を出そうか、などと考えているしだいである。そのくらい遅くに返信、あるいは返信ではなく必要と思って出す年賀状の差出人は、翌年には年賀状が届かなくなる。ただ、総てではない。このあたりがいわゆる「管理された年賀状」の実態が浮き彫りになる。

 ふつう年賀状をあらかじめ元旦に出そうという人はどういう書き方をするか。まず①前年に届いた年賀状を準備し、返信をするように書いていく。確実なパターンであって、そこに今年新たに出さなくてはならない人を加えていくというもの。②住所録を開いてその住所録の順に書いていく。おそらくこのパターンでは前年に届いたかどうかよりも住所録の上で出す出さないの可否を選択していくはずで、きっと住所録には年賀状を出す人だけをまとめて掲載しているか、あるいは出す人にはなにかしらのチェックがされているか、という具合だろう。ほかにもあるのかもしれないが、わたしの頭に浮かぶ方法はこの二つが中心である。そしてそのほとんどの人は前者ではないか、というのがわたしの捉え方である。ところがパソコン時代に入るとともに、後者の方法を多くとるようになったはず。宛名を印刷しているよう人は名簿管理が行き届いているはずで、おそらく届いた年賀状と住所録が違っていないか確認しているはずだし、印刷する前にもその確認をするはず。いわゆる届いた年賀状の住所に返信しようとする前者とどこかで同じ作業をしないと間違った住所へ送ってしまう。そしてここまで管理されていると、前年に送ったか、そして届いたか、というところも管理されているはず。何よりわたしがそうだからだ。

 これほど管理されているなかで、では年賀状を出す・出さないはどう決められていくのか。もちろん不要と思われる人から〝削除〟していく。かつてマジに年賀状に力を入れていたころ、何度元旦に着くように出しても松の明けるころに返信が届けばまだまし、滅多に返信が来ない人もいた。〝わたしは嫌われている〟そう思うのが普通で、以後出すことも諦めた。わたしもそうだが、後々縁も無い、と思えば削除したくなるし、加えて〝この人はわたしから年賀状が届いていることで迷惑になっていないか〟という思いすら浮かぶ。そしてそもそも自分の立場(身分)だ。〝ゲエモネー〟と思われるよな存在は無視されても致し方ない。〝届いたら返す〟当たり前なことだが、そんな交信感覚も今はない。例えば電子メールである。届いても返信しないのが今や当たり前。返信するという常識を備えてしまうといつまでたっても返信続きでおさまらなくなってしまう。かつての手紙のように届くまでの時間が収縮しながらそれぞれの気持ちに間を設けていた時代とははっきりと異なる。ようは時間短縮がそうさせた。往復しない時代なのである。そう考えれば、届いた年賀状に返事を書かないのも今や常識なのだろうか、などと思ってしまう。いや、けしてそうではないのだろうが、そうなりつつあることも事実。加えて人を見て応じられてしまうし、さらに加えれば書き込みのない空白だらけの年賀状に何の意味があるのだと思ってしまう。

 そんなことを考えながら、あらためてまだ出していない〝人へ〟、帰ったら書こう、そんな気持ちを抱くわけである。


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