Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「郡境域」を実感した日

2024-04-12 23:50:49 | ひとから学ぶ

 先に定年を節目に出版した本へ、上下伊那に関する地域性を扱ったものを掲載した。ふたつの上下の伊那郡を例として、両者の意識差を示そうとした試みで、その中で印象ではなく、特に数値化して地域性を示したものに、雑誌『伊那路』と『伊那』の購読者数を扱ったものがあった。ようは上伊那地域で発行されている『伊那路』と下伊那地域で発行されている『伊那』、その両者を数十年という長きにわたって購読してきた背景には、曖昧な地域に暮らしているから両者を購読なければならない、という意識があったからだ。両者の境界域に生まれ育ったから、片側だけでは自らの立ち位置から察すると「片手落ちである」というもの。双方に視線を向けないと、結果的に周縁部から中央域を眺めるだけになってしまう、それを打開するには(言ってみれば自分の存在を高めようという意識からのものなのかもしれない)両方の意見を聞いて、その中間的立場で物言いをすれば、それぞれの地域から認められるのではないか、という思いである。こういう思いは、周縁部だから育まれるもので、中央部の人たちには育まれない意識と、わたしは勝手に思っている。

 

 今日、友人と飲み屋で飲んでいて、郡境域、とりわけ下伊那と縁の深い中川村について話をしていたところ、隣席で飲んでいた年配の方が「違う」とわたしに怒っているのである。なぜそうなったかといえば、前述したように両誌の購読者の数を例にして、「中川村の人たちは、どちらかというと南を向いてている」というような話をしたうえで、中川から見れば上伊那郡にありながら伊那より飯田が近く、交流圏としても飯田に傾向しているというような話をしていたわけである。もっと極論を言えば、上伊那郡でありながら、下伊那へのまなざしが強い地域であることをわたしは主張していたわけである。それに対して「おまえはどこの者だ、中川は上伊那郡だ」と怒り心頭なのである。飲んだ席での自由な発言にほかならないのだが、よほどわたしの口にしていた意見が気に障ったようだった。もちろん中川村が上伊那郡であることは百も承知であり、その上で行政的区割りを抜きにして「実際のところ住民の意識はどうなんだ」という面で話をしていたわけなのだが、それでも許せなかったようだ。両雑誌の購読者を数値化した際のことは、以前にこの日記でも記したことであるが、実際のところ、上伊那で発行されている雑誌より、下伊那で発行されている雑誌の購読者が6割以上を数える。明らかに住民の意識は下伊那へ傾向していると言えるわけで、もちろん怒り心頭の方たちは残りの3割に入る方たちなのかもしれないが、これは調べた上での事実であったわけである。異論を唱えられた方たちは、きっと「中川の方たちなのだろう」、そう思って反論はしなかったわけである。

 

 ところがである。電車で帰ろうと駅に向かうと、先ほどの年配の方たちが数人固まって上り線ホームへ向かっていく。見つかると厄介と思い、少し距離をとって同じホームに立ち電車を待ったわけである。おそらくわたしの降りる駅の近くまで乗っていくのだろう、そう思ったわけだが、なんのことはない、遥か手前の駒ヶ根駅でみなさん下車していった。まさかここからタクシーで該当の村まで帰るはずもない。おそらく駒ヶ根にお住まいの方たちなのだろう。もしかしたら中川とはまったく無縁の方たちかもしれないし、あるいは中川出身なのかもしれない。とはいえ、後者だとしても今は中川には住んでいない。言ってみればその村を捨てたわけである。出身地を指摘する意見が聞こえたから反論せずにはおられなかった、そんなところなのかもしれない。気持ちはわかるが、現実、今住んでいる人々の代弁はできない。これこそが、境界域の人々の厄介な意識なのである。必ず北を見ている人もいれば、南を見ている人もいる。その上で、自分の暮らしてきた領域はどちらかであり、自ずと思い入れが生じる。だからこそ、境界域は同じ方向を見られない多様さがあるのだ。たまたま飲んだ席で、こんなタイミングの良い事例を垣間見れて、わたしはとてもうれしかったわけである。まさにわたしの意図している意識の体験なのである。


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