Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

労働の詩③

2012-01-04 20:37:50 | 

 昭和45年に発行された和田攻さんの詩集『弾薬列車』の巻頭に綴られた詩は「黒いレール」である。

黒いレール

機関車に乗りこんだ時
姿なき尾行者は
おれの背後に鋭い視線で迫る
〝刑事責任〟
手錠の鈍い光が揺れると
頭上で運命の動輪は激しく回転する

これが最後の乗務-
冷たいささやきが吹きぬけると
秒針は臨終の脈をかぞえはじめる
バカな!
おれは不安な緊張で
ぐっと前方をにらみつける
すでに
過密ダイヤとの闘いは始まっているのだ

企業色豊かなナッパ服
そいつに蝕まれた公共の切符
精神障害者は千人に二人だー
糞尿にまみれたバラストから
ジュク ジュクと腐食した黒い血が
合理化のレールを流れていく

死を呼ぶ黒いレール
むなしい安全ポスターが切断されている
おれは競合脱線におびえ
鉄橋に近づくと富良野川を思い起こす
〈安全管理にミスはなかった〉
その言葉を信じろというのか
突然くずれた橋脚の下で
恨みの汽笛は波紋を画く

だれも知らない
汽笛と非常ブレーキ
彼らの胸に突きささった鋭い痛みを
おれは知っている
かぞえきれない生命と
踏切の車を救った日々のことを
悲しい乗務員の定めと
秘かに抱きしめたままの彼ら
もう生きかえりはしないのだ

おれはスピード・アップされた列車に
必死の思いで精神のバランスをはかる
見えない
信号-
一瞬のスキを
ねらう
サタンの呪文

みよ!
〝胃病・神経痛・痔は職業病〟
フロント・グラスいっぱいに
おれのカルテが粘りだされている
そのむこう
黒いレールにへばりついているのは
〝刑事責任〟
規程の罠は結果論をふりかざし
おれを陥れようと身構える

テレビのニュース速報は
怒りの文字で
おれの名前を
告げることだろう


 当時幼かったわたしは国鉄を数えるくらいは利用していたが、その背景にどんな影が忍び寄っていたかは皆目見当もつかなかった。そして最寄りの飯田線は当初から電化された路線であったから蒸気機関車が走ることもなく、この詩の世界はなかなか想像しがたい(ここでいう「機関車」は蒸気機関車とは限らないのかもしれないが)ことも事実である。すでに合理化が進んでいたところからみれば、車社会の走りが少しばかり見え初めていたのだろうか。この詩と例の尼崎線の列車事故がわたしにはダブって映る。後者は合理化というものではなく、現代的なコスト削減という名にすり替わったと思えば良い。すると運転手の悲惨な心理状況が浮かんでくる。多くの乗客を乗せる責任と、業務命令。そのなかで個人のこころが揺れる。ときには間違いがあってもしかたがない、とはこうした世界には許されない。そう思えばわたしたちの仕事はずいぶん責任が薄い。説明しだいでは犯した罪から逃れることもできる。

 和田さんはあとがきにこんなことを記している。「青春の疑問といおうか、とかく安易な日日におし流されていく自分がみじめに思えてきたのは。そのとき詩を見つけ詩の中に自己の支えをもとめようとした」と。「青春の疑問」まさにわたしもそんな思いで詩を書き留めたが、和田さんのような詩は書けなかった。日々くり返される日常における現場の葛藤の差なのかもしれない。もちろん文才のないこともその理由ではあるが。また「青春の疑問」を解き放つ場が展開されていたことが羨ましくも思う。誰でも抱くもの、それをいかに解き放つ場を設けるか、あるいは自ら探していくか(わたしは探していてNew群れにたどり着いて和田さんに出会った)。そして現代の若者にはそれがないのかあるのか、疑問に対してやたら声を大きくしていたかつての自分の姿と、今の会社の若者との違いも意識しながら、あらためて和田さんの詩の世界に導かれていく。

 続く


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