Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

4度目の“田の草取り”

2019-07-26 23:27:28 | 民俗学

 

 今週、水田に田の草取りをする人の姿を見た。除草剤によって草の発生を抑えるようになってからというもの、田の草取りをする人の姿はすっかり減ったが、今もって田の草取りをする人をときおり見かける。過去に田の草取りのことは何度か触れている。2012年2008年、さらに2005年にも同名タイトルで「田の草取り」を記した。腰を曲げて田を這いずり回るのは、けっこう大変なことで、農作業の中でも辛い仕事ナンバーワンになるのではないだろうか。ということで、わたしは好んでやらなかった分、妻が大変苦労した。最近は妻も大変になったようで、除草剤がかつてより増えたのかもしれない。

 さて、以前の「田の草取り」でも触れた通り、それほど辛い仕事なれども、意外に『長野県史民俗編』への記載は少ない。まずもって「田の草取り」という項目がない。近在の田の草取りについて記述されたものを既存資料から拾ってみた。

 

■『伊那谷の民俗覚書―飯島町石曽根の四季―』唐沢千明(私家版 平成12年)

   雨が降れば田仕事が待っておる。田の除草は専ら手で掻きとるより方法はない。夏蚕 の始まらぬうちに精々間に合わせておかねばと、蓑笠姿で、大雨のときは背中に油紙を 被ってみるが、それ位では防ぎきれぬ。雨は襟元から背中へ伝い流れる。

  この時分には篤農といわれる人は、田草取りは一回やる毎に一斗増産できるといって努力した。後に雨天の入田、土の掻き回しは稲の根を切り生育阻害を起こすといわれるようになった。除草剤など夢にも浮かばぬ時代のことである。

  炎天下で田草取りをやるときは、背中を覆うように青草を四、五本腰に挿して心ばかりの日除けを作った。しかし顔は煮えるように熱い田水に面し、背中は陽にジリジリ焼ける。

  稲の薬はチクチク顔を刺す。それを避けるため顔は頬被りと目の細かい糸網で覆っているが、汗は日に沁みロにも流れ込む。腰は痛くまさに地獄の苦しみであった。

 

■『長野県上伊那誌 民俗編上』上伊那誌編纂会(昭和55年) 

 田の草取

 田植のあとは田の草取りとなる。草取りのことを「そうやく」といった。一番草、二番草と手(人手)のある家では、四回五回も草とりをする家もあったが、普通は三回。田の草取りはやる程良いとされて、炎天下、おもだか・びりも・稗などと取り組んだ。しかし何といっても田の草取りはなりあい(気儘)仕事、一日や二日を争わない。この時期が比較的良い時期で昼休みがゆっくりとれた。養蚕をする家は別である。今では田は掻き回さぬが良いといわれ、除草剤で一度も田の草取りをしない家さえあるが、昔は土を掻き回す程良いといわれた。

 

■『続山裾筆記』松村義也(平成10年)

 田の草取り

-子供をひとねる(育てる)ころは、まだ手で取っていたでね。さんざ這(は)ったに。農協で「げえもねーに、除草剤におしな」ってすすめてくれてねー(赤穂、主婦談)  

手押しの除草機が普及する以前は、田の草取りというと、炎天下を這って手で掻(か)いたものである。

-夏の炎天ずら。いちばんえらいときだでね。はん(榛)の木の枝をおしょって、日よけにそれを背中にしょってさね-知り合いのKさんの話である。

 田の草は、夏じゅうに三回は取る。一番草、二番草と取り、最後は「花スズしょって留め草」といい、稲の花を背中にしょうようにして取った。

 中沢(駒ヶ根市)ではこの田の草取りに田下駄を用いていた。うね間に合わした大きさで、代(しろ)踏みの田下駄より小振りである。下駄にはU字形をした鉄(かね)の薄歯が、底に三重に取り付けてある。

 稲の一うねをまたぎ、縄で下駄の先端を持ち上げながら、尻を引きずるように踏んでいく。こうして鉄の歯で草を踏み込み、同時に土を起こすこともしていく。鉄の歯は村の鍛治屋さがこしらえたという。

 中沢ではたいがいの家が、この下駄による田の除草を行っていたようである。これは田の除草具としては珍しく、農具を書いた本にも出ていない。あるいはこの土地だけのものかも知れない。話題にしてよい除草具である。

 一昨年の夏、中山(中沢)のあるお宅にうかがった折、ふと見ると物置にこの田下駄がかかっており、下ろして写真をとらしてもらった。家人が、「あれ、そんなものどこにかかっていつら」と、すっかり忘れていたようであった。(平二、七、一五)

 

■『長野県史民俗編』第二巻(二)仕事と行事(昭和63年)

田下駄

 ○フマセや田の草取りに使った。木製のわく型と金属製のワカンジキ型とがあった。(T末-北割)

 ○田の草を踏むのに使った。後、カレシキを踏み込んだり、整地に使うようになった。古くは木製で、後に鉄製になった。(S40-中山)

ゆい  田の草取り

 ○田の草取りのときに行う。(西掘、S351小和田、笹原、南大塩、大池、S17-払沢、S30-門前、野底、中坪、青島、北福地、S40-山本、御堂垣外、大草、新井、久米)

 ○田の草刈りのときに行う。(勝間、浅野)

 

生産暦

  田植えあがりにはノーヤスミ(農休み)をする。かつては六月二十八日ときまっていたが、近年は六月十二日ごろに休む。餅をついて食べ、田植えを手伝ってもらった人に賃金を支払う。近年は機械田植えにかわったので、ユイや人頼みをすることが少なくなった。

 田植えが終わって一〇日くらいたつと、一回目の田の草取りをした。農休み前に二番草まで取り、二番草から一五日くらいして三番草を取った。三番草をアゲドリといい、田の草取りの最後であった。現在は除草剤を使うために、田の草取りはしない。三番草を取るころには春蚕が掃きたてられていて、蚕の合間をみて草取りをした。

 農休みが終わると、田の草取りや養蚕の仕事などが忙しくなった。田の草は三番草まで取った所が多いが、仕事の手順が悪く、もたもたしていると三番草を取るころには稲に花が咲き始めた。駒ヶ根市赤穂市場割では、ハナスズショの止め草といって、背中いっぱい花粉が落ちるようになっても田の草を取っていると、稲の根を切ってしまい、せっかく実りに向かっている稲を若返らせてしまうので無駄なことをしていると笑われた。今はほとんど除草剤を使ってすませてしまう。

 

諏訪市小和田

  田植えがすんで一五日ぐらい経つと、一回目の田の草取りを行った。昔は稲の花を背負って一度は田の草を取らなければいけないといわれ、一五日から二〇日おきくらいに四回取った。最後の田の草は、盆ごろに取ることもあった。田の草取りにはオヤテートが来ないので、近所で人手をみつけて頼んだ。

 

原村払沢

  田の草取りは、植えてから一〇日目くらいに一番ゴをとった。このときは苗の植え直しなどをしながらとる。一番ゴから一五日ぐらいして二番ゴを、さらに一五日くらいしてから三番ゴをとった。三番ゴをアゲドリともいい、このころに花が咲くおもだかを取るのが目的だった。今は除草剤を使うので、田の草取りはしない。

 

駒ヶ根市市場割

  農休み過ぎぐらいには蚕が掃きたてられた。同時に田の草取りの時季にもなる。女衆は掃きたてた蚕の世話をすませると田の草取りに出かけて行った。大百姓の家では田の草も家の者だけではできないので日雇い人を雇った。「夏の田の草三度が限り、後はオモタカ咲かどまま」と歌にもあるように、田の草はだいたい一〇日おきくらいに三度取るのが普通であった。夏の日盛りに大きな田の田の草を取るのは、背中から照らされて大変な仕事であった。田の草は七月いっぱいくらいには取り終わるようにするもので、ハナスズショの止め草といった。それ以後に取っても稲を若返らせて実りを遅らせるだけで、無駄なことだという意味である。

 


コメント    この記事についてブログを書く
« お囃子の練習(天神祭り)を... | トップ | 大宮熱田神社例祭の獅子舞⑦ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

民俗学」カテゴリの最新記事