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大宮熱田神社例祭の獅子舞⑦

2019-07-27 23:14:57 | 民俗学

大宮熱田神社例祭の獅子舞⑥より

 繰り返し登場している、嘉永2年(1829)に書かれたという「大宮大明神祭礼順規定」を社務所で見せていただいた。嘉永2年の規定に始まり、現在までの「社中打合せ会議決定事項」までが綴られた冊子の鏡には「社中打合會議録」とあり「郷社大宮熱田神社」の添え書きがある。その最初が嘉永2年のもの。そして次に綴られているものが、大正5年のもの。この間の規約はない。宮司さんによると、現在の宮司職をされている方が大宮熱田神社に入る前の宮司さんの時代のものがないのだという。そもそもその間規約があったのかどうかはわからない。

 嘉永2年の規定はそれほど詳細なものではない。当時は4村だったようで、「ト年」は丸田村、「エ年」は大久保村が先頭になったようで、交替して先頭をつとめたようだ。そして3番が立田村、4番が北条村とされていた。このことについて各村の組頭と庄屋の連名で「嘉永二酉年七月」に定められた。これが現在の決定事項につながっている。

 大正5年の記録に至ると、だいぶ細かいことが定められている。「大宮熱田神社宵祭應對ノ禮並ニ式ノ順序ヲ定ムル事左ノ如シ」として、18項目が記されている。

①各区青年は、日没までに執行するか故障のため執行しないかについて通知すること。

②丸田と大久保の舞台順は、隔年先頭とする。その根基は「嘉永二酉年七月ノ規約ニヨリ「丸田ト年」「大久保エ年」ヲ以テ先頭タルモノトス」とある。

③丸田の舞台が柳坂頭に至ったら、大久保が出迎えて挨拶をする。その挨拶の要領は「今晩ハ御目出度ウ」「御苦労様」とする。

④丸田の舞台が大久保落合四ツ辻に至ったら、両区は応対の礼を行なう。その方式は丸田は道の南側、大久保は道の東側に整列し、「先ツ今晩ハ御目出度フ」と唱和し、先頭区は「先例ニヨリ御先ヘ御免」、後の区は「御通リ下サイ」と挨拶をする。

⑤丸田か大久保の舞台が八幡社前に至ったら、北条はこれを出迎える。挨拶の要領は③に準ずる。

⑥削除

⑦北条区の舞台庫前に至ったら、丸田と大久保は道の東側に、北条は西側に整列し、挨拶をする。その要領は③に準ずる。

⑧下立田と上立田は、別に定める規約に基づき、隔年に先頭とする。

⑨下立田舞台が学校南隅に至れば、上立田はこれを迎える。

⑩両立田の舞台が役場前に揃ったら、挨拶を行う。その挨拶は④に準ずる。

⑪両立田の舞台が一本松に到着したら、北条はこれを出迎える。その要領は③に準ずる。

⑫各区舞台が北条区の大日前三ツ辻に至ったら、丸田、大久保、北条の舞台順によって道の西側に、両立田は道の東側に整列し、挨拶を行う。その方式は、北条区より「御揃ヒニナリマシタカ」、各区が「揃ヒマシタ」と答えると、北条区より「今晩ハ御目出度フ」「先例ニヨリ御先ヘ御免」「御通リ下サイ」などと応対する。

⑬各区の舞台は順次大宮社前に至り、お祓いを受けると通過し、適当な場所に止め、順次神楽殿において神楽を奏す。

⑭神楽が終われば、各区社前に整列し、挨拶をする。その方式は北条は西側、両立田は北側より東に、丸田大久保は舞台の順により立田に接し東側より南側へ整列し、円形の座を作り、北条区の発言によって「御揃ヒニナリマシタカ」、各区は⑫の方式により応対し、揃っていれば、北条区の発言によって「御手打チヲ願ヒマス」、一同手打ちをし「先 今晩ワ御目出度フ」と言い、解散とする。

⑮⑭の挨拶をしたら、順次引き揚げる。

⑯大日前三ツ辻において挨拶をする。その方式は、両立田は道の東側、丸田、大久保、北条は舞台引き揚げの順序により西側に整列し、挨拶をする。

⑰北条区は各区に対して出迎え場所まで見送る。

⑱両立田は役場前、丸田大久保は大久保四ツ辻にて、別れの挨拶をする。

以上のようなものである。削除された⑥には、丸田大久保について、④の後、舞台進行を妨げない範囲で、神楽を随時舞っても良いというような内容のもの。挨拶の言葉はもちろんのこと、かなり細かいところまで決められている。ここまで細かく規約が定められたのは、争いが度々あったためだろうか。

以上規約は、正本6通作成し、各総代調印の上社務所、及び各区1通所持するものとする。当時北条は南と北に分かれていなかったようである。

続く


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