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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

楡の集落を歩く

2024-06-24 23:59:52 | 地域から学ぶ

 安曇野市三郷楡の集落を歩いた。知らない土地ではなかったが、今まで特別意識することも無かった「楡」でもある。記憶が定かではなかったが、この集落にあった同僚(先輩)の家を遥か昔に訪れたことがあった。何かの研修の後に、「ちょっと寄れや」と言われて立ち寄ったことがあった。40年と近く前のことだ。したがってその家が「楡」であったのかどうかも定かではなかったが、歩いていると同一姓の家が多かったこともあり、「もしかしてこの集落だったのかも」と思ったわけだ。そこで地元の方にかつて同僚だった方の名を口にすると、「この家」と示されたのは、直前に説明を受けた家だった。歴史上に名が刻まれた家とは、これまで全く知らなかった次第。

 安曇の三郷といえば「貞享義民」が知られる。後に「義民」として祀り上げられた印象はあるが、原点は江戸時代貞享3(1686)年に松本藩に起こった百姓一揆である。かつて明治維新後松本城は存続される道を歩んだが、当時の松本城は傾いていたと言われる。その傾きは貞享騒動の首謀者多田加助が磔となった際に、松本城をにらんだせいで傾いたと語られるようになった。この話は明治以降につくられたものと言われているが、それほどこの地域において貞享騒動は、歴史上の大きな出来事であったと言われている。その貞享騒動の詳細は、ウィキペディアなど多くのページで記されているのでここでは触れないが、磔となった者8名、獄門となった者20名と言われ、磔となったのは多田加助のほか、小穴善兵衛、小松作兵衛、川上半之助、丸山吉兵衛、塩原惣左衛門、三浦善七、橋爪善七、以上8名だった。多田加助に次いで一揆を首謀したと言われる小穴善兵衛、その末裔がかつての同僚とはまったく知らなかったこと。ナンバー2と言われた小穴善兵衛は、16歳の娘と子、弟とその子、さらに弟、と6名が磔、獄門となっている。さらには磔となった小松作兵衛の妻は善兵衛の妹だったという。何より当時は女性が処刑される例は珍しかったと言われている。ちなみに説明するまでもないが、磔は罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑をいい、獄門は死後に首を晒しものにする刑を言う。見せしめとはいえ、非道な処刑とは今だから言えることかもしれない。

 

楡の集落と本棟造り

 

 さて、現在の楡の集落を歩いて思うのは、豊かな村であるという印象。もちろんそうした集落であっても広い屋敷が無住となっている家も少なくない。燕返しの付いた本棟造りの家も見えるが、多くは戦後の建物と思われる。こうした光景は安曇野には顕著に見られるが、背景としてなぜ本棟造りが好まれたか、興味深い点でもある。実はかつての同僚の家も本棟造りの母屋があり、そのあたりを聞いてみたいと思い、立ち寄った次第。

 

北村の道祖神と墓地

 

上手村の道祖神と墓地

 

住吉神社

 

 北村と上手村の道祖神の写真を取り上げたが、いずれも墓地の入口に建てられている。集落と墓地、そして道祖神の立地を見た時、そもそも墓地は集落において中心に当たるのかもしれない、そう見えた。その上でこれも安曇野らしい光景だが、それらと堰との立地も興味深い。それほど堰(かんがい用水路)が多い。そもそも江戸時代に一揆が発生した要因に、水が乏しかったという事実がある。堰が開発されたことにより今のような豊かな姿を作り上げたわけであるが、そのいっぽうで楡の地には不思議な光景がある。今でこそ下流側に排水路が整備されたが、かつては黒沢川が楡の集落直上で消えていた。ようは川の末流がなく集落西側にある住吉神社の直上で消滅していたのである。広大な社有地は、黒沢川の水を吸収していたとも言われ、集落を護るための住吉神社であったとも。扇状地面であるからこういうケースは他にもあるのだろうが、これほど歴然とした例は珍しいのではないだろうか。

北村の墓地内にある貞享騒動50周年忌供養塔

 

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