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“ホンヤリ“の傘 ⑥

2019-01-24 23:51:12 | 民俗学

“ホンヤリ“の傘 ⑤より

 阿智村浪合(旧浪合村)のコンブクロについて触れたところだが、「“ホンヤリ“の傘 ③」で扱った「松焼き行事の“傘”と“幣束”」分布図によると、南隣の平谷村にも「傘と幣束」の記号が記されている。浪合のコンブクロは、行事そのものをそう呼称しているが、詳細に見れば傘に付けられる飾りのことを言う。飾りの呼称をとってコンブクロと行事を呼び始めた理由は定かではないが、むしろ傘の付いた依代である柱状のものに注目するべきなのだろう。そしてそれは櫓とは別に作られる。牧内武司氏の報告でも櫓とは別の柱としてオンベが立てられていたようで、最終的にはホンヤリで焼かれるが、別のものであったことは確かだ。次に、平谷村でかつて行われていたと言われる「花傘行列」について見てみよう。ちなみに、『長野県史民俗編』第二巻(二)南信地方 仕事と行事にし次のような事例が報告されている。

雨傘に色紙を張って作った花傘と、太い竹の大きな幣束をつけたオヤジ、大旗、小旗を作り、一月四日から旧一月十四日まで、子供たちがムラを練り歩いた。旧一月十四日にはムラの各戸の門松を集め、花傘を中心にしてマツオサメをしヒキリウスで火をおこしマツヤキをした。今は一月七日にマツヤキだけをする。(S9-柳平)長野県史民俗編』第二巻(二)南信地方 仕事と行事 530頁

すでに遠い時代に終えてしまった習俗であるが、浪合のものに似ていることがわかる。ここでは「花傘」と呼んでいる。この事例について『平谷村誌下巻』(平成8年 平谷村誌編纂委員会)に詳しく報告されている。それによると、とくに盛んであったのは、大正7年から昭和7年ころまでであったという。その間15年ほど。なぜその間だけ盛んであったのか詳述されていないが、もしかしたら他の地域でも同じような流行があったのかもしれない。子ども主体の行事だっといい、新暦の大正月から旧暦で行なう小正月まで、十数日にわたって傘貼りが行われたと書かれている。その傘貼りもまた行事の一連のもので、傘貼り・行列行進・終納という3段階で進められた。この傘は3箇所で作られたようで、川西は新町薬師堂、川東は向町庚申堂、柳平は個人宅だったという。そして参加者は小学校中学年から、二十歳以下の青年までかかわった。傘に製作については次のように記されている。

 花傘作りは、二層にする場合と、三層にする場合とがある。傘を三つ重ねる場合は、下層は蛇の目の大型、三層は普通傘、上層は日傘の小さいものとする。傘の柄を次々と重ね上げられるように穴を開けてつなぐ。各々の傘に色紙を貼り付けて市松模様にし、傘の上は造花の牡丹で飾りたてる。傘の周囲に短冊と色紙を網切りにしたものをつるすと、中で傘を持っている人が見えないくらいになる。三層にすると見事な二階の傘になる。上層の傘の上には、十二支の動物を綿で作って載せ、中央には金銀の幣束を立てて飾る。色紙・金銀紙・造花・短冊等で飾りたてるので、絢欄たる傘の塔ができ上がる。

 傘を何層かにするのは浪合の例と同じだ。また傘に網状の飾り物をつけるのも同じである。この花傘とは別にオヤジという幣束も作る。各戸から集めた紙や習字によって幣束を切るもので、直径12センチほどの孟宗竹1メートル長のものに挟み込むという。また、大旗は畳3畳くらい大きなもので、旭日旗のような模様を入れたようだ。小旗は子どもたちの数分作られた。前述したように新暦の大正月から旧暦の小正月までと言うから、1ヶ月ほどこの製作に要した。花傘行列の日は、子どもたちの「ヨーイショ」の掛け声で町中を練り歩いた。そして他地区の行列と出会うと「歳の神はけんか好き」といわれているように、必ず乱闘が始まったという。その際標的にするのは、相手の花傘だったという。ここに行列の中心が花傘であることがうかがえる。こうした花傘行列を繰り返した後、松焼きの日を迎える。当日のことについては次のように記している。

 町内の練り歩きが一〇回くらいにも達するころには、旧正月の松焼きの日となる。各戸から集めてきた門松の他に、量を増すために薪も集める。その薪を五、六mも高く、井桁に組み上げて松で囲み、最上段に花傘行列の工作品を飾り付ける。やがて、青年衆が古式にならって、槍の棒をこすり合わせて発火させ、点火する。この時に、各戸から占いお札幣束を持ち寄って焼く。この火の中へ習字をした紙を投げ入れて、高く燃え上がると字か上達するといわれた。また、この火で餅を焼いた残り火の木尻を家に持ち帰り、燈明を上げたり粥を炊いたりした。

 ここでは井桁に組んだ櫓が作られ、その上に花傘が付けられる。依代としての花傘で町中を練るのは、いわゆる傘鉾の考え方に等しいと見られる。厄を引き受けた花傘は、最後に焼かれることによって厄が封じると考えられたものなのだろう。

続く


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