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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

“ホンヤリ“の傘 ⑤

2019-01-20 23:42:20 | 民俗学

“ホンヤリ“の傘 ④より

 正月の空に寒風にひるがえる新春恒例の「おんべからかさ」も終戦後は暫く絶さてその姿を見受けられなかったが近年はまた村部の所々に復興されて来た様である、そしてまた「どんど焼」「ほんやり」も勇ましく行はれ始めて、またどうやら昔を偲ぶ正月風物詩が賑かに懐古的な気分が蘇がえってきた。 いま五色の紙で飾が貼られたあざやかな傘と白い御幣は昔の如く踏襲されている様子を見受けられるが、私たちが少年の頃には盛んに造られていた「こん袋」が今は姿を消してしまった様である。

 これは前回触れた牧内武司氏が、昭和48年の1月に『伊那』(通巻536号 伊那史学会)へ寄稿した「歳神様のおみやげ・こん袋」の冒頭である。こん袋への思いを語ったもので、戦後「おんべからかさ」が復活してきた様子を記している。「“ホンヤリ“の傘 ③」で触れた分布図でわかるように、町村誌などに見られる事例は少なく、飯田市では『長野県史民俗編』の事例にとどまっている。傘と幣束という形式は、飯田市の南阿智村や平谷村に事例を拾うことができる。浪合のコンブクロについては、毎年小正月行事として地元の新聞に報道される。近年坂本要氏が傘鉾の事例として浪合のコンブクロについて何度か報告されている。平成25年発行の『上伊那の祭りと行事30選解説書』(井上井月顕彰会・ヴィジュアルフォークロア)に坂本氏は旧浪合村で行われているホンヤリについて上・下中・宮本と荒谷、上半堀3箇所の傘の事例について報告している。

 まず上・下中・宮本では5メートルほどの竹に2本の番傘をつけ傘の骨に五色の色紙を貼り、先にオンベをつける。これを「コンブクロの傘」と坂本氏は表現している。これとは別にオンベのつけた竹も作られる。「コンブクロの傘」が下中・宮本・上と巡回する際には、オンベを先頭にコンブクロの傘がまわる。子どもがコンブクロと掛け声をかけてまわり、巡回する際に家々でコンブクロが吊り下げられていく。この際、傘の下に人が入るとクルクルと傘をまわすようで、これは厄除けとされている。現在傘に下げられるのは、網状の切紙で白い障子紙や広告紙で作られるが、かつては新聞紙や色紙で作った紙袋に豆や麦や米の五穀をいれたものを下げたという。巡回した傘はオンべの先にダルマをつけホンヤリの最上部につけられ、オンベの竹とともに、ホンヤリで焼かれる。坂本氏によると「コンブクロは傘に吊り下げる飾りのことであるが、その傘をコンブクロといったり、その傘が町中をまわることをコンブクロというようになったと思われる」という。

 いっぽう荒谷では「傘まわり」といっており、30軒ほどの家をまわっている。「傘まわりが来ました」といって網状の飾りをつけてもらい、傘の下に入ってもらうという。また、上半堀は傘と飾りが作られるが、家をまわることはないという。以上坂本氏の報告されたものの要約である。ここからうかがえるのは、傘が巡回することをコンブクロと呼んでいる上・下中・宮本に対して、荒谷では「傘まわり」、下半堀では各戸を回っていない。いずれにしてもホンヤリに傘が付けられるのは焼く時で、それまでは傘は単独の意味あるものとして存在している。これは、牧内氏が報告された「おんべからかさ」と共通する。

 残念ながら、こんぶくろの画像がウェブ上には乏しい。あえて雰囲気を捉えるとしたら、この写真だろうか。ただし、これは荒谷のもののようだ。まさに傘で、柱という印象ではない、むしろこちらが上・下中・宮本のものなのだろう。

続く


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