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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

大根地蔵

2016-03-28 23:05:26 | 歴史から学ぶ

道の先は平谷村

 

大根地蔵(角三地蔵)

 

台石の銘文

 

 平谷村の中心部にある国道153号線と国道418号の交差点から西へ国道418号を下ると、平谷川の渓谷に入る。4.3キロほど下ると長野県境である。岐阜県に入る手前に五軒小屋と言われるところがあり、かつては集落を形成していたようだ。合川という川を渡ると岐阜県上矢作町(現恵那市)に入り、ここから平谷川から上村川と川の名前が変わる。上村川の右岸は岐阜県であるが、左岸側はしばらく長野県となる。岐阜県に入って2キロ近く下ると国道418号の達原トンネルに入るが、その手前の山手に「海」という集落がある(正確にはあったといった方がよいのかも)。このトンネル入口が見える200メートルほど平谷側のカーブのところにコンクリート造りの祠の中にお地蔵さんが一体祀られている。一見すると交通事故で亡くなった方を弔うために建てられた道端のお地蔵さんと捉えられがちだが、このお地蔵さんには深い悲しみが刻まれている。台石には次のように刻まれている。

維時昭和六年十月二十二日十二才少年小椋角三於此地為悪寒横死血縁者建之

『平谷村誌』下巻(平成8年)に「下校途中に惨殺された事件}と題して次のように記述されている。

 昭和六年十月二十二日 五軒小屋から上矢作に通じる上村街道で、下校途中の学童が悪寒に襲われ、惨殺され臓器をうばわれるという、数奇残虐な事件が起きた。
 この日少年は下校途中、親戚から大根をもらって、五時ごろ一人で海地積の我家へ帰る途中であった。
 犯人は住所不定の土工で、重い性病を患い、「申年の男子の肝臓を食べれば癒る」という忘信にかられて、申年生まれの少年を狙っていた。
 犯人は土工の朝鮮人と共謀して、少年を路傍の茂みに誘いこみ、惨殺して生き肝を切りとって食べたという。
 村人・消防団こぞって、少年の行方を捜査した結果。惨めな遺体を発見、村中が恐怖の底につき落とされた。

 前述したように「海」は岐阜県上矢作町の地積にある。へんぴな地にある「海」では上矢作の学校へ通うよりも平谷の学校へ通ったほうが近かったので、平谷に寄留して平谷の学校に通っていたという。実はこの事件のことを詳細に記されているのは、先日も紹介した「お薬師さんと眼科」でも紹介した平谷村の小池筆男さんの本『山村の今昔』(平成11年 自費出版)である。そのタイトルが「大根地蔵」というもの。それによると五軒小屋に角三の祖母が住んでいた。学校帰りに「大根をやるから、家まで背負っていきな」と祖母に呼び止められた角三は、カバンを上級生の平吉にあずけた。平吉たちは一足先に海にある家に帰って行き、残った角三は祖母と一緒に大根を採って祖母に背負わせてもらった大根を背に見送られたという。そしてもう少しで「海」というところの曲がり道で、悪寒に襲われた。帰ってこない角三を探して村中が大騒ぎになったという。なかなか見つからずに3日目の24日朝10時ころ、川っぷちの茂みの中で角三は哀れな姿で見つかった。それからというもの村人は恐怖の日々をおくったという。主犯格の曽我滝が捕まったのは翌年の2月18日のこと、王滝村の製材工場の飯場だった。

 一見80年以上も経過しているお地蔵さんには見えない。きっとお地蔵さんを祀った人々の思いが詰まっているから、今もって昨日のようなことのようにお地蔵さんは事件のことを伝えているのたろう。ちなみにこの上村街道(国道418号)が平谷川沿いに開削されたのは明治15年だったという。とはいえ当時は人馬が通行できる程度のもの。道幅6尺に広げられたのは明治27年という。それから30年も立っていない年の大事件だった。


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