Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

50円ばばあ

2008-09-19 12:30:05 | ひとから学ぶ
 太田光は、NHKで放映された爆笑問題のニッポンの教養「“学校の怪談”のヒ・ミ・ツ」において「50円ばばあ」について触れた。初耳のフレーズなのであるが、怪談話ではなく実在する人の話として紹介している。学校帰りに近道すると「50円よこせ!」といって婆さんが通せんぼするというのだ。その事例の具体的設定は紹介されていない。たとえばその道が公のものでなく私有地を通過するものなのか(「林」と言っていたから民有地か?)、あるいは公の道ではあるものの、何らかの私有空間があって、その空間を利用して意図的に通行料を取ろうとしているのか、また完全なる公の空間で子どもたちを利用して金銭を稼ごうとしているのか、実際の背景によってはその視点は違ってくる。怪談ではないにしてもこうした語りが存在しているところに、子どもたちにとって怪談だろうが噂話だろうが、背景はそれほど関係ないという意識が見て取れる。おもしろい話を作るのは子どもたちの自由な発想からなのだろう。そしてそこに「怖い」とか「汚い」といった特別な意識が必ず織り込まれていくことで、より一層物語りにひきつけられていくのである。50円ばばあも太田によると怖かったという。話の筋から太田は「見たと言い張っていた」というから、学校の間で誰もが見たことがあるわけではなく、「あそこを通ると50円ばばあが出るというもので、話しぶりからすれば妖怪話に似ている。けして妖怪ではなくても話しそのものは妖怪となんら変わらないものと変化していく。場面の雰囲気から推察すれば、よそ様の土地を勝手に「近道」だからといって通ることに対して、とても不愉快に思っていた地主が、「通るのなら50円支払え」と催促することにより「認めてもよい」という了解が生じているのである。子どもたちにとっては道とよそ様の土地も関係ないわけで、「近い」と思えば通りたい。しかし世の中の常識では民有地を勝手に通ってはいけないという認識があるものの、「そのくらいいいじゃないか」という駆け引きになってくる。これは子どもの社会だけにある感覚ではなく、大人の社会でも十分にあるケースで、そこに居合わせた人が、「この方が得策」だと思えば、少しくらいいけないことと解っていても行動を起こす。よそ様の土地を通る、という行為にはそうした駆け引きが常にある。

 きっと太田の中では「50円よこせ」という予想外の求めが印象深く、またそれを求めた婆さんがすこしばかり妖怪じみて見えたから噂話、しいては妖怪話に近いランクまで押し上げられたのだろうう。昔の子どもたちにとって、日常顔を合わせるおじさんやおばさんに対して印象を冠して○○おじさんとか、○○おばさんといった称号を与えることがよくあった。もちろん現代においても少なからずそうした子どもたち独自の共通した称号を持った大人が存在しているのだろう。簡単に言えば愛称ということになるのだろうが、角度を変えるといじめにつながったりする。しかし、それをおおらかにみていた時代と現代とでは差があることは誰もが感じていることで、実在の妖怪もかつてに比べれば絶滅危惧種ということになるだろうか。
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