Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

玉子焼きになぜ「でんぷん」なのか

2008-09-21 12:42:06 | つぶやき
 長野市内の小中学校に納められていた給食用の玉子焼きに事故米が混ざっていたという報道がされた。例の事故米については、完全に関係業者が発表されているわけではない。西日本を中心に流通していたということは、発表された関係業者名からもうかがえるが、これほど大量に流通していた以上、どこにでも紛れ込んでいた可能性はある。加工用材料に関して、生産国はもちろん、その課程の流通業者が明示されているわけではないから、食材などというものはいかに「信用するもの」が前提であるかが解るだろう。それを不審であると見ることじたい、違和感のある世界の話である。

 わたしのようにふだん料理にかかわっていない人間だからこんな素人な印象を受けるのだろうが、玉子焼きになぜ「でんぷん」が必要なのか、ということになる。妻に言わせると「そんなの常識でしょ」と言うが、もちろん自宅で作る玉子焼きにでんぷんなど必要ない。だから「そんなの常識でしょ」という妻が常識だとは、じぶんのなかでは信じがたいのだが、店頭に並んでいる惣菜の玉子焼きの世界では当たり前のことなのである。でんぷんを使うのは型崩れしないためとも言うが、それだけではないだろう。玉子だけで焼いたものとでんぷんをつなぎとして混ぜたものでは、当然同じ大きさのものを作る際に玉子の数が違ってくるはずだ。ようは嵩ませるために役に立っているのだろう。品質第一という日本の加工品に限らず製品意識、そこから生まれる発想は「均質」である。それも毎日同じでないと納得しない。自宅で玉子焼きを焼いて、「今日は焦げてしまった」で済むかもしれないが、製品として出荷される場合はそうはいかない。品質を上げる、そして毎日同じものを供給する、そんな意識のなかで、この国の食材も工業製品と同じ感覚に変化してきたのである。農産物などをみればそれはよくわかる。均質な野菜を作るなどということは、なかなか難しいことなのだがそれを望んできた。まさに工業立国した国の成功に裏打ちされてきた意識といえるだろう。

 そんな均質化と言う面において、玉子焼きにでんぷんが必要だったのかもしれない。型崩れしないためにということは、ようは出来上がった製品がいかに変わらず消費者の食卓に並ぶか、ということになる。そしてそんな意識が学校給食に必要かと問えばノーなのであろうが、食材を提供する側は競争のなかでそういうわけにはいかない。なぜ学校給食の玉子焼きに「でんぷんが必要なのか」という問いをしない限り、この国の事情はどうにもならないのだろう。常識と言われるこうした事情が問題があることは言うまでもないが、果たしていかなる方向に改善されるのか、またされないものなのか、長い時間が必要なのたろう。

 息子が同級生の弁当に入っている玉子焼きがあまりにもきれいなので、そのことを問うと「だってこの玉子焼き、チンだもん」と回答があったという。今回学校給食に出された玉子焼き同様、冷凍玉子焼きなのである。そんな玉子焼きを食べてその同級生は東大を目指しているというのだから、農水省の現実を見たり、といったところではないだろうか。
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