Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

女性は冷たいか

2008-09-15 10:53:47 | ひとから学ぶ
 自民党総裁選でがぜん注目を浴びているのは、麻生氏絶対有利と言われている中で逆転勝利があるのかということで、その焦点が当たっているのは小池百合子氏である。次期総選挙で勝利はできなくとも議席数を致命的に落とさない顔として小池氏がもっとも有利という声が上がっている。岸井成格氏(毎日新聞特別編集委員)が昨日の報道系番組で口にしたように、印象として小池氏が顔としてはもっとも受けが良いだろう。かつて社会党が土井委員長を擁したときのように、いよいよ女性に頼らざるをえなくなっている自民党の現状が見える。

 上野千鶴子氏が信濃毎日新聞9/15月曜評論において「女性総裁は生まれるか」と題して、日本で初めて最高権力者の地位を争うレースに女性が参加したことについて触れている。男女平等の社会と叫ばれるものの、権力を持つ立場に男性も女性もないだろう。しかし、同じ場に男性と女性が立った場合、女性のほうが有利であるということはこれまでの男女の地位格差の影響があることは確かだ。ようは女性は立場として低かったから女性を選択する可能性は高くなる。もちろん逆説的にそれを否定する女性も少なくないかもしれない。しかし、男性の顔には従来の流れが見えてしまうのに、女性の顔には「何か違う」という雰囲気を漂わせる。総裁選の投票をする国会議員はもちろんだが、党員となれば男性が圧倒的に多いだろう。したがって総裁選において女性の顔が有利ということはないが、国民相手ともなれば違ってくる。本来そんなレベルの低いところで首相を、あるいは政権を選択するものではないだろうが、あえてこのごろの人気商売である政治の世界においては、最善の策をとればそういう選択もありうるのである。小沢民主党が次期総選挙は政権を執るための選挙と捉えている。ようは自民党よりも多く議席を獲得することを最優先に考えている。そのためにどういう配置をするべきかを当然考えているだろうが、そういう策に対応するのに、小池氏が必要だと思う自民党員がいるかどうかということになるのだろう。今はいっそ政権を渡してみればよい、という意見の自民党員も少なくないかもしれない。果たしていかなることになるのか。かつて長野県において田中康夫という知事が誕生した際、そのあまりの変わりように住民は対応しきれずに、元の鞘に戻った。いまや自民党の中でも二大政党への道は当然のことという意識があるように、もはや自民党一党独裁政権の時代ではないということを認識している人たちが多い。そうした中ではつまるところ政権を獲るための計算がされる。意外にも女性候補の誕生という事実か゜それほど話題にはなっていないが、果たして女性の顔に期待する時はやってくるのだろうか。

 さて、上野氏は女性リーダーが必ずしも国民に優しいとは限らないということをこれまでの事例からあげている。鉄の女と言われたサッチャー氏の例は言うまでもない。クリントン氏が女性として初めてのアメリカ大統領になれなかった背景も、どこかそうした女性のリーダーの冷たさがあったからではないのかと漂わせている。男性と女性、そうした対比をすると女性は優しいという言葉が返ってきそうだが、実はそれは違う。生活の中でもどこかでそれを認識している人は多くないだろうか。ようは女性は冷たいというより強いのである。とくに日本においては女性の地位は低かった。そうしたなかで裏方として自らの立場を把握しながら成長した女性が、表の舞台に出て行くということは男性よりも強い意志と経験が必要なのだろう。そうした背景をみれば、簡単に人に弱みを見せるようなことはしない。そこへゆくと男性ばかりの世界でなじんでいる男性は、気を緩ませてしまうことは必ずあると思う。いざというときに女性は冷徹であって当然なのである。

 などと解ったようなことを述べたが、そんな世界とは無縁なわたしには印象に過ぎない。まったく別世界の話であるが、先日妻が我が家にある卓球マシンを売ろうと考えていることを知った。現在利用していないし、今後も使う可能性がないと判断してのことなのだろうが、わたしなどは子どものために購入したものなのだから、ある意味社会への奉仕品のようなものだ。だから「どこかに寄付したら」というと、そんなことは絶対しないという。考えてみれば世の中には「寄付」というものがあるが、女性よりも男性の方が寄付というものに対しての感覚はおおらかではないだろうかと認識している。「女性は家族の内面的イメージにすぎず、男性は社会的イメージを負っている」という考えもあるが、こうした背景において、男性は社会に対して貢献するためにあるという考えが古くからあるだろう。もちろん寄付する財源はその男性一人で蓄えたものではなく、家族をはじめ多くの人々の支えがあってからこそのものである。しかし、それを役割分担だと思っている男性は少ないはずだ。男性がより人に対してはおおらかであると感じる背景はそうしたところにもうかがえるのである。実際寄付額の男性と女性のデータを探そうと思ったが途中であきらめた。いわゆる募金の代表的な赤い羽根などにおいてはそれほど差がないともいう。募金の性別の差も、昔に比べれば縮まっているのだろう。

 先日のことである。飯田市大平というところに廃村があって、守る会が建物を保存している。そこに草箒を寄付しようと妻は考えて用意した。17軒の建物があるから17本と思っていたが、材料が足らなくて13本しか寄付できなかったという。たまたま息子が行くからといってそういうことになったようだが、この寄付の感覚が男性と女性の視点の違いなのかもしれない。女性の行う寄付は、社会貢献などというだいそれたものではなく、もっと身近なものなのかもしれない。
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