Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

外国人労働者

2008-09-05 12:31:32 | 農村環境
 朝早い時間から、外の道をどこの国の言葉ともはっきりしない言葉を交わす二人連れの声が聞こえてくる。時にはこちらがまだ床に入っている時間である。この二人連れ、最近になってようやく日本人ではなかったことに気がついた。この二人、時にはわたしの通勤時間帯に会うこともある。初めて会ったときには、自転車に乗った若者が仕事に向かう、程度に見ていた。顔つきは日本人離れしているというほどのものでもなく、じっと見つめたわけではないから、日本人と思い込んでいた。それからしばらくの間、毎日ではないが顔を合わし、ときには「おはようございます」とこちらが挨拶をすれば、声は聞こえなかったが、かすかな声で「おはようございます」と言ってくれている程度にこちらは察知していた。若者だから、挨拶なんか恥ずかしいという気持ちでいるから、なかなか声はこちらまで達しない、そういう捉え方であったのだ。若者とはいってもそこそこの歳はとっているのだろうが、若いのに車を使わずに自転車とは「たいしたものだ」という感じであった。都会ならともかく田舎である。若者が自転車などに乗っているだけで「珍しい」という感想を持つ。加えてこの二人、姿はとび職風なのである。いわゆる裾の広がったズボンをはき、ちょっと見た目は怖そうにも見える。そんないでたちの若者が自転車に乗って、あるいは坂だから押して歩いているのだから、ちょっとない風景である。しばらくして、二人が一緒に自転車に乗っていて、交わした言葉が日本語でないことで、日本人ではないことに気がついた。こんな田舎で何の仕事をしているのだろう、近くには工事現場もないし、建築中の家もない。よく考えてみれば、近くにあるリース会社の現場で働いているのだろうと気がつく。

 どこからやってきて、いつまでそこで働くのか知らないが、今や日本の底辺には、大勢の外国人労働者がいるとあらためて知らされた。農業現場でも川上村のレタスではないが、季節労働を中国人に頼っている。少し前なら大学生のアルバイトだったのに、今やそんな労働は視野に入っていないようだ。先ごろ看護師や介護の現場に東南アジアから労働者がやってくるという話が話題になった。「介護」という仕事がいかに底辺的な仕事かということを教えてくれる。資格がどうのこうのというが、資格などなんの価値もないような認識の低さである。にもかかわらず、今後介護の現場はますます必要とされる。まともな仕事は仕事と認めていない国民の考えは、どこかおかしいと言わざるをえない。農業が衰退したのもこんな傾向をみれば当たり前のことである。まずは汗をかく仕事を望む人はいない。かつてなら3Kなるものが口にされたが、身体を使う労働はまともな労働と思われていないのではないか。こうした労働意識がぬぐえない以上、農業など再生などありえないし、国家資格などというものも「必要なのか」と思うくらい価値もないものと化してしまう。正規雇用が約束されない社会で、仕事にありつけない人がたくさんいるというのに、なぜか外国人労働者には働きの場がある。これほどの不自然を何もできないでいる原因が政府だとはとてもいえないだろう。いっぽうで政治の混乱や、雇用のあり方を批判し続ける居間にある情報箱は、やはり別世界ということになる。
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