Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

じょうど

2008-09-11 19:56:47 | 民俗学


 十王については以前「吉瀬十王堂を偲ぶ」で触れた。その際にも紹介した文献に赤羽篤さんのものがあるが、赤羽さんは伊那市大萱の寿翁橋という石柱から「十王」を連想し、このムラにかつてあった十王堂に安置されていたと思われる石造十王を、大清水川のほとりにある竹やぶから見つけ出した。昭和40年のことという。

 大萱の近くの現場に出向いた先日、このムラの中を少し車で走ってみた。そして例の寿翁橋にたどりついた。大萱は中央自動車道の伊那インターチェンジのすぐ西側のムラである。広域農道がムラのほぼ中央を南北に走り、インターチェンジのアクセス道路が交差するということもあって、郊外ではあるが少しばかり混雑感のある空間である。そんな環境だからこのムラを誰もが通り抜けたことはあるのだろうが、あらためて大萱という意識を強く持つことはなかったはずだ。わたしも同じく広域農道の大萱の交差点は数え切れないほど走っているが、大萱の本当のムラの姿を見るのは、この日が初めてであった。アクセス道路の北側に大清水川という川が流れている。この川を挟んでムラが東西に展開するのだが、川に隔てられて南北に分断されている。川の南北に分断されたムラを展開する東西の道があり、その道沿いはいにしえの趣を見せる。かつて川の北を北割、南側を南割といったというが、いずれにしても川に寄り添うようなムラである。おそらくかつてはこれほど大きな川ではなく、ムラの中を流れる小川程度のものだったのだろう。実はこの川、水が一滴も流れていない。「寿翁橋」の橋名板の写真でもわかるように、川の中には雑草が繁茂していて、水が流れて出た痕跡もない。今年は雨が少なかったということもあって雑草が見事に立ちはだかっているのかもしれないが、ふだんは水がないことは確かなようだ。浸透性の高い土地で、扇状地上のこのムラでは水が伏流してしまうのだろう。川にすら水がないわけだから、水にはとても苦労したムラだったのだろう。そのことについては、小林一行さんが『大萱の里』(平成6年/ほおずき書籍) に詳しく触れている。



 その大清水川に架かる寿翁橋の北側のたもとに「十王堂跡」の石碑が建つ。赤羽さんによると河川の改修や道路の拡幅でこの周辺が変化を続けてきたことが触れられているが、それでも現代にしてみれば道幅はそれほど広くはない。古い写真を見ると、道の東側に堂があり、堂の前庭には大きな庚申塔が立ち並んでいる。また、昭和50年ころの写真には堂はすでになく、半鐘が建っている。きっと川が現在ほど広くなかったのだろう、写真で見る限り、堂の前の空間はずいぶん広く見える。この空間は明らかにムラの中央であったのだろうと推察できる。加えてこの辻には大松商店という店があった。小正月には「じょうど」の庭で厄投げがされたといい、厄投げでなげられる銭を目当てに子どもたちが待ち構えていて、投げられた銭を手に大松商店でおやつに換えたという。厄投げで投げられた銭は、拾っても家に持ち帰らないというのはこのあたりではよく言われたことで、小正月の晩に行われたこの行事の日には、大松商店は祭りでの出店のような雰囲気もあったのだろうか、などと想像する。

 その辻にいつまで十王石造がまつられていたのか定かではなく、また十王堂がなくなってすぐに石造が竹やぶに消えたのかも定かではない。いずれにしても現在は辻から西へ100メートルほど上ったところにある阿弥陀堂の脇に、まさに拾われてきた残骸のような姿で石像が配置されている。冒頭の写真のように、閻魔様の顔は削ぎとられ、隣の王はまるで包帯を巻いたように痛々しい。そのほかのものも多くは首が撥ねられていて無残なものであるが、まだ堂が存在していた時代には、この辻は一大広場だったのだろうなどと思いをはせる。



 写真の「じょうどじぞう」は最近(平成18年)建てられたものである。
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