Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「住まう」とは①

2008-09-10 20:40:55 | 民俗学
 『日本の民俗』の第3回配本は、「5 家の民俗分化誌」(2008.8.20 吉川弘文館)である。この場合の「家」とは家族と地域とか、イエとムラといった付き合い上の家ではない。構造的な家を中心に、人々の生活の舞台となる家そのもの、いわゆるハード的な面を中心に捉えたものである。多田井幸視氏は長野県内の住居と長年にわたりかかわってこられた。南北に長いということ、そして標高差の激しいということもあって、長野県内の住居は風土という視点で捉えるとその変化が当然のように現れる。そして長野県から外れること日本海までと、太平洋までの距離はそれほど長いものではない。この南北ラインを東経138゜に設定し、家の変化に照準をあてている。その内容については次回に譲るとして、人々の暮らしの中に現在も家というものは大きく比重が置かれるもので、いまだに家を建てるという一大事業は、自らが主体的に行う行為としては一生の中でも一度あるかないかという事業である。もちろんかつてのように家を100年以上利用するともなれば、家を建てるということが一生に一度あるかないかというスパンであっただろう。しかし戦後以降、そうしたスパンは短くなり続け、いまやイエ(ここでは構造的な家に対して付き合い上の家をこう表記することにする)の継続が必須ではなくなり、それとともに家が必ずしも継続的なものとはなりえなくなりつつあり、そうした背景をもとに、主体的に行う家づくりは一代で1度、場合によっては家を継ぐものがいなかったり、主体性を引き継ぐ家族がいないがために、2度3度と家づくりにかかわることも珍しくなくなってきている。

 あくまでもわたしの印象、あるいはわたしの生まれ育った空間を念頭においたものであることは言うまでもないが、必ずしも長いスパンで家を造ったばかりでもない。これは農村地帯であっても米作りを主体的に行った比較的平坦な地域でのことで、その背景には社会条件も加わってくる。地主小作関係が今とは違う地位の上下関係を強く意識させた時代においては、地主は長く住まえる家を造ったかもしれないが、小作は食い扶持を維持するために家屋敷よりも生産する場を中心に捉えたかもしれない。食うことができなければ、住むこともできない。住む場所など二の次という背景がそこにはあった。日陰地であつたり、沢沿いの危険なような場所、あるいは傾斜地に住むということは、耕作地ではないということがその根底にあった。平らな土地に家を建てるなどということはもったいなくてできなかったということである。

 多田井氏は「自然の中の家」の冒頭で、「住まうとは」と説いている。「人ひとりの一生をみたとき、喜怒哀楽が織りなす波乱万丈の生き方もあるが、平凡であっても心が充実した日々の生活を望む気持ちもあるようだ。同じ屋根の下でクラス家族や地域住民とか連帯のなかに喜びを感じ、生きる力の元を見出す人も多いことだろう」と述べている。この考えは、家は心のよりどころであったという一般的な意識を表しているとともに、わたしもそういうものであったと長い間思ってきた。ところが、そうした意識が必ずしも一般的なのかというところも、どこかで疑問として持つようになった。それは、現代のさまざまな悩みにもつながるものであって、はたして多くの人々がそこを安住の地として捉えているのだろうか、と考えるのである。その背景は前述してきたようなイエの不安定化にもよるのである。

 また「山間地域の傾斜な立地を生かした屋敷地に、日々の生活の元となる安全な住まいを求める努力を払ってきた」と述べるが、このあたりも前述したように、わざわざ災害の起きるような場所に住み着いて、さらには災害を被りながら家の立て替えを繰り返してきた事例も少なくない。「安全な住まい」を求めていたら、これほど災害を被りやすい場所に住み着いたのだろうか、などとそれぞれの集落を、あるいは家を見ながら検証したくなるほどだ。現在は災害の起きるたびに「なぜそんなところを造成したのか」あるいは「住んだのか」などと問われるほど安全を優先しようという意識があるが、現代の感覚がかつての感覚ではないようだ。もちろんそうした環境であってもさまざまな工夫を繰り返していったのだろうが、人々にとって本来心のよりどころであるだろう家空間は、いったいかつてはどんなものだったのだろうと、もう一度考えてみなくてはならない。

 続く。
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