Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

囲われた人為的空間

2008-09-18 12:39:27 | 自然から学ぶ


 昨年までは犬の散歩で頻繁に訪れていた近くのため池を、先日久しぶりに訪れてみた。相変わらずため池とはいうものの水はあまりたまっておらず、水面は堤体の上からは遥か下の方に見えている。このときだけ水位が低いわけではない。その証拠に現状の水面から堤体上まで草がしっかりと生えている。すり鉢状のため池内が緑で覆われているのである。ようはこのため池、水利目的に造られたものなのだが、現在はほとんど利用されていないのである。かつては水田であったところが果樹園化されて水利用が減ったために、ため池に頼らなくてもよくなったのか、ほかに水源が確保されるようになったものか定かではないが、いずれにしても昨年まで訪れていたなかでも、あまり管理されているという印象はなかった。

 そのため池に写真のような囲いがされていた。まだ囲いがされて2ケ月くらいだという。コンクリート柱で囲まれ、その柱から柱へと有刺鉄線が張られている。子どもたちが遊びに来て落ちないようにという代物ではない。そういう施設であるならば有刺鉄線まで張られることはめったにない。加えて囲いは南側の一部にされているもので、ため池の水面を囲うようなものでもない。看板にこう書かれている。

○土地に生えている野草の採取はしないでください。
○自生する植物を大切にし次の世代に残しましょう。
○豊かな自然を守り永く後世に伝えましょう。

 自生している草花の保護を目的に囲われたものなのだろうが、この看板の脇と、反対側に入り口があって開放されている。完全に有刺鉄線で囲ってしまわれているわけではない。囲おうとした人たちはきっとまったく入れないように、という意図があったのだろうが、それほど頑固な囲いに対しての少しばかりの抵抗もあって開放されている空間が登場したのかもしれない。この地域にはこうしてコンクリート柱で囲われ有刺鉄線を張られた同じような空間をあちこちで見ることができる。過剰な保護施策と思うのだが、「盗まれる」という事実から発想するにしてもそこまでして草花だけを対象にした保護の意識が意味のあるものだろうか、と考える。ここにはもともと「草花を採取しないように」という看板が立っていたわけではない。ふとみるとワレモコウが咲いていたりセンブリが咲いていたりと、自然が良く残っているため池だということに気がついたくらいで、意識していない人たちにはほとんど立ち入るような場所ではなかった。中央時ドアう車道の傍にあって、ため池の堤体がドーンと見えているため、そこを走る車からよく見えるということもあってのことか、草花が盗まれるということはあったようだが、何度も訪れていたが、それが頻繁であるとか、明らかに荒らされているという状況を見た覚えはなかった。そこへいきなりのこの空間の登場なのである。

 実はこの看板の奥にオミナエシが目立って咲いているが、昨年まではオミナエシはこの場所に咲いていなかった。「自生する」とは言うものの、これらは今年植えられたものである。妻に「自生といっているけれど嘘だよね」と言うと、「一応自分で生えてきたわけだからまるっきし嘘でもないんじゃない」と言う。隣にはフジバカマも咲いていて、これらもアサギマダラを呼ぼうと今年蒔かれたもののようだ。「後世に伝えましょう」という言葉を言うからには、草花の側からだけ見た言葉ではなく、人々の心の問題にも対応されたものであって欲しい。ようはまず看板を立てて保護に取り組んでいます、と表明し、その上でどれほど盗まれようと、地道に盗まれない環境作りを進めるのが第一であって欲しいわけだ。マツタケ山のように盗まれることによって大きな代償を払わなければならないようなケースであっても有刺鉄線を山中に張ることはない。せっかくの景観との調和もだいなしとなったこの空間は、まさに作られた空間である。
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