Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

観光とは

2008-08-30 20:30:47 | つぶやき
 石見銀山というどちらかというとマイナーな史跡が世界遺産に指定されたのは2007年、誰もが意外に思ったにちがいない。ところが、誰でも指定されるだろうと思っていた平泉がされなかった。日本では世界遺産のあり方に対して正確な認識をしていなかったということになった。先ごろ「ガイアの夜明け」(テレビ東京)において、この世界遺産について触れた。石見銀山では観光客が前年の約4倍になったという。しかし、観光客への対応が間に合わず多くの問題が起きているという。観光客からは、観光地を巡るバスの満員運行や乗車待ちへの不満や、現地を訪れてもどこをポイントに観光すればいいのかわからないという不満があがっているという。インタビューでを聞く限り、こうした観光地での観光のしかたを知らない日本人らしい声が聞けた。果たして日本にとって観光とは何なのか。わたしたちは観光そのもののあり方すら認識を変えなくてはならないと思っているが、なかなかそうならないのが、この国の不幸ともいえる。番組では「訪れた観光客に悪い印象を植え付けるだけでなく、悪評が世界を駆け巡る可能性もある」と言うが、そんなことで世界遺産指定が白紙になるとは思えない。むしろ日本的観光地に作り上げた方が白紙になりかねないと思うが違うだろうか。バスとマイカーの乗り入れの規制を市に要請し、歩いてもらった方が石見のよさを知ってもらえると考えている自治協議会会長の意見は正しいだろう。確かに歩くこと5キロ余というのは、観光地では並みの距離ではないかもしれない。しかし、だからこそ広域指定をしている世界遺産の姿が残せるというものだ。

 身近でも松本城を、あるいは善光寺を、さらには南アルプスを、といった具合に観光目的に世界遺産化の動きが盛んだ。しかし、だからといって指定されることで人々の生活とか、自然とか、トータルな舞台を考えようという視点はない。たとえば松本城においては、周辺環境が問題だといって、その後形成されてきた城周辺の住空間を奪ってまで、周辺環境を復元しようという。復元とは言うが、それは造成された世界遺産と言っても過言ではない。なぜそこまでして世界遺産にこだわるのか、それほど地域に外貨を求めたいのか、またその外貨は誰が恩恵を受けるのか、などと考えていくと、相変わらずといった感想が浮かんでくる。地域にとって地域とは無縁の都会人の意識を変えようとか、都会人の恩恵を被ろうなどという考えは、どうしてもわたしは納得いかない。

 昨日書いたリニアのことなど、都会人にしてみたら中間に「駅などいらない」という意識が大方のものだ。そして、そんな意識と対峙するような田舎人の都会向けの顔、「都会人よおいで」みたいな意識、とても滑稽としか言いようがない。一攫千金みたいな地域復活ではなく、地域維持という視点にはなぜならないのだろう。もちろんそんなことは言っていては、という意見も強いだろうが、人口減少に転じている国の中で、飛びぬけた飛躍はいつかきっと転倒することもあるという確率も高いはずだ。永遠ではないのだ。

 そういえば、最近観光という視点では「物と人の交流」において民俗学者柳田國男や宮本常一の旅のことについて触れた。宮本は五島列島の旅で道路建設の必要性を訴えた。「七つの島を密接につなぐため、各島の縦貫自動車道の完成が急がれる。そして島と島との間に、この道をつなぐ渡船を設け、多少のシケくらいでも、島と島との間なら船は往復できるから、この渡船をたよりに、陸路を主にして北から南まで一貫した交通路を完成すべきではないかと思う。他のあらゆる事業をさしおいても、まずこれを貫通せしめるというくらいの熱意がなければ、この島の本当の発展はないと考える」と述べた。近代化する時代の民俗学と現代の民俗学の背景がまったく違うことに気がつくととともに、かつて民俗学を築き上げてきた人々は、「発展」という意味で地域を捉えていたわけである。柳田もまた農政官僚だった。これほど地域が疲弊した現在において、都会人と田舎人の関係はいかなるものなのか、などと思うわけで、そうしたなかでこうした観光という舞台は、より銭勘定で存在してほしくない面なのだが、みなこぞってそこへ目を向けている。なんともはや・・・。
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