Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

鳥肌が立つ

2008-08-08 21:12:12 | ひとから学ぶ
 信濃毎日新聞8/6朝刊の「斜面」において、言葉の使われ方について触れていた。先般文化庁が国語についての世論調査について平成19年版を発表した。世代間で言葉の意味の取り方が逆であったりするものがあり、言葉が人々によって生きているという証を示していたわけだ。「斜面」では「鳥肌が立つ」について、「本来は寒さや怖さのためにぞっとする感じなのに、最近は感動の表現に用いる」と述べ、「間もなく北京五輪。「鳥肌が立つ」が多数派になるのだろうか」とくくっている。「鳥肌が立つ」とは用法といえば用法なのだろうが、現実的に鳥肌が立てば、どういうときであろうと用法に間違いはないはずだ。そういう意味では、感動の表現として利用する人もいるかもしれないが、実際に鳥肌が立つ人も少なくないはずだ。どうもこのあたりは記事を書かれた人と少しニュアンスが異なる。だからわたしも間違っていよういまいと、感動した際に鳥肌が実際に立って「鳥肌が立つ」と思ったことは何度もある。きっとそういうところからこの言葉の使い方が生まれたと思うのだが、そう思うのはわたしだけなのだろうか。

 ところで平成19年度「国語に関する世論調査」の結果において、「カタカナ語の使用」という項目がある。「外来語や外国語などのカタカナ語が多いと感じることがあるかどうか」という質問において、86パーセントの人たちは「ある」と感じているという。この質問の趣旨は「外来語や外国語など」と表記しているところから、それらの言葉は漢字では当てはめ難いとかひらがなでは文章にしても表現し難いという言葉なのだろう。そして「外来」というように基本的には日本古来からの単語ではないという前提がどこかに漂う質問である。続いて「外来語や外国語などのカタカナ語の使用を好ましく感じるかどうか」という質問に、「好ましい」と感じる人は15パーセント程度しかないという。平成14年度との比較がされているが、経年の変化はそれほどない。

 実は民俗の世界ではカタカナ表記が多い。漢字を充てることで、それぞれの人が経験している情報で言葉の意味が固定化したイメージになりがちである。それをあえて漢字ではなくカタカナを充てることで、既存のイメージを取り外すことが可能である。裏を返せば意図的に解りづらくさせているようにも見える。最近触れている「村」を「ムラ」と表記するのは民俗の世界では常識的なことである。しかし、そうした表記に慣れている人たちはともかくとして、意識していない人々にはむしろ解りづらい用法かもしれない。ところが行政的な属地的「村」とは違う村を表現しようとする際に、「村」と表記することで固まったイメージ、あるいは歴史上の常識的な枠組みにはめられて捉えられてしまいがちである。「この村は」という際の村は行政上の村、「このムラ」という際の村はそれぞれの人々の意識の中にある伸び縮みのあるエリアになる。やはり規定されたものではなく曖昧なものと捉えられることになる。既定概念に捉われることなく、言葉の意味が多様であるという日本語らしい表現をより一層与える表記方法であることに間違いはない。
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