Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

盆踊り

2008-08-18 21:54:29 | 民俗学


 「盆休みに」で触れたように盆の間は新盆見舞いに家々を回る。新盆の家ではそうした見舞い客をもてなすためにご馳走をしなくてはならなかったが、最近はお茶を出すくらいで「ご馳走」という言葉も過去の雰囲気すらある。ムラの祭りでも客呼びをすれば、女衆はご馳走を用意するべく昼間から準備に忙しい。そして祭りといえば催しが何もないわけではなく、芸能がつきものである。わたしの生家のある地域では花火が揚がる。今でこそ花火は専門の業者に頼んで作られているが、かつては自分たちで花火を作っていたという。それだけに花火の出来不出来を批評するのが祭りの楽しみだったようだ。もちろんこうした芸能に携わるのは男たちだった。ということは女たちにとっては、楽しみがないわけで、あくまでも客をもてなすために働くのが女たちだったのかもしれない。生家でも祭りの日といえば、女衆は打ち揚げ花火を自宅で見ることはあっても、庭花火まで神社に見に行くことはあまりなかった。客が花火を見に行けば、その間に女衆は片付けに精を出したわけである。考えてみれば、女衆にとって祭りは必ずしも楽しいものではなかったのかもしれない。男たちは飲んだくれて、花火を批評していれば良いのだろうが、その間にも台所でいつもと同じように働く女衆は働いていたのである。

 さて、そんな祭りと同様に盆もまた、男たちは新盆見舞いに歩けば、女たちは里帰りした兄弟をもてなし、また新盆の家では忙しく働いたのである。今でこそ流行らなくなったが、かつてはどこの地域でも盆には盆踊りというものをした。その盆踊りは古の昔から続いているものではなく、近代に流行ったものである。このあたりなら木曽節や伊那節といった民謡で踊ったのである。そんな盆踊りも若い人たちが集まっては楽しんだものなのだろうが、家を守る女衆にとっては、必ずしも皆がみな楽しむというわけにはいかなかっただろう。盆という先祖を迎えまつるトキに、いっぽうでは楽しみの場が提供された。いや提供されたというよりもそういう場を望んだわけだ。これもまた子どもたちが分家もできないから都会へ出て行ったという現実と、盆だから里帰りをするというなんとも不思議な関係が築かれたからこそのものなのかもしれない。

 そういう意味では新盆の家を回っていく盆の行事は、女衆にとっても楽しむことのできるものである。写真は昭和61年8月14日に、下伊那郡天龍村大河内で撮ったものである。ここでは新盆の家を「かけ踊り」という踊りがまわっていく。そして新盆の家で踊り手たちを振る舞い、その後新盆の家ごとに盆踊りが踊られ、一通り終わると、また次の家へとかけて行くのである。家にいながらにして芸能を見ることができ、もてなしながら盆踊りの会場となるわけで、これほど利にかなった盆の風景はない。このかけ踊りは、盆踊りの旧態を示すものだという。ようはかつての盆踊りはこうして新盆の家を巡って歩いたわけである。
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