Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

村とは何か③

2008-08-14 22:29:09 | 民俗学
「村とは何か」②より

 和田健氏は「村づきあいの解釈と変容」において、協同性のあった社会が崩壊するなかで何かしらの関係性を再構築していったことについて触れている。「農家の働き手が同時に会社勤めをすることにより、農という生産の場である「村社会」とサラリーマンとしての働く場である会社社会」といった二つの社会で関係性を作っていかなくてはならない。当然村に住むものとしての責務に対して何らかの負担減を考えないと生きていけない。近隣の葬式には必ず手伝わないといけないことも、もはや会社勤めのため果たすことが難しいならば、やはり葬家が葬儀業者にたのむ方が精神的に楽―葬式を出す側も手伝わねばならなかった側も―である」とその再構築の事例を説く。そして「協同性の変質と崩壊」ととるのではなく、「協同性の清算と再構築」といい、変容する事実とその要因を問題にするのではなく、変容する過程に人々が何をしてどう新たなものを見つけていったのかを見る必要があるという。確かにその通りで、その過程に民俗性があったのかどうなのか、というところがその視点になるのかもしれない。しかし、民俗学の専門家たちが、現実的にこうした過程を問題視するのではなく、自然に受け止めてきたのは納得のいかない部分でもある。民俗は変容するものであるといういっぽうで、古い形を残すものを貴重だという意識を常に持ち続けてきたはずだ。たいへん柔軟性のある分野なのかもしれないが、実は現代の農村の問題は民俗性と強く関わっているはずだ。にもかかわらず、民俗学は疲弊した農村を救うことなどまったくできなかった。ようは第三者、人事として傍観してきたのではないだろうか。何も解決策を持たない原点に、変質と崩壊を説くのではなく清算と再構築と都合よい捉え方をしてきたように思う。たとえ村がなくなっても、その過程とその先の再生を研究するというのだ。崩壊しないためには何もしなくても、崩壊後の姿までみ続けようというのだから、「傍観」でなくてなんだというのだろう。

 前回触れたように村が崩壊していくのを嘆くのではなく、前向きな視点で捉えようというのは理解できるものだが、だからといって崩壊を傍観するのは無策というばかりだ。民俗学をたしなむ人々は、農村に入り、現実的な問題を肌で感じてきたはずだ。にも関わらず、研究材料としてデータは拾ったかもしれないが、そこから先へ問題を提議することもなかったし、解決することもなかったのではないか。本当の意味で農村の姿を捉えたのか疑問は多い。


 和田氏は坂東市木間ヶ瀬集落の事例を紹介している。この集落は昭和30年当初よりあらゆる野菜栽培を手がけたという。1年間均一に農業に関わることができ、農閑期を作らない生活をめざした。それまでは東京への長期の出稼ぎが多かったため、村内のつきあいが濃い村でありながらそうした遠隔地にいる場合苦労が絶えなかったというのだ。そのためにも出稼ぎを解消しようと農業で安定的収入を得ようとした。これは木間ヶ瀬だけのことではなく、どこでもそうしたかったはずで、そうした取り組みはあちこちで行われたわけである。わたしが現在住んでいる地域も、養蚕後の生産の主体を果樹へと転換していった地域で、協同出荷という体制を整えて成功していったわけである。しかし、果樹も一時のことを思うと実入りが少なくなり、加えて手のかかる仕事を若者は敬遠する。和田氏は「村をあげての取り組みで生産、出荷の協同関係を作り上げた例は、二一世紀入った今となっては非常に難しい」という。その理由として「家同士あるいは人同士のつながりは、旧来のつきあいや地理的な立地だけでなく、、インターネットを通じて関係を構築することが十分可能だからである」という。さらに「必ずしも村の関係を基盤にして出荷流通に関わる労働関係は必要条件ではない」とまでいう。「生業と村は別の問題」とまとめているが、実はこれは大きな間違いである。日本の農業は政府の政策で左右されてきた。今の補助制度は少し前に始まった中山間地域直接支払いに始まり、後発の農地・水・環境保全向上対策など、協同作業を前提としたものが主流となっている。そして「我が国農業の構造改革を加速化するとともに、WTOにおける国際規律にも対応し得るよう、これまで、全ての農業者を対象に、品目別に講じられていた経営安定対策を見直し、施策の対象となる担い手を明確化した上で、その経営の安定を図る水田・畑作経営所得安定対策を導入しました」と農林水産省がいうように、集落営農という形を平成22年度を目標にシステム化している現在である。今後はそれを法人化という形にしたいというのがねらいであるが、それがスムースにいくとはとても思えないが、いずれにしても農水省の考えでは集落営農化が最優先である。ということは、村をあげた取り組みを政府はさせようとしていて、補助金を欲しいがために、農村はその施策に適応しようとしている。ようは農村が右往左往しているのも政策のせいであるが、和田氏の言うような関係には簡単にはならないのである。
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