Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ペンを持ち考える

2008-08-19 12:27:19 | つぶやき
 PC修理のため、四六時中PCを手元に置くということがなくなった。日記を書いていた電車内ですらPCがなければ手元が寂しい。そうはと思ってペンで少し気づいたこと、思ったことを記録しておこうとするが、PCを前にしているよりも文字が浮かばない。以前にボケについて触れたが、このところの忘れかたは昔の比ではない。会社でも家でも、そして公共交通機関での移動の際にもPC環境を維持できる環境なためか、文字を書くことはもちろんだが、ペンを持ってものを考える力がダウンする。PCのキーなら何かが浮かんでくるのにペンでは頭の中に霞がかかる。

 仕事がらPCを利用し始めたのはもう25年ほど前のこと。もちろん当時はドス版以前のものであったわけだが、当時は文書までPCという時代ではなかった。一般のものは手書きのもので、いわゆる計算機の延長といった方が正しかった。そのうちにワープロが登場することで、文書も活字化していったわけだが、昭和から平成という時代は、まさにPCではなくワープロ専用機の全盛だった。まだまだペンで下書きをし、ワープロ化するというタイプの代用のようなものであった。当然のごとく年輩の人たちはへたくそな下書きを出して女性に活字化してもらうという、今考えれば「なんと言う無駄な」と思うような作業が行なわれていた。若い人たちは年輩の人たちのように人に頼むこともできず、自ら活字化するのが通常だった。そのくらいなら直接ワープロに打ってしまった方がよいわけだが、若い人たちもなかなかそこまですぐに順応できることはできず、時間を要したわけだ。比較的早い段階でそうした時間をなくそうと思ったわたしは、下書きというものをせずに直接キーを打つようになったもので、そんな環境になってからも20年を越える。これだけ長い間まともな文を書く際にペンを持たなかったから文字が浮かんでこなくても仕方がないのかもしれない。というよりそこにボケも加わったせいか、ペンを持てば考える、という思考に至らないのである。駅に向かう道で、家のまわりの草を取っているとき、いろいろな考えが頭の中でまわるというのにペンを持ってもなかなか思考回路が動かない。歩いている際に浮かんでくるのは文字ではなく、言葉なのだ。考えることと文字というものは同じようでそうでないことが解る。考えたことを素直に言葉にすることができるということが実は難しいことだったのではないのか、などと考えてしまう。常に文字化してしまおうとするPC上での思考はいったいどこから生まれたものなのだろうと、自ら不思議に思ったりする。そう考えると若者がケイタイ小説を書くというのも解るような気がする。簡単に言えば慣れれば「そんな無茶な」と思うことも自然にできてしまうのだ。そんな人はむしろ従来の常識的な行動ができないということになるのだろう。地球上の環境変化を言うが、実は人間のほうがはるかに早い時間で変化していると思ったりする。なぜか適応しているが、それが人間のすごいところなのだろうが、果たしてその反動はどこに出るのだろう。

 さて、それにしてもペンを持っても手紙すら書けないというのもいけない。ボケ防止にペンを手にしてモノを書こう、などと強く感じる今日この頃である。
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