Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

離縁状

2005-11-02 08:14:02 | 歴史から学ぶ
 山梨県立博物館が10月15日に開館し、企画展の「山梨の道祖神祭り」を見たいと思って訪れた。企画展は山梨らしい道祖神祭りが案内されていて、とくに男性器を象ったオカリヤがいくつか再現されていた。常設展示を見ていると、離縁状のことが書かれていて気になった。離縁状が多いのは、上野、武蔵、下野、甲斐、信濃の順であるといい、その数は、259、136、107、48、33となる。そして離縁状が多いということは、「養蚕蚕糸業による収入で女性たちは離婚しても生活していけるだけの生活力を蓄えていた。」という。
 離縁状については、三くだり半と呼び、たった一枚の紙きれで女たちが離縁されたといわれていた。しかし、離縁状を数多く読み解くなかで、男がいっぽうてきに離縁したのではなく、気に入らない男性を女性側から見捨てることができた証だという高木侃氏の説がかなり一般に知られるようになった。それによると、当時の離縁状は必ず夫が書いて妻に渡すもので、三下り半を突きつけたわけではない。三下り半を受け取った妻は夫に対して「離縁状返り一札」という受け取り状を渡しており、一方的であったなら、わざわざ受け取り状など出すはずかないという。また、「先渡し離縁状」なるものもあり、これは、行いの悪い夫に対して、妻があらかじめ離縁状を夫に書かせ、次に約束を破ったら別れますよ、という証文であったという。
 離婚率については、江戸時代、武士階級で10パーセントと高かったといい、女性の再婚率は50パーセント以上であった。江戸における男性と女性の比率が65:35というのだから、女性は引く手あまたといったところだったのだろうか。そして、女性は人力に頼る世界では、労働力として必要不可欠であったわけで、それら条件を考えると、女性の地位が低かったとは簡単にはいえないということなのだろう。さらには、博物館のデータにあるように、養蚕の盛んなところでは、女性の経済力があったという。ちなみに離婚率であるが、1883,1888,1893,1898,1900年の順に3.39%,2.75%,2.82%,2.27%,1.14%と明治時代になると、どんどん下がっていっている。むしろ江戸時代の方が高かった。
 これらを聞くと、うなずける内容ではある。しかし、果たして本当にそうなのかと疑問もある。わざわざ縁切寺なるものがあったし、たとえば家へ嫁ぐという意識が強い時代を考えると、階級があったからには、女性の立場が高かったとはなかなか思えない。したがって、必ずしも男性が一方的に優位であったとは限らない、という程度のものだったのではないだろうか。全国に駆け込み寺なるものが、鎌倉の東慶寺と群馬の満徳寺の二寺しかなかったというのだから、群馬に離縁状が多いのもうなずける。
 かつてこういうことを言った。「一人では大変でも、結婚して二人ならやっていける」と。経済的に不安定なら、夫婦で助け合えという考えになるだろうか。それが、最近では不安定な結婚を勧めない時代である。男女が均等に収入を得られれば、夫婦になる必要性がなくなることになる。これも一般論というが、女性の地位が高く経済的、精神的に自立している国ほど離婚率が高いという。経済力があるということは、人のこころが一つにならない時代なのだろう。ところで、なぜ江戸は女性が多かったのだろう。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****