Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

野焼きの音と匂い

2005-11-14 08:15:01 | 農村環境
 平成13年に南信州広域連合の発行した南信州広域だより37号の中に、「特集 南信州 音・匂い・色の風景」という記事があり、住民に問い合わせたデータがあげられていた。その中に、冬の音として「火を焚く音」があげられていたが、実は匂いのなかには、焚き火の匂いはもちろん、稲藁や枯草を焼く匂い、土手焼き、というように野焼きの匂いがたくさんあげられている。それは冬に限らず、秋には枯れ菊を焼く匂い、あるいは落ち葉を焼く匂い、春の土手焼きというように、季節を問わず、野で繰り広げられる「焼き」の匂いが、人々に強く印象深く残っていることがわかる。
 ところが、この印象深い音、匂いであるが、最近はあまりしなくなった。野焼きが禁止されたからである。禁止といっても農作業にかかわるものや、剪定木を焼くなど、全面禁止ではないが、基本的には野焼き禁止ということがいわれる。田舎ではそれほど気にはしていないが、変わったのはそれだけではない。田舎に住む農民がいなくなった。ということは、農業従事者が減っているから、当然野焼きを許される人は絶対数減少する。そして、農民がいないということは、一般人が増える。農家の子どもたちならよいが、今では農家の子どもといっても農業をほとんど知らずに育った子どもたちが社会人になり、所帯を持つようになった。世代が交代するごとに、農業の存在感はなくなる。そんな姿がすでに見え始めている。加えて、例えば安曇野や長野市近郊のように、よそから移り住んだ一般人が多くなった。したがって、野焼きをわたしたちが思うような音、匂いと感じるとはかぎらない。かつては、ビニールなどを焼く農家もいて、苦情が相次いだが、さすがに今はそういう農家は少なくなったと思う。しかし、枯草を焼くだけでも、役場に苦情が来る時代である。なかなか許されていても野焼きがしずらくなったことは確かである。
 焚き火はこうした音や匂いという五感にかかわるものだけではない。焚き火には、人を集める習性がある。とくに寒い時期の焚き火には、自然と人々は暖かさを求めて集まってくる。以前盛んに遠山谷で行なわれる霜月祭りや、阿南町で行なわれる雪祭り、また、奥三河で行なわれる花祭りなど訪れたが、夜中の寒さには、どうしても火が恋しい。祭りも見たいが寒さには勝てなかった。そして、そうした火へ集まったことにより、見ず知らずの人と話をしたりして、交流があった。地元の人ともそこで会話がはずんだりする。祭りでは許される焚き火であるから、野焼き禁止によってその場から火が消えたわけではないが、焚き火は人を集めた。建設現場でも冬場には火を焚いている姿が当たり前のようにあったが、こちらは営利目的上の意味のない焚き火だから、もちろん禁止である。なぜそんなところからも火が奪われなくてはならないのか、とは思うが、仕方がない。しかし、基本的な人間の暮らしの中に元来あった火が奪われたということは、人間にとっては大変重大なことのような気がするが、「環境」という世論に反論はできなかった。
 これほどまでに人々に親しまれた音、匂いが、いつかは忘れられることになるのだろうか。
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