久々に泣けた。
実はこのニュースの見出しを初めて見た時は 「どうせホンダの広報・宣伝活動なんだろ?」 と思っていたのだが、事の顛末を聞いて驚き、ここに書き留めずにはいられなくなった。
その少年は 9 月 15 日、危篤状態から回復したばかりだった。彼の夢は、将来 F1 に関わる事。
その日たまたま静岡県立こども病院を訪れていた病気の子供の夢をかなえるあるボランティア団体がそれを知り、本物の F1 マシンを少年に見せてあげようとその日のうちに早速対応を開始した。
まず打診したのがモーター・スポーツを取り扱う雑誌の編集長だった。
その編集長はすぐに自身の情報網から関係先を当たるも、厳しい状況だった。そこで編集長は 「ホンダに連絡してみてはどうか?」 とボランティア団体に紹介した。
翌日、ホンダに連絡を取るも、F1 担当者は不在で全く連絡が取れなかった。(連絡が取れなかった理由は後に明らかになる。)
夜になっても連絡が取れず、やはりホンダのような大企業が一人の少年のためなんかに動いてはくれないのだろうと諦めかけていたところだった。
夜 7 時になってようやく連絡が取れた。すると、予想に反してホンダの対応は前向きなものだった。
そのわずか 20 分後、ホンダから 「ぜひやりましょう。明日やりましょう。」 との驚くべき連絡が入る事になるのだが、そこで夜まで連絡が取れなかった理由が明らかになる。
先週末開催されていたイタリア・グランプリが終わり、その帰路に就いて機上の人となっていたのだ。
夜 7 時、成田に到着した F1 チームは本社からの連絡を受け、その場ですぐ検討を開始し、対応を決定したという。
普段ならそのまま解散となるところ、チームはその足ですぐに本社に向かい、詳細を詰めた。
翌 17 日、チームは朝から東京・東雲で準備を開始。午後 1 時に東雲を出発して予定通り 3 時に静岡県立こども病院に到着した。
ホンダ F1 担当者が実際に動き始めてから実に 24 時間以内の出来事である。
体調が思わしくなく (危篤状態から回復したばかりなのだから当然だ) 実際にコックピットに座る事は叶わなかったが、実物の F1 マシンを目にし、少年は涙を流して喜んだという。
F1 マシン (HONDA RA107) と対面する少年 (写真: 毎日新聞)
静岡県立こども病院に急性リンパ性白血病で入院中の小学 6 年生の少年の希望に、ホンダ・レーシング F1 チームが応えた─ |
実はこのニュースの見出しを初めて見た時は 「どうせホンダの広報・宣伝活動なんだろ?」 と思っていたのだが、事の顛末を聞いて驚き、ここに書き留めずにはいられなくなった。
その少年は 9 月 15 日、危篤状態から回復したばかりだった。彼の夢は、将来 F1 に関わる事。
その日たまたま静岡県立こども病院を訪れていた病気の子供の夢をかなえるあるボランティア団体がそれを知り、本物の F1 マシンを少年に見せてあげようとその日のうちに早速対応を開始した。
まず打診したのがモーター・スポーツを取り扱う雑誌の編集長だった。
その編集長はすぐに自身の情報網から関係先を当たるも、厳しい状況だった。そこで編集長は 「ホンダに連絡してみてはどうか?」 とボランティア団体に紹介した。
翌日、ホンダに連絡を取るも、F1 担当者は不在で全く連絡が取れなかった。(連絡が取れなかった理由は後に明らかになる。)
夜になっても連絡が取れず、やはりホンダのような大企業が一人の少年のためなんかに動いてはくれないのだろうと諦めかけていたところだった。
夜 7 時になってようやく連絡が取れた。すると、予想に反してホンダの対応は前向きなものだった。
そのわずか 20 分後、ホンダから 「ぜひやりましょう。明日やりましょう。」 との驚くべき連絡が入る事になるのだが、そこで夜まで連絡が取れなかった理由が明らかになる。
先週末開催されていたイタリア・グランプリが終わり、その帰路に就いて機上の人となっていたのだ。
夜 7 時、成田に到着した F1 チームは本社からの連絡を受け、その場ですぐ検討を開始し、対応を決定したという。
普段ならそのまま解散となるところ、チームはその足ですぐに本社に向かい、詳細を詰めた。
翌 17 日、チームは朝から東京・東雲で準備を開始。午後 1 時に東雲を出発して予定通り 3 時に静岡県立こども病院に到着した。
ホンダ F1 担当者が実際に動き始めてから実に 24 時間以内の出来事である。
体調が思わしくなく (危篤状態から回復したばかりなのだから当然だ) 実際にコックピットに座る事は叶わなかったが、実物の F1 マシンを目にし、少年は涙を流して喜んだという。
F1 マシン (HONDA RA107) と対面する少年 (写真: 毎日新聞)