東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

真言宗

2023-10-08 23:19:54 | 日記
 真言宗が今のようになったのも明治以降の気がするけど、仁和寺の僧が関わってるんだろうか?って何度も書いてるんだけどなあ。
 
 真言宗は大きく分けて古義真言宗と新義真言宗があって、その中にもいろんな宗派があるけど、政府からの通達で明治12年(1879年)に真言宗として統一されたらしい。ウィキペディアに、そう載ってる。明治28年(1895年)に真言律宗の独立が認められ、明治33年(1900年)には真言宗の他の宗派も相次いで独立が認められたようだ。日中戦争の頃の昭和16年(1941年)に政府の宗教政策で真言宗は合同して大真言宗が成立したらしいけど、戦後に大真言宗から独立して今のような真言宗の宗派になったようだ。
 
 和歌山県伊都郡高野町に金剛峰寺があって、金剛峰寺は高野山真言宗の総本山のようだ。高野山の奥の院は真言宗の開祖の空海の御廟のようだ。空海は佐伯氏の出身で、幼名は佐伯真魚というらしい。
 
 空海が高野山の奥の院で生きているという信仰を入定信仰というらしい。高野山の奥の院には、毎日、空海のために食事と服が運ばれてるらしい。詳しいことは知らないけど・・・。
 
 金剛峰寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

御室

2023-10-08 22:46:52 | 日記
 真言宗が今のようになったのも明治以降の気がするけど、仁和寺の僧が関わってるんだろうか?って何度も書いてるんだけどなあ。
 
 京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山で、仁和寺は明治時代の前は皇族の人が出家して住職を務める門跡寺院ということになってるみたいだけど、昭和天皇は太平洋戦争の後に出家して仁和寺の門跡に入る話もあったようだ。
 
 明治以降の仁和寺の門跡はウィキペディアに載ってる。泉智等という僧は高野山で学び、明治33年(1900年)から明治39年(1906年)まで仁和寺の門跡を務めていたようだ。泉智等は明治41年(1908年)に江戸時代の天皇の菩提寺の泉涌寺の長老になり、大正12年(1923年)に高野派の管長と金剛峰寺の座主に就き、大正13年(1924年)に真言宗連合総裁に就いたようだ。
 
 次の仁和寺の門跡の土宜法龍という僧は明治26年(1893年)にシカゴで開かれた万国宗教会議に日本の代表として行ってきたらしい。土宜法龍は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたらしい。土宜法龍は明治39年(1906年)から大正9年(1920年)まで仁和寺の門跡を務めていたようだ。土宜法龍も金剛峰寺の座主を務めたようだけど、土宜法龍の次の次の金剛峰寺の座主が泉智等らしい。土宜法龍も真言宗連合総裁を務めたようだ。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
 
 仁和寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

醍醐

2023-10-08 22:32:16 | 日記
 疲れたなあ。闇の勢力とかって怖いよね?。
 
 奈良県生駒郡平群町にある信貴山朝護孫子寺は信貴山真言宗の総本山で、毘沙門天王の総本山といってるらしい。信貴山縁起絵巻という絵巻物があって国宝になってるらしいけど、命蓮という僧が托鉢に使う鉢を飛ばして、その鉢に倉を乗せて朝護孫子寺まで運んできたらしい。命蓮が醍醐天皇の病気平癒の祈祷をしたらしく、朝護孫子寺の寺号を賜ったことになってるようだ。信貴山縁起絵巻に命蓮の醍醐天皇の病気平癒の話も描いてあるらしい。
 
 江戸時代の修験道は統制されていたらしいけど、真言系の修験道の当山派の総本山は京都にある醍醐寺の三宝院というところだったらしい。本当か知らない。醍醐寺は平安時代に醍醐天皇の勅願で聖宝という僧が創建したことになっていて、聖宝は当山派の開祖とされていたらしい。醍醐寺は今は真言宗醍醐派の総本山らしい。
 
 醍醐寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

平群

2023-10-08 22:14:12 | 日記
 疲れたなあ。
 
 青森県平川市碇ヶ関に国上寺という寺があって、東北三十六不動尊霊場の札所になってる。国上寺は真言宗智山派の寺で、山号は古懸山だそうだ。国上寺は飛鳥時代に聖徳太子が秦河勝に命じて伽藍を建てさせて創建されたことになっているらしい。国上寺の不動明王像は座っているので、ねまり不動といわれるらしい。東北三十六不動尊の本を見ると、汗かき不動ともいわれるらしい。
 
 東北三十六不動尊も、残り福島県の5ヶ所で諦めてしまった。福島県なんて遠いしさあ。それに、会津若松市と会津美里町と白河市と棚倉町といわき市って福島県でも距離が離れてるんだよね。各県に札所が6ヶ所ずつあって、青森県なんて2回も巡ったもんなあ。
 
 大阪府南河内郡太子町にある叡福寺という寺には聖徳太子の御廟があるらしい。叡福寺は上之太子ともいわれ、山号は磯長山のようだ。聖徳太子の妃は膳部大郎女という女性のようだけど、ウィキペディアで調べると、膳氏の出身で、高橋妃とも記されてるようだ。
 
 奈良県奈良市にある高橋神社と千葉県南房総市にある高家神社と栃木県小山市にある高椅神社では磐鹿六雁命を祀っていて、磐鹿六雁命は高橋氏の祖神で、南房総市の高家神社のHPを見ると、磐鹿六雁命は料理の神様で、醤油醸造や調味料の神様のようだ。膳氏の祖が磐鹿六雁命で、膳氏の人が高橋氏を名乗ったことになってるらしい。
 
 奈良県生駒郡平群町にある信貴山朝護孫子寺は信貴山真言宗の総本山で、毘沙門天王の総本山といってるらしい。朝護孫子寺の由緒は聖徳太子の物部守屋討伐の話と関係あるらしく、朝護孫子寺の奥の院には汗かき毘沙門天が祀られてるらしく、聖徳太子が物部守屋と戦った時に毘沙門天が現れて物部守屋と戦ったことになってるらしい。本当か知らない。
 
 信貴山縁起絵巻という絵巻物があって国宝になってるらしいけど、命蓮という僧が托鉢に使う鉢を飛ばして、その鉢に倉を乗せて朝護孫子寺まで運んできたらしい。命蓮が醍醐天皇の病気平癒の祈祷をしたらしく、朝護孫子寺の寺号を賜ったことになってるようだ。信貴山縁起絵巻に命蓮の醍醐天皇の病気平癒の話も描いてあるらしい。
 
 朝護孫子寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2023-10-08 20:33:33 | 日記
 疲れたなあ。伊勢神宮って本当はいつからあるんだろうね?。
 
 日本の歴史は嘘の気がするけど、福岡県には戦国時代に高橋氏がいて、高橋氏は高橋紹運と高橋元種の2つの家系に分かれたらしい。高橋紹運の息子の立花宗茂は柳川藩の初代藩主で、立花宗茂の兄弟の立花直次の息子の立花種次は三池藩の初代藩主らしい。高橋元種は宮崎県にあった延岡藩の初代藩主らしいけど、高橋元種は秋月氏から来た人らしい。秋月氏は戦国時代は福岡県朝倉市にいて、江戸時代は宮崎県にあった高鍋藩の藩主だったらしい。
 
 宮崎県にあった延岡藩の藩主は何度か変わって、廃藩置県の頃は内藤氏が藩主だったらしいけど、延岡藩の最後の藩主の内藤政挙は静岡県にあった掛川藩の太田氏から来た人らしい。内藤政挙の次の内藤氏の内藤政道は内藤政挙の息子のようだ。
 
 延岡藩の内藤氏は延岡藩に来る前は福島県いわき市にあった磐城平藩にいて、いわき市にあった湯長谷藩の藩主も内藤氏だったらしい。本当か知らないけど・・・。延岡藩の内藤氏の墓所も湯長谷藩の内藤氏の墓所も神奈川県鎌倉市にある光明寺という浄土宗の寺にあるらしい。光明寺の山号は天照山のようだ。
 
 宮崎県西臼杵郡高千穂町には天岩戸神社があって、西本宮は天岩戸といわれる洞窟が御神体らしい。天岩戸神社のHPを見ると、西本宮は大日霊尊を祀っていて、東本宮で天照大神を祀っているらしい。大日霊尊は天照大神の別名らしい。天岩戸神社の近くには天安河原というところがあるらしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、日本中の人たちがグルになって俺のことを呪ってるんじゃないの?。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか