東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

徳川

2023-06-02 23:56:23 | 日記
 徳川幕府は本当にあったんだろうか?。
 
 明治時代から大正時代の曹洞宗の僧で日置黙仙という僧がいて、永平寺の貫首や曹洞宗の管長を務めた僧らしいけど、詳しいことがわからない。日置黙仙は鳥取県の北栄町の出身で、北栄町のHPに日置黙仙のことが書いてある。日置黙仙は海外にも布教活動に行ったようだ。
 
 静岡県袋井市にある可睡斎は秋葉総本殿といってるようだ。可睡斎は日置黙仙が再興したらしい。可睡斎の本尊は聖観音で、可睡斎の奥の院には不動明王が祀られてるらしい。可睡斎の御真殿は秋葉総本殿というみたいだけど、秋葉三尺坊権現が祀られていて、火防の総本山らしい。
 
 可睡斎のHPを見ると、可睡斎には居眠り和尚の逸話があって、人質時代の徳川家康の知り合いの僧がいて、徳川家康が後に浜松城主になった時に再会し、話をしている最中に居眠りをしてしまったらしい。その話から可睡斎という寺の名前になったようだ。可睡斎は袋井市の久能というところにあるようだ。
 
 静岡県静岡市にある久能山東照宮は徳川幕府の初代将軍の徳川家康の墓所でいいんだろうか?。徳川幕府の話も嘘臭いんだけど、誰の墓所なんだろう?。
 
 久能山東照宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

徳川

2023-06-02 23:49:42 | 日記
 謎だよなあ。なぜか、日露戦争の頃が怪しいんだよなあ。
 
 日露戦争は第一次桂内閣の時の明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあったみたいだけど、戦費の調達のために増税が行われたにもかかわらず、日露戦争の後に日本はロシアから賠償金が取れなかったらしく、日比谷焼き討ち事件が起こったり、日本各地で暴動があったらしい。第一次桂内閣は総辞職して、その後に第一次西園寺内閣が成立したらしい。
 
 明治維新の後の徳川家は田安徳川家の人が継いでいて、徳川家達という人が継いだようだ。徳川家達は貴族院の議員になって、明治36年(1903年)から昭和8年(1933年)まで貴族院の議長を務めていたようだ。徳川家達は江戸時代の生まれで、昭和15年(1940年)に亡くなったらしい。
 
 徳川幕府の最後の将軍の徳川慶喜は水戸徳川家の出身ということになってるようだけど、ウィキペディアで調べると、徳川慶喜は明治維新の後は静岡県に移住して、幕府の関係者だった人たちにも、ほとんど会わず、趣味に没頭した生活を送っていたようだ。徳川慶喜は明治30年(1897年)に東京に移住し、明治35年(1902年)に公爵になり、徳川家の本家とは別で徳川別家を興したようだ。公爵になったことで貴族院の議員にもなったようだ。明治維新の後は徳川家達のほうが徳川慶喜よりも立場が上だったらしく、公爵になるまで徳川慶喜は経済的にも徳川家達の管理下にあったようだ。
 
 栃木県日光市にある日光東照宮と日光二荒山神社と輪王寺は江戸時代は一緒になってたようだけど、本当か知らない。徳川幕府は本当にあったんだろうか?。
 
 日光東照宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

日光

2023-06-02 23:45:51 | 日記
 なぜか、日露戦争の頃が怪しいんだよなあ。
 
 日露戦争は第一次桂内閣の時の明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあったみたいだけど、戦費の調達のために増税が行われたにもかかわらず、日露戦争の後に日本はロシアから賠償金が取れなかったらしく、日比谷焼き討ち事件が起こったり、日本各地で暴動があったらしい。第一次桂内閣は総辞職して、その後に第一次西園寺内閣が成立したらしい。
 
 明治以降の天台座主で一番著名な僧は山田恵諦という僧のようだけど、昭和49年(1974年)から平成6年(1994年)まで20年間も天台座主を務め、「一隅を照らす運動」の総裁を務めたようだ。
 
 山田恵諦という僧の前の天台座主の菅原栄海という僧は岩手県奥州市の江刺の出身らしい。岩手県の寺の本に、そう載ってる。江刺にある勝軍寺という寺の息子らしいけど、行ってみたら、寺が無かった。勝軍寺の山号は愛宕山だそうだ。中尊寺の貫首をしていた千田孝信という僧は菅原栄海の親戚らしい。
 
 菅原栄海の兄の菅原英信も僧で、菅原英信は日光にある輪王寺の門主や東京にある浅草寺の住職を務めたらしい。菅原英信の息子の菅原信海も僧で、ウィキペディアを見ると、早稲田大学の名誉教授で、神仏習合関連の本を出してたり、山王神道の研究という本も出してるようだ。菅原信海は大正14年(1925年)の生まれで、平成30年(2018年)に亡くなったらしい。
 
 江戸時代は輪王寺宮という役職の人がいて、輪王寺の門跡と寛永寺の貫主を兼務し、天台座主にも就いてたらしい。北白川宮能久親王は最後の輪王寺宮で、天台座主には就かなかったみたいだけど、戊辰戦争の時に奥羽越列藩同盟の盟主になったようだ。本当か知らない。
 
 二荒芳徳という人は少年団日本連盟の初代理事長で、太平洋戦争の後にボーイスカウト日本連盟の顧問と総コミッショナーに就任したようだ。二荒芳徳は愛媛県にあった宇和島藩の最後の藩主の伊達宗徳の息子らしい。二荒芳徳は北白川宮能久親王の息子の二荒芳之の養子になったみたいだけど、北白川宮能久親王の娘を妻にしたらしい。北白川宮能久親王には妻が何人もいたようだけど、伊達宗徳の娘の富子は北白川宮能久親王の妻になったようだ。ウィキペディアを見て書いてるけど、これでいいんでしょうか?。
 
 ウィキペディアのフリーメイソンのところに日本のボーイスカウトとあって、少年団日本連盟の初代総裁の後藤新平はフリーメイソンと載ってる。大正11年(1922年)に少年団日本連盟ができたようだ。後藤新平が本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど・・・
 
 昭和24年(1949年)に財団法人ボーイスカウト日本連盟ができたみたいだけど、三島通陽という人は昭和26年(1951年)にボーイスカウト日本連盟の4代目の総長になったようだ。三島通陽は太平洋戦争の後に日本でボーイスカウト運動を広めた人で、三島通陽もフリーメイソンに入会したらしい。三島通陽はボーイスカウト日本連盟の前身の少年団日本連盟の設立当初から関わってるらしく、少年団日本連盟の初代副理事長らしい。
 
 栃木県日光市にある日光東照宮と日光二荒山神社と輪王寺は江戸時代は一緒になってたようだけど、本当か知らない。戊辰戦争の話も嘘の気がするけど、やっぱり、この人たちが関わってるのかなあ?。
 
 輪王寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

川越

2023-06-02 23:44:40 | 日記
 天海は福島県の会津地方の出身という説があって、天海が出家した寺に行ったことがあるんだけどなあ。
 
 埼玉県川越市にある川越大師といわれる喜多院は徳川家に仕えていた天台宗の僧の天海が住職をしていた寺らしい。本当か知らない。天海は慈眼大師といわれるらしく、喜多院には慈眼堂があるようだ。喜多院の本堂のような役割の建物は慈恵堂らしく、良源が祀られているようだ。良源は慈恵大師ともいわれるようだけど、鬼大師や角大師や豆大師や厄除け大師ともいわれるようだ。
 
 喜多院ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

東京

2023-06-02 23:38:27 | 日記
 なぜか、日露戦争の頃が怪しいんだよなあ。
 
 日露戦争は第一次桂内閣の時の明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にあったみたいだけど、戦費の調達のために増税が行われたにもかかわらず、日露戦争の後に日本はロシアから賠償金が取れなかったらしく、日比谷焼き討ち事件が起こったり、日本各地で暴動があったらしい。第一次桂内閣は総辞職して、その後に第一次西園寺内閣が成立したらしい。
 
 明治時代に神社の合祀が行われたみたいだけど、ウィキペディアで調べると、明治39年(1906年)の第一次西園寺内閣の時に内務大臣だった原敬の勅令で神社の合祀が進められ、次の内閣の第二次桂内閣の内務大臣の平田東助という人が強行したようだ。特に神社の合祀が激しかったのは三重県で、和歌山県と愛媛県も凄かったようだ。
 
 平田東助という人は山形県にあった米沢藩の出身で、伊東家から平田家に養子に入ったらしい。本当か知らない。平田東助は第一次桂内閣で農商務大臣を務め、第二次桂内閣で内務大臣を務め、その後は元老に次ぐ存在になって政界に影響力を持っていたようだ。
 
 ウィキペディアで調べると、米沢藩の最後の藩主は上杉茂憲で、明治29年(1896年)に米沢に移住したようだ。次の上杉氏の上杉憲章は上杉茂憲の息子で、大正8年(1919年)に家督を継ぎ、上杉憲章の時に太平洋戦争の終戦を迎えたようだ。
 
 上杉氏は室町時代は室町幕府で関東管領という職に就く有力な氏族だったらしい。本当か知らない。江戸城は太田道灌が築城したらしいけど、太田道灌は上杉氏に仕えていたらしい。
 
 東京の赤坂にある日枝神社のHPを見ると、皇城の鎮と書いてある。赤坂の日枝神社は太田道灌が江戸城の鎮守に埼玉県川越市にある喜多院の日枝神社から勧請して創建したらしい。本当か知らない。赤坂の日枝神社では大山咋神を祀ってるらしい。
 
 日枝神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか