【白地草花絵扁壺 1939・昭和14】
日曜の朝8時、ふとテレビのスイッチを入れると、偶然に「河井寛次郎記念館」の看板が目に入ってきた。そして、かつて訪ねた懐かしい世界が浮かんだ。
吸い込まれるように静寂の別世界に入り込んでしまった。
番組は、これまで見たことのない【ミューズの微笑み -ときめき美術館-】(NHK教育)だった。この番組は、全国北から南まで、ふと訪ねたい美術館を3人の旅人が訪ねる12回シリーズで、それぞれに異なった楽しみ方を紹介する番組だった。この〈河井寛次郎美術館〉はミュージシャンの財津和夫氏が訪ねた、昨年10月の番組の再放送だった。
ここは昭和12年に新築された寛次郎の自宅がそのまま記念館になっている。
新築の記念に柳宗悦から贈られた振り子の時計が静かに時を刻んでいた。同じく浜田庄司から贈られた箱階段や黒光りしている板の間、吹き抜けの空間、屋根の付いた家具、囲炉裏、臼を加工して作った椅子などなど、どれもが時の流れを静かに示していた。思索にふけるときに使ったという2畳の部屋、数々の作品が並ぶ渡り廊下、奥には登り窯が当時のままに残っていて、かつてのにぎわいが聞こえるようだ。仕事場には「心刀彫身」の書の掛け軸がある。中庭にはあの丸石もそのまま残っている。すべてのユニークな空間は、今も私の鮮明に脳裏に焼き付いていた。
私は、かつて何度か引率した京都への修学旅行の折り、河井記念館を二度訪ねたことがあった。
番組を見ながら、映し出される静寂の空間に、歩んできた時の流れが走馬燈のごとくに蘇ってきた。また、30年ぶりにもう一度訪ねてみたいと思った。
昭和32年、ミラノの国際工芸展でグランプリを受賞した際、インタビューを受ける寛次郎の様子を見た。傍らには奥様とあの棟方志功が映っていた。実はそのときの作品は友達が勝手に出品していたと話していた。また、登り窯で作品を見る寛次郎の姿があった。
この番組で文化勲章の受賞も固持したと知った。柳宗悦との出会い、その後の美の追究など、彼の生き方や人柄が再度思い起こさせられるものだった。
書棚から「河井寛次郎の宇宙」(講談社カルチャーブック)と、福島県立美術館で企画された『河井寛次郎展-祈りと悦びの仕事-』で求めた京都国立近代美術館所蔵の川勝コレクションの原色図版を取り出してきた。
しばらく忘れていた陶芸の魅力、河井寛次郎の生き方にもう一度触れてみたい。
かつての感懐
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○河井寛次郎の豊かな作品 (1994.7)
益子を訪れた折りに、浜田庄司やバーナードリーチ、柳宗悦、河井寛次郎等の名を知った。
数年前から陶芸に興味を持ち、いつか京都東山五条の河井寛次郎記念館を訪ねたいと思っていたが、今回県立美術館で彼の作品を見る機会に恵まれた。河井は、無名の職人たちが作ってきた雑器の持つ質実で素朴な美に大きく目を開かれた民芸運動の実践者であった。
よく焼き物の価値は、形が美しいこと、釉薬が美しいことそして使いやすいことと言われる。柳宗悦は「美は用の現れ。用と美と結ばれるものが工芸」と述べ、雑器に虚心が生み出す美しさを見いだした。日用雑器は、今ほとんどが機械製だが、本来は手仕事で作られ伝えられた良さなのだと思う。彼の作品を見ながら、展覧会の副題「祈りと悦びの仕事」の意味や彼の心豊かな生活をかみしめた。そして、自分の趣味で自作した食器を使い、祖先が営々と作った地方の料理を食べることの贅沢さをあらためて考えた。
○ 河井寛次郎記念館を訪ねる。(2000.10)
先日、念願が叶って京都五条に河合寛次郎記念館を訪ねることができた。民芸運動の指導者で生活の中の美を追求した寛次郎の全てを知りたいと思った。
記念館は彼が実際に生活した住宅であり、彼の陶芸や木彫、建築や書にも通ずる独特な芸術家の温もりが伝わる一種独特な空間であった。彼の作品に直に手を触れ、彼も上った階段を素足で上った。その軋みが静かな空間に響き妙にこころが落ち着いた。
生涯のモチーフであった美、仕事、暮らしの三極構造に周囲の作品を位置づけてみた。小さな中庭には、彼が自由に動かしたと言う丸い石が秋の雨に趣き深く置かれていた。そして住宅の一番奥のかつてにぎわったであろう静寂の登り窯で、しばらく思いを巡らした。
彼のことば「此世は自分を探しに来たところ、此世は自分を見に来たところ」に納得し、何か目の前がはっきり見えたように感じ、しっかり自分を見つる生涯をと肝に銘じた。
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日曜の朝8時、ふとテレビのスイッチを入れると、偶然に「河井寛次郎記念館」の看板が目に入ってきた。そして、かつて訪ねた懐かしい世界が浮かんだ。
吸い込まれるように静寂の別世界に入り込んでしまった。
番組は、これまで見たことのない【ミューズの微笑み -ときめき美術館-】(NHK教育)だった。この番組は、全国北から南まで、ふと訪ねたい美術館を3人の旅人が訪ねる12回シリーズで、それぞれに異なった楽しみ方を紹介する番組だった。この〈河井寛次郎美術館〉はミュージシャンの財津和夫氏が訪ねた、昨年10月の番組の再放送だった。
ここは昭和12年に新築された寛次郎の自宅がそのまま記念館になっている。
新築の記念に柳宗悦から贈られた振り子の時計が静かに時を刻んでいた。同じく浜田庄司から贈られた箱階段や黒光りしている板の間、吹き抜けの空間、屋根の付いた家具、囲炉裏、臼を加工して作った椅子などなど、どれもが時の流れを静かに示していた。思索にふけるときに使ったという2畳の部屋、数々の作品が並ぶ渡り廊下、奥には登り窯が当時のままに残っていて、かつてのにぎわいが聞こえるようだ。仕事場には「心刀彫身」の書の掛け軸がある。中庭にはあの丸石もそのまま残っている。すべてのユニークな空間は、今も私の鮮明に脳裏に焼き付いていた。
私は、かつて何度か引率した京都への修学旅行の折り、河井記念館を二度訪ねたことがあった。
番組を見ながら、映し出される静寂の空間に、歩んできた時の流れが走馬燈のごとくに蘇ってきた。また、30年ぶりにもう一度訪ねてみたいと思った。
昭和32年、ミラノの国際工芸展でグランプリを受賞した際、インタビューを受ける寛次郎の様子を見た。傍らには奥様とあの棟方志功が映っていた。実はそのときの作品は友達が勝手に出品していたと話していた。また、登り窯で作品を見る寛次郎の姿があった。
この番組で文化勲章の受賞も固持したと知った。柳宗悦との出会い、その後の美の追究など、彼の生き方や人柄が再度思い起こさせられるものだった。
書棚から「河井寛次郎の宇宙」(講談社カルチャーブック)と、福島県立美術館で企画された『河井寛次郎展-祈りと悦びの仕事-』で求めた京都国立近代美術館所蔵の川勝コレクションの原色図版を取り出してきた。
しばらく忘れていた陶芸の魅力、河井寛次郎の生き方にもう一度触れてみたい。
かつての感懐
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○河井寛次郎の豊かな作品 (1994.7)
益子を訪れた折りに、浜田庄司やバーナードリーチ、柳宗悦、河井寛次郎等の名を知った。
数年前から陶芸に興味を持ち、いつか京都東山五条の河井寛次郎記念館を訪ねたいと思っていたが、今回県立美術館で彼の作品を見る機会に恵まれた。河井は、無名の職人たちが作ってきた雑器の持つ質実で素朴な美に大きく目を開かれた民芸運動の実践者であった。
よく焼き物の価値は、形が美しいこと、釉薬が美しいことそして使いやすいことと言われる。柳宗悦は「美は用の現れ。用と美と結ばれるものが工芸」と述べ、雑器に虚心が生み出す美しさを見いだした。日用雑器は、今ほとんどが機械製だが、本来は手仕事で作られ伝えられた良さなのだと思う。彼の作品を見ながら、展覧会の副題「祈りと悦びの仕事」の意味や彼の心豊かな生活をかみしめた。そして、自分の趣味で自作した食器を使い、祖先が営々と作った地方の料理を食べることの贅沢さをあらためて考えた。
○ 河井寛次郎記念館を訪ねる。(2000.10)
先日、念願が叶って京都五条に河合寛次郎記念館を訪ねることができた。民芸運動の指導者で生活の中の美を追求した寛次郎の全てを知りたいと思った。
記念館は彼が実際に生活した住宅であり、彼の陶芸や木彫、建築や書にも通ずる独特な芸術家の温もりが伝わる一種独特な空間であった。彼の作品に直に手を触れ、彼も上った階段を素足で上った。その軋みが静かな空間に響き妙にこころが落ち着いた。
生涯のモチーフであった美、仕事、暮らしの三極構造に周囲の作品を位置づけてみた。小さな中庭には、彼が自由に動かしたと言う丸い石が秋の雨に趣き深く置かれていた。そして住宅の一番奥のかつてにぎわったであろう静寂の登り窯で、しばらく思いを巡らした。
彼のことば「此世は自分を探しに来たところ、此世は自分を見に来たところ」に納得し、何か目の前がはっきり見えたように感じ、しっかり自分を見つる生涯をと肝に銘じた。
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