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エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

やさしさ

2007-05-15 | 教育を考える
 今朝、会津若松市内でショッキングな事件が起きた。高校生が母親を殺害した何ともやりきれない事件だ。良い話題で故郷が紹介されればいいが、残念なニュースが全国を駆け巡った。この家族に一体、何があったのだろう。彼の心の中の闇が恨めしい。

 昨今、殺人事件は日常茶飯事で、目を覆いたくなるような、考えられないほど残酷な事件は全国どこで起きても不思議はない。
 人間は理性の動物というが、根底には感情が流れている。どんな恨み、感情のもつれがあったのか分からないが、理性で押さえられないこころを持った青少年のこころが悲しく切ない。
 虫一匹殺せない、草一本むしることができない優しい心があれば、と思った。でも、バラのつぼみを食べる虫を見つけると、あるいは蚊が近づけば憎らしく、何の感情もなく排除してしまう。戦争における殺し合いも、境遇がそうさせるのか、同じ人間の悲しいこころを見る。やはり人間も動物なのか。

 また、昨日、5歳の孫は「じいちゃん、とどめを刺すって何?」と聞いた。テレビアニメやドラマにも殺し合いのシーンは頻繁だ。そうした社会に育つ子どもたちの危険な社会に不安を覚えた。
 いろいろ思いを巡らすが、家庭で、地域で、優しい心を、いのちを大切にする心を育む社会でありたい。

拙ブログ「詩人・坂村真民を知る」(5/11)に書いた詩。

二度とない人生だから
 一輪の花にも
 無限の愛を
 そそいでゆこう
 一羽の鳥の声にも
 無心の耳を
 かたむけてゆこう

 二度とない人生だから
 一匹のこおろぎでも
 ふみころさないように 
 こころしてゆこう
 どんなにか
 よろこぶことだろう   ”

バランスの取れた学力を

2007-04-17 | 教育を考える
            《 藤村 「人の世に三智がある」 》(ネットより)

 先頃、「ゆとり教育」下、平成5年度の高3の学力テスト結果が公表された。結果はある意味、「ゆとり教育」により学習意欲が増し、学力も向上したと言える。今、教育再生会議で性急な誤った学力観で、大切な「ゆとり教育」の方向転換が進められ、管理的教育への逆戻りが心配だ。

 私は、誕生した娘に「美知代」と命名した。美しいさわやかな感性・情操を備え、人間らしい知的で豊かなこころで人生を送って欲しい願いからだった。
 いつも教育のあり方が問われているが、それは人として生きることを基本に置かなければならない。
 先頃、従来の幾多の反省に立って提唱された「ゆとり教育」がいとも簡単に方向転換され、強制的な学習指導へ戻ろうとしている。
 もう一度、生徒が主体的に学ぶ側に立ち、個性を引き出し伸ばし育てる教育観に立たなければならないと思う。仲良く助け合い、認め合い、ゆっくりでも着実な、何より温かな教育であって欲しいと願わざるを得ない。
 藤村は「人の世に三智がある」と言う。学んで得る智、人との交わりから得る智、そして自らの体験により得る智である。。
 教師のこうしたバランスのとれた力、真の学力を育む、創造的な教育活動を期待している。


「プロフェッショナル」の元気をもらう

2007-02-09 | 教育を考える

 昨夜の「プロフェッショナル」(第40回)では、MITメディアラボの教授でコンピューター研究者・石井裕氏を取り上げていた。「プロフェッショナル」を見る時いつも、自分にももっと何かができるのではと思い、元気が出てくる。
 もう40回というが、つい見逃してしまうことが多かった。毎回、次元の異なる世界に生きる人々は、ほんとうにプロだ。いつも畏敬の念を持ち楽しみに視聴している。

 石井の研究は実に創造的で、活動的だ。石井は常に時間との闘いのように気忙しく動いていた。彼の歩いている姿は走っているようで、まさに分刻みの行動だ。自らを凡人であると、研究所の誰よりも努力を惜しまない。ほんとうの創造人間だと思った。
 MITの教授に就任する時、上司から日本人の得意な既にある研究の改良や性能の改善でなく、過去の経歴や研究を捨て、新しい研究をと言われた。石井は学生に厳しい。研究者はアイデアを本物の技術にまで高めるために、そのアイデアを客観的に見つめる視線が必要だと。大学での院生の指導場面で、何度も「なぜ?」という問いかけをして、その答えでその研究の独創性未来性を判定する。彼は常にオリジナリティを重要視しインパクトのある物を求めていた。

【春の陽に 窓越しのツユクサ】


 かつて自分も創造性を教育の中心に置いてその実践を心がけてきたが、彼の心理を十分理解できた。工業高校の教職にある時、「創造性の涵養」は、30年も前の新任当時からのキーワードであった。当時から社会に要求されるシステム化能力、創造的能力の重要性を訴え、その実践教材に取り組んできた。すべてが懐かしい思い出だが、こうした教育理念こそ、真の生きる力につながる「ゆとり教育」に通じるものだったような気がしている。
番組はDVD化され、本にもなっている。折りがあればそれらにより新しい時代を見つめ元気をもらいたいと思っている。

ゆとり教育の理念こそ貴重

2007-01-27 | 教育を考える
 身体を壊して高校を退職して丸2年が経つ。今、自分なりに年間テーマを設け試行錯誤を繰り返した当時の日々を思い、もう活用することのない資料の山を整理しながら一抹の寂しさを感じている。

 かつて教職にあった時に書いた文章「創造的教育活動」を読み返した。
 時まさに、幾多の受験体制の弊害を反省から生まれた「ゆとり教育」の始まりの頃で、教職に就いた頃からのキーワードだった「創造性」についてまとめたものだった。

 私の教職時代の大テーマは「創造性の涵養」。退職数年前の大きな関心事は「ゆとり教育」で、その理念の実践こそが私の大テーマに沿うものと考えていた。
 その後、「学力低下はゆとり教育の結果だ」との誤った学力の認識から始まり、昨年設置された教育再生会議でも「ゆとり教育の見直し」が答申された。実に残念なことだ。

 本当の学力とは何なのだろうか。決して知識量ではない。疑問を抱き、主体的にその課題を解決する創造性こそが生きる力につながるはずだ。子どもたちに、受験体制の偽物の勉強ではなく、本当の学力を身に付けさせたいと願っていた。
 人として豊かに生き行く大切な心、情操、感性などを養うには、家庭や社会と学校が共通の認識に立って行う「ゆとり教育」だと、今も信じている。


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「創造的教育活動」                  
 「脳と創造性の謎」(*)を読みながら、左脳と右脳のバランスのとれた働きを考えた。理屈でものを考える、言葉を聞くなどは左脳の、音楽を聞いたりイメージで空想するのは右脳の働きと言う。昨今創造性が強調されるが、それはこれまでの学校教育が左脳偏重人間を育てているという反省でもある。

 時折、窓際から風に揺れる木々の緑をぼんやりと眺め、訪れる小鳥のさえずりを聞く。これは自分なりの右脳の強化訓練だが、鼓膜や網膜を通したこれらのイメージ信号が右脳に潜在するという創造的パワーを引き出すかも知れないと思っている。そしてひらめきや大局を見渡す右脳を養うためせいぜい空想にふけり、芸術を鑑賞し、季節を楽しむなど、感性に響く情報を取り入れようと左脳人間を休むよう心がけている。

 思い返せば30年前、会社勤めを辞め郷里の工業高校の教員になった当時、私は学術的研究を継続しながらの工業技術教育を、と一石二鳥の夢を描いていた。それは教育者であり研究者でありたいと考えたからであったが、当然ながら本分である人間教育に追われる日々に夢はうち砕かれて行った。でも初任の頃企業人の体験から抱いた工業教育現場での課題の一つに「創造性はどうすれば涵養できるか」があった。以来、それは私の工業教育実践のキーワードとなり、いつも時代的危惧を抱きながら細々とふさわしい教材の開発を心がけてきた。

ここでは最近の本校学校改革にあたり実践した創造性涵養教材についてふれてみたい。
 時正に新しい時代の学校改革が叫ばれ、本校でも傍観は許されず、ドラッガーの言う”座して待つでなく、自らの変革を!”と特色あるユニークな新しい高校をめざした。本校では今年度から一括募集、2年次からのコース制がスタートしたが、改革の基本理念を具現する科目として、1学年共通履修の「産業社会と人間」を新設した。ここで、従来の工業教育に欠けていた内容を中心に、”自然・技術・人間”をメインテーマに、知識・技術、創造性、豊かな感性のバランスのとれた、生涯にわたって学び続けることのできる工業技術者の育成をめざした。そしてテキストでありノートであり、レポートでもある学習ノートを編集したが、その中で「創造科学」(①創造性について ②問題解決プロセス ③プロブレム・ソルバー ④望ましい工業技術者 ⑤問題解決の方法 ⑥個人課題研究)を教材化した。学習方法はほとんど体験的課題解決学習により生徒の主体的活動を重視した。

 過去の工業の教育課程改訂のあとを見ると、「目標」等に、・主体的・実践的な態度・創造的能力・環境に配慮などの追記が、「科目」は・総合実習・課題研究・総合的学習の時間などの変遷があった。最近、全国工業高等学校長協会の稲葉理事長は「工業教育のおける創造性の育成」の中で、創造性育成が魅力ある工業高校を作るための必要条件であり、科目「創造工学」の導入を提案している。また経団連は提言「グローバル化時代人材育成について」の中で当面の課題として創造性の涵養をあげている。
 創造的な思考能力や態度はふさわしい教材の工夫・開発と学習方法により育つはずと考える。今回は「問題解決の方法」の中で、BS法KJ法を演習教材として実践した。それは疑問を抱き、問題を提起し分析する、そして効果的な解決を図るプロセスに創造的思考、参画意欲、グループワーク等々の創造性涵養の可能性を期待してとしてのことである。

 これからはこころ豊かに生きてゆくために必要な感性や倫理観などの文化をより重視すべきと考える。そしてあらゆるものに主体的に取り組み、常に自己を啓発する姿勢、創造性を身につけた工業技術者でなければならない。そのためには教師自らが創造性を発揮しなければならず、今後一層広い視野からの創造的教育活動が求められると思う。(【工業教育 vol.37】)

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(*) 「脳と創造性の謎」 品川嘉也著  大和書房

残念な「ゆとり教育の見直し」

2007-01-21 | 教育を考える
このほどまとまった教育再生会議の第一次報告書に、「ゆとり教育の見直し」が挙げられた。これはこれからの日本の教育にとって明らかなマイナスだと思う。一部の有識者の集まりが、この国の教育の有り様を決めてしまって良いはずがない。
 受験体制の反省からようやく生まれた、創造性を涵養する豊かな教育の理念と実践が、いわゆる学力低下という誤解と偏見で消されようとしている。残念でならない。
 「こころ豊かな生き方」を求め、「生きる力」を育む明日の教育でなければならないはずなのに、また管理的な、ぎすぎすした詰め込み教育に戻ってしまうような気がしている。そして、教師と生徒の豊かな人間関係を基礎とした、潤いのある教育の場が失われてしまうのではないだろうか。
教師の仕事は創造的なものだ。机上のペーパー学力は、予備校、塾の世界でいい。真の教育は、学校や家庭での、豊かな人格の完成を目指す人間教育でなければならない。


PCやTVに向かう時間

2007-01-06 | 教育を考える
今朝の「毎日新聞(2007.21.6)」に、連載の【ネット君臨】の記事で「携帯なしで生きられますか・・・」を興味深く読んだ。
携帯を使わないで5日間実験をした。その実験での感想には、・必要なことを検索できなかった。・連絡が取れなかった と言った不便さもあったが、・時間にゆとりが持てた。・時間を有効に使える。・辺りが静かだった。・辺りに目を向ける機会や会話が増えた。 などの生活の変化もあった。また、一応に・電源を入れた時は安心した。であった。
 もはや必需品になっている携帯にも、いろいろ問題があると考えさせられた。また、自分では携帯は使わないが、端から見ていて ・いかに依存しているか。・いかに時間を無駄にしているか。 と言う印象が残った。

 同じ紙面に世論調査特集「ネット社会」の記事があり、作家・柳田邦男が『「負の側面」見る重要性』を書いていた。
 そこでは、まずPCやネットについては、○急速な普及でアセスメントがなされなかった点  ○PCには自己中心的全能感の錯覚、バーチャルと現実の混同、生身の人間接触の希薄化、その社会に入らない時の疎外感、見ないでいられない依存感などをもたらす魔力がある。社会は、それらと毅然と距離を保てる知性豊かな人だけで構成されてはいない点  ○子どもの人格形成への影響  などが挙げられ、問題点がいずれもこころの形成、こころの持ち方をゆがめる影響にあり、公害などをもたらした21世紀型技術と異質だと述べてあった。

 PCはメールのチェックとネットで新聞各紙の社説、コラムを読むのが日課だが、ブログを始めてからは、やはり結構長い時間使っていると思った。でも、何か本を読んだり、考えたりする時間が少なくなるようなので、日頃はなるべくは使わないように心がけてはいた。
テレビも同じだ。各家庭での視聴時間はどうだろうか。子どもへの影響を心配していた。まず時間の無駄だろう。また番組の内容も問題だと思う。
 あえて、テレビを見ないようにしていると同じようなことに気づく。まず、惰性で見る、受け身人間になりものを考えることが少なくなる点。ときどき、見終わって何が残ったのかと振り返ることがある。心に残り、いろいろ考えさせられることもあるが、多くの場合、それは刹那的なある意味その時だけの花火のようなものである。テレビとはそういうものだとは割り切れないでいる。
 時間がどんどんと流れていく。そんな中で、どんな風に時間を過ごすかが、これからの国民の命題だと思っている。余計なお世話かも知れないが、限りある時間をどうしても考えてしまうのである。

小学校「農業科」の学習に期待する

2006-12-10 | 教育を考える


 喜多方市が、来年度から国の構造改革特区制度を活用して、市立小学校に農業科を新設すると言う。その構想がとても素晴らしいと思った。
 将来の担い手をも期待しているとのことだが、小学校で体系的に農業を学ぶことにはそれ以上の人間教育としての意義を認めたい。
 お米や麦、果樹、キノコ、草花等々の作物の成長を見つめながら、土壌や肥料、バイオ農業の温室の空調、さらには農産物の流通や経済など、関わる周辺を具体的に学んでもいいだろう。自然とのふれあいが深い農業と、その学際的領域を学ぶ意義は計り知れない。
生き物との対話やそうした作業を通しての体験をまとめ、話し合い、文章に綴ることは生きた総合的な学習であろう。学ぶ子どもの歓声が聞こえるような気がする
 何よりも、生き物を見つめる体験は、落ち着いた情緒や人としての大切なこころを育むに違いない。そんな授業を期待したい。 。

教員の評価制度は疑問

2006-12-05 | 教育を考える
 今、学校の教員を評価する制度が導入されようとしている。教員の資質を向上させる為というが、子どもたちにとって本当にいい先生を評価できるのだろうか。
カントは「人は教育によってのみ人となる」と言う。三つ子の魂百までもで、その教育の基礎は、まず両親による和やかな温かい家庭から始まる。そして、集団の中での人としての基礎が育まれる幼児教育から小学校での教育が重要だ。だから、関わる先生の資質が問われるのは当然で、いい先生であって欲しいのだ。
 しかし、先生の何を、どのように、誰が評価するのだろうか。先生の、例えばやさしい気持ちを客観的に計ることができるのだろうか。心配でならない。誤った評価で、営々と続いてきた大切な教育の場が壊されてしまうような気がしてならない。
私の小学生のころの恩師は、子ども同様に純真で、正直で、汚れがなかった。理屈ではなく、信念を持って優しく、厳しく接する教師像が浮かんでくる。そんな先生を今も尊敬している。

政治的な教育論争はいらない

2006-11-29 | 教育を考える

 教育基本法の改正案が実のない論議だけでいつの間にか衆議院を通過してしまった。唖然としている。現行法のどこが問題で、なぜ改正をそんなに急ぐ必要があるのだろうか。また同時に進められようとしている学校選択制や教員の評価制度など、教育行政に大きな疑問を感じ、いらだちを禁じ得ない。どうしても、教育現場の実態をよく知らない机上の論理に聞こえてならないのだ。
法律を変えても今の教育や子どもたちの閉塞状況は変わらない。今もっとも大切なことは、教師と子どもが和やかなはつらつとした学校生活を送ることで、そのための教育環境を整えることだと思う。管理的な学校であってはならず、教員や保護者、地域が互いに協調する学校教育という根本認識は当然だ。
 立ち止まり、子どもたちの毎日をじっくり見つめるゆとりを持って、子どもたちを本当の大人に育てなければならない。


もう一度「ゆとり教育」を!

2006-10-28 | 教育を考える
 教育基本法の改正論議がさかんだ。行政主導で改正を急いでいるようだが、現行法のどこが問題なのだろうか。法律を変えても教育の本質は変わらず、子どもたちとふれ会う教育現場、中でも家庭、社会がすべてだ。

 今の時代は子どもが生きにくい世の中だと思う。すべてが、刻々変わってきた社会は、大人を含めて日本人を変えた。毎日報道される事件も、政治、経済から、社会生活まで、驚くことがあまりに多い。こうした世の中をどう生きていけばよいのだろうか。

 数年前まで、教育は学歴社会や競争社会を反省し、生きる力を目指しいわゆるゆとり教育がすすめられた。そこで、自ら考え、解決する力、創造的な問題解決能力、情緒、感性等を含めた生きる力を育む教育は一つの解決策であった。しかしその後、学力の低下が言われ、その原因がゆとり教育にあるとして方向転換がなされようとしている。残念でならない。
 
 日本の子どもと教育が深刻な閉塞状況にある今、ある雑誌でフィランドの教育への関心が高まっていることを知った。そこには、真の学力を求めるフィンランドと狭い意味の学力にこだわる日本の違いが述べられていた。(*)
  
方向転換がされたこれまでのゆとり教育こそは、この真の学力、これからの時代に求められる・生きる力、・人間力を育むものであった。
 人間力とは、一人の人間として力強く生きていくための総合的な力、真の学力である。 それは 1.知的能力的な要素。 2.社会対人間関係的要素 3.自己抑制的要素の構成要素からなるといわれる。言われ続けた学力の低下は、一つの要素としての知的な能力でしかない。真の学力、人間力を高めることを目標にする「ゆとり教育」の実践をあらためて訴えたい。

(*) リテラシーと学力 ―フィンランドと日本―  … 松下佳代

受験のための「学び」ではない

2006-10-27 | 教育を考える

 全国の高校で、学習指導要領に定められた必修科目を教えていなかったことが問題になっている。 これは、入試に必要な科目を優先させ、関係ない科目は学ばせないという、受験校での大学受験対策だった。弊害の多い受験体制社会で、学校自らが率先して効率優先の入試のための学習を進めていたのだ。
 一見、今の受験社会では、ルールを守っている「正直者が馬鹿を見る」行為である。しかし、実は、馬鹿を見たのは必修科目を学べなかった生徒ではないか。受験のための学習を指導した高校の罪は大きく計り知れないと思う。
 言うまでもなく、人として豊かに生き行くための学びであり、広くを学び、必要な教養としての必修が義務づけられているのだろう。
 学ぶことから、それぞれの人生観、自然観など観が形成される。「何を学ぶか」から、「何のために学び」、「どう生きていくのか」と言った、より本質的な問いに立ち向かう教育が求められる。
 
 

「総合的な学習の時間」は教師の創造性から

2006-09-11 | 教育を考える


 文科省は次期学習指導要領で「総合的な学習の時間」のあり方について、根本的に見直す方針を固めたという。当時、ゆとりの中で生きた力を養うことを目標に新設された科目である。これからの教育は、心豊かに、皆が仲良く生きて行くために必要な感性や倫理観などの文化をより重視すべきであり、また、あらゆるものに主体的に取り組み、常に自己を啓発する姿勢、創造性が必要である。
従来の科目にとらわれない横断的内容で、生きる力をを生き生き学ぶことができる「総合的な学習の時間」は、教員にとっても自らの創造性が発揮できる意義ある科目となるはずだった。
 しかし、現在、中学校教員の6割がなくした方が良いと考えている。また、一部の学校で教科の補習や行事の準備に使われたり、学校間の取り組みに差がありすぎるらしい。そこで、今後は学習により身につける力を明確にして、評価も考えるという。
これら一連の経緯を見ると、その起因するところは、教師の科目に関する理念の認識が不足していたこと、そして授業を展開する創造的な能力の欠如と言わざるを得ない。残念でならない。
 もうペーパーで知識を問う時代は終わって欲しい。教師の仕事は、旧態依然、教科書を教えることではない。生徒の実態に適した、真の生きる力を身につける実践が欲しい。それは明確な目標の設定であり、教材の工夫であり、指導法である。と同時に、教師の情熱、意欲が不可欠なことは言うまでもない。
これからは、いっそう広い視野からの教師の創造的教育活動が求められる。
教師のさらなる研鑽を求めたい。

「開智」に見た信州教育の礎

2006-08-19 | 教育を考える

 長野県松本市の旧開智学校を久々に見学した。明治五年の学制公布から始まる近代教育だが、その文中「・・・其ノ身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ・・・」から命名された、我が国最古の小学校である。擬洋風様式の校舎はしばらく見とれるほどモダンであった。
 充実した教育資料から文明開化の時代の新鮮な教育理念に触れることができた。磨り減った木造校舎の階段を上りながら、ぬくもりと共にふとあの啄木の渋民尋常小学校の教室が浮かんできた。
 「智を開く」とは昨今の教育改革で言われる生きる力であり、小学校だけでなく幼稚園から高等教育、特殊教育機関までもが併設されて行った開智学校の歴史は、今の中高一貫教育の理念を見る思いであった。そして学校の建築費用が松本町民の献金によって賄わたことを知り、当時の地域社会の意欲あふれる熱意を感じ改めて信州教育の礎をみた思いがした。 かつてここに集い学びし童は今何処に。


子どもの疑問と教えたいこと

2006-08-01 | 教育を考える
 ラジオの「夏休み子供科学電話相談」を楽しく聞いている。子供たちの素朴なそしてかなり専門的な問いと、それらに答える先生方のやりとりが、いつもとても興味深かい。
 子供たちが興味や関心を抱き、その中に見つける疑問はすべての出発点だと思う。それは与えられた問いでなく、観察等により自ら発見する疑問でなければならない。さらに疑問を主体的に解決しようとする姿勢こそが、昨今話題の生きる力であり、創造性なのだと思う。
 先生方の解答からは、知識と共に理解させるソフトが大切なことを再認識させられる。子どもたちにとってのわかりやすさは、内容の構成と総合化、そしてその基本となる各自に最も適した知的発達の援助である。
 番組を聞きながら、あらためて教えることの難しさを思った。

 疑問への答えは、知識が一番ではなく、○疑問を発見し、○課題を解決する意欲、○継続的な学習態度、○自己啓発していく力 等々の創造性を育む助言でありたいと思った。
疑問を抱いた子どもたちの個性に即して、学ぶことの意義に関わる多くのことを教えてあげたいと思う。


豊かさの中の貧しさ

2006-07-05 | 教育を考える
 昨日、いつも感心して訪問させていただくマーヤンさんのブログに、私のブログ【「足るを知らない社会を恥じる」7/3】の文章を引用していただいた。
 平和な満ち足りた日本だが、立ち止まって考えると何か先々心配なことが見えてくる。
 こころの貧しさについて考えてみた。

劇画「巨人の星」の、裸電球の下で茶舞台を囲む父と姉弟の情景が眼に浮かんで来る。私自身戦後の生まれだが、誰もがその日の生活に追われる時代の物質的、経済的貧しさは幼いながらも記憶にある。
 教育は貧しさを教えることと言う人がいる。確かに、貧しい耐乏生活の中で培われた多くの先人を見てきたし、そこには満ち足りた生活の中では育たない心の成長があった。

 青少年の反社会的行動が毎日のように報道され、心の教育や家庭教育のあり方があらためて問われている。でも、それは心も身体も軟弱な若者が、大人社会の偽りの豊かさの中で育ってきた風潮に空しさにあるのかもしれない。まさに憂うべき「豊かさの中の貧しさ」そのものと思う。

 ルソーは、人間の教育は誕生と共に始まると言った。未完成に生まれ、すべて学習的に発達する人間であれば、大人社会は子供達を太った豚に育ててはならない責務があり、発達する人間であれば、大人社会は子供達の健全な人格を育てるべき責務があるのだと思う。

 以下は、マザーテレサが日本に滞在したときのメッセージ
「豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。」

 いま、貧しさの中の豊かさを思い出し、豊かさの中のこころの貧しさを哀れと思っている。