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エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

フォーオール科学技術教育

2008-08-02 | 教育を考える
  【ミンミンゼミ 初見】

「工学教育」の最新号で《フォーオール科学技術教育》()なる表現に出会った。
)「高校・大学・社会の連携による 高校生のためのフォーオール科学技術教育」( 川村貞夫(立命館大学)、小畠 敏夫(立命館守山高等学校)他)

研究報文を読みながら、掲げられた研究の方針にかつての自分の教材研究が重なった。
 【研究の方針】
  1.文系・理系不分離の指向
  2.体験学習と体験の整理・表現の重視
  3.創生教育
  4.科学技術全分野の俯瞰
  5.環境エネルギー課題の重要性

 初めて聞く《フォーオール》に、 いつからか取り入れられたスーパーサイエンスハイスクール(SHH)教育と対比し、一部の生徒よりも多くの生徒に学ばせる教育の視点はより大切であると再認識した。
今後、これらの立命館守山高校の実践とその成果に期待したい。

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 上記の方針に似たような教育理念のもと、日々の教材研究に明け暮れてきたように思う。 数年前まで【創造的教育活動】をテーマに教材研究に没頭していた事実が、はるか遠い昔のことのように思われた。思えば、幾多の教育実践を、そのときどきの具体的な目標を設定し、それらの解決を目指した生き生きした日々があった。
 それに引き替え、今お前は何をしているのか?誰かにそう問われ、答えに窮する自分を意識する。自問自答すれども、はかない日々を悔いる気持ちが湧くのみである。もっとも、たとえ理想的な発想やアイデアが生まれても、もはやそれらを実践するあたわず、たわごと、独り言でしかない。そう思うとますますはかなさを感じざるを得ない。


昆虫少年になれ

2008-07-31 | 教育を考える

 毎朝、5.6本植えたミニトマトを収穫している。黄色い花が終わるとすぐに小さな実が付き、日に日に大きくなる。毎日赤くなったトマトを結構収穫出来るようになり、楽しんでいる。今朝、武琉君はトマトの上にウスバカマキリを見つけた。早速虫かごを取ってきてカマキリを手で掴んで入れた。 

最近、武琉君は虫たちに興味を持ち始めた。実に恐がり屋で、アリやクモにも大声で発見の報告だけだったが、ようやくバッタを手づかみ出来るようになった。
 じーちゃんは、孫たちに自然への畏敬の念を植え付けたい願いからの興味付けに熱心だ。

 捉まえた虫たちは一度かごに入れられるが、数時間の後に庭に解放される。自分がかつてチョウを蒐集し、さんざん多くの虫たちの命を絶ったことを棚に上げ、その後悔からも、今孫たちに命の大切さ教えている。捕まえた虫はそれなりの観察をしてから放してやることにしている。孫たちとウスバカマキリを花壇に放ししばらく観察した。横から近づくとこちらへ顔を向け、様子を窺っていた。

  
 【振り向いたウスバカマキリ】

かなり前からシオカラトンボを見かけるが、縄張りなのか、いつも止まるところは決まっている。武琉君、見かけるたびに網で穫ろうとするが、まだ経験が足りない。手伝って採ってやり観察した。今日は庭に待望のオニヤンマも現れた。
 また、武琉君はカミキリムシを見つけて呼びに来た。まだ恐くて上手に自分で掴めない。体長を計ると20mm、とてもかわいい。黒や茶のまだら模様はいかにも樹木の保護色を思わせるものだった。これも先ずは虫かごへ。そして、孫と一緒に図鑑で調べるとナガゴマフカミキリのようだった。

  
【かわいいナガゴマフカミキリ】

 武琉君はもう世界中のカブトやクワガタをほとんど知っている。名前や産地、おまけにムシキングカードの技の種類などとても詳しい。DSでカードを読み込ませて、それぞれの得意技で戦いを楽しんでいる。また、カブトやクワガタのフィギュアーでも闘わせて遊んでいる。でも、映像に依存したり、いわゆるバーチャルの世界ばかりは良くないと思い、なるべく庭に誘って、自然の中で実際を体験させたいと思っている。

幼稚園が夏休みに入ってからは、孫二人との毎朝の散歩が習慣となった。今の一番の楽しみは小川に石や花を流して遊ぶこと。また、目にする鳥や虫に関心を寄せている。武琉君は、いつも網とかごを持参する。また行き交う犬やおばあちゃんとも話ができる。萌香ちゃん決まっておばあちゃんへシロツメクサの花をお土産に摘んで帰る。毎朝、実に貴重な体験をしていると思う。
 興味を抱き始めたムシへの関心をずっと持たせてやりたい。


受験産業教育はいらない

2008-05-15 | 教育を考える
                 【サクランボ膨らむ】

 昨年度末、東京の区立中学校で大手進学塾の講師による夜間有料授業を実施するというニュースに接した。できる子をもっと伸ばそうという試みと言うが、こうした発想に大きな疑問を感じた。
 新年度になり、希望する生徒に授業を拡げるという。
知育偏重の是正が叫ばれ、ようやくゆとり教育の理念に行きついた。今そのゆとりが方向転換、また以前の受験競争社会に戻ってしまう危惧を覚える。
 この塾教育も、大学受験のため、さらに一流会社へと言った親の愚かさが、子どもたちを洗脳し犠牲にしているものに思えてならない。
 頭でっかちな人間は要らない。こころ優しい、協調できる「優しい社会」を支える社会人に育って欲しい。子どもたちが心豊かな人生を送るための基盤を培うための教育であって欲しい。
 学校は、とりもなおさず知育、徳育、体育のバランスの取れた全人格的、総合的な教育の場である。営利目的の受験産業との連携が、子どもたちの豊かな学校教育をゆがめる受験競争社会を助長してはならない。あらためてそう思っている。


 甃のうへ 

2008-04-24 | 教育を考える
                【さくら咲く】  


  今朝は春の雨、庭の新緑が落ち着き、いっそう鮮やかに見える。この時期になると、いわきにいたころ授業中に生徒と眺めた、教室前にあったサクラを思い出す。サクラの花びらが舞い散る情景が懐かしく、目に浮かんでくる。
 それは工業高校の専門の授業だったが、達治の詩「甃のうへ」を板書し、流れる花びらを眺めながら我が青春の感動を語ったものだ。忘れられない、いわきの春の思い出だ。
生徒にはいつもこころ豊かな工業技術者であって欲しい願いからの話しであった。

 ついこの前、長い戦後教育の反省からようやくたどり着いた「ゆとり教育」の見直しが打ち出された。学力不足が言われるが、入試のための勉強が本来の教育ではない。その人の人生観、自然観、哲学は、試験の為の知識の詰め込みからは生まれるはずはない。本当に大切な真の学力や 本当に大切なことは、常に学び続ける意欲、能力であり、社会の変化に主体的に対応できる人間の育成である。さらに感性、情緒などの心と頭とを統合する学習経験こそが大切だ。

 芽吹き始めたみどりや小鳥たちのさえずり、さらには文字の連なりからなる一編の詩に動かされるこころこそが大事だと思う。生きゆく時間の中でのこうした感動こそは人として生きる豊かさに違いない。

昨年の今頃のブログにも同じようなことを書いていた。サクラを眺めるときいつも、心を打つ『甃のうへ』を口ずさんでいる。 
 ★【(参)拙ブログ 「花の散り始めるサクラ」 2007-04-23 】
【http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/27069bc3e62bca7885cb77a272646e63】

  『甃のうへ』    三好達治

  あわれ花びらながれ
  をみなごに花びらながれ
  をみなごしめやかに語らひあゆみ
  うららかの跫音空にながれ
  をりふしに瞳をあげて
  翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
  み寺の甍みどりにうるほひ
  廂々に
  風鐸のすがたしづかなれば
  ひとりなる
  わが身の影をあゆまする甃のうへ


本当の学力

2008-04-04 | 教育を考える
            【もう少し 豊後梅】

 福島民報の論説「学力向上へ奮起を」(4月3日付け)を読んだ。
 県内高校の今春の大学合格者数を考察していた。福島大、東北大、東大などを難関大と呼び、県内の高校からの合格者数を挙げ、大学への進学事情を他県と比較していた。
 学力向上も含めた魅力ある学校づくりが急がれるとはあるが、相変わらずの受験体制下の認識と思いがっかりした。

学力不足が言われ、長い戦後教育の反省からようやく到達したはずの「ゆとり教育」の見直しが打ち出された。学力向上は入試のためであってはならない。その人の人生観、自然観、哲学は、試験の為の知識技術の詰め込みからは生まれない。本当に大切な真の学力や感性、情緒などが、頭と心と身体を統合する学習経験から生まれるものだからだ。
 大切なことは、常に学び続ける意欲、能力であり、社会の変化に主体的に対応できる人間の育成である。多くの弊害を生んだ受験体制社会へ戻ってはならないし、それらに迎合する考えには同調しかねる。

 目にさわやかな雨上がりの蒼い山並に、風に揺れる庭の小さな自然に、さらには文字の連なりからなる一編の詩からも心動かされる。たとえば、生きゆく時間の中でそんな感動こそ人として生きる豊かさの一つに違いない。


教養を高めたい

2008-03-17 | 教育を考える

最近、「教養」のなさを憂える意見を散見する。
 あの「国家の品格」を書いた藤原正彦が「教養」について書いていた。【文藝春秋12月号「教養立国 ニッポン -救国の提言-」】
今の日本はアメリカの真似をして経済至上主義、お金が儲かるなら何でも良いという世の中になっているが、これでは、国は滅びる。国を救うのは「教養」だと。
「教養」はなぜ人間にとって大切かについて
「1。大局観を培うこと 2。人間的魅力を高める 3。教養は日本の国柄である 4。教養は愉しみでもある 5。人としての誇りである」と。
 日本は、「足りてますます衣食を求める」国に成り果てた。強くたおやかな国を取り戻すため教養主義の回復を切望している。とあった。

 また、佐藤学は「リテラシーの危機」の中で「日本の中学生の校外の学習時間が世界最低レベルであり、言語の危機と言うより教養の危機の状況である。教養に関する調査結果からも、子どもの学力低下よりも大人社会の教養の衰退がはるかに深刻だ」といっている。  【拙ブログ「言語の危機」 2008-01-23】

せいぜい教養を高めたいと思っている。その過程が楽しいから。

以前のエッセイ (2002.12.14 福島民報 掲載)
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「生徒の学力低下 学ぶ意識高めよ」
昨今、ゆとり教育の弊害として生徒の学力低下問題が懸念されている。先日の経済協力開発機構の調査で、日本の生徒の学力はトップレベルだが学習時間は世界一少ない事がわかった。今日の教育の課題が学力よりむしろ学習意欲の低下にあることを示した。ここで学力とは詰め込みの知識量でなく、創造性や感性などの真の生きる力との認識が必要である。
 生徒はなぜ学びから逃避するのだろうか。儒学者佐藤一斎は、学べば「壮にして為すことあり、老いて衰えず、死して朽ちず」と生涯学習を説いている。またトフラーの『未来の衝撃』には八十才近い老人が新しい世界を学ぶひたむきな努力が書かれている。彼は教養ある人間として死にたいと言った。
価値観の多様化した現代だが、人として生きゆくカギは学びから得られる教養と考える。それは教養が、目標を立て主体的に自己を実現する力だからだ。生徒には、人として生きる意義としての動機付けが大切と思う。   
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幼児期の環境

2008-03-15 | 教育を考える
                【仲良く遊ぶ】

  娘が孫たち二人にDSを与えて2ヶ月ほどになるか、いつも楽しくやっている。
好きなソフトは、マリオやパックンロール、暇さえあれば興じていれば当然だが、そのゲームクリアの進歩には目を見張るものがある。武琉君が幼稚園に行っている間、萌香ちゃんはマイペースで、DVD、DS、絵本、おもちゃと忙しく遊んでいる。DVDの操作もばあちゃんよりも知っている。武琉君は、じーちゃんのPCで(お気に入り)に入れてある「カブトとクワガタ」を出して、画面を自由に操作できる。こんな孫たちの幼児期の環境は、我が子の時代とはかなり違う。まして我々の育ったころは昔話だ。いいか悪いか、でも羨ましく思う。

「好きこそものの上手なり」、「習」の字の「白」はひよこの身体、何度も羽ばたきを繰り返して飛べるようになることらしい。
「論語」に「性相近し、習い相遠し」とある。人の生まれながらもっている性質にはあまり差はない。その後の習慣や教育の違いにより大きな差ができるという。親に似ることは否定できないが、孫の成長に少しでもいい環境を整えてやりたいと思う昨今だ。自由奔放な遊びの中から「性」が造られていくのだ。毎日、孫の成長を見ながら、周囲の環境、しつけや教育が大切なことをあらためて思っている。



早春賦

2008-03-06 | 教育を考える

 まだまだ冷たい北風が身に染みる春の日に、早春賦を口ずさんでいた。
歌詞は1番の「春は名のみの 風の寒さや 谷のうぐいす 歌は思えど」までは歌えるが、あとは分からなかった。私の横で、妻がそのあとを歌った。

 妻によれば、信濃の片田舎の春、妻の中学生のころの卒業式には「蛍の光」や「仰げば尊し」はなく、この早春賦を歌ったと言う。
 すがすがしい、いい歌だが、歌詞を調べ直して、あらためて素晴らしい曲だと思った。同年代の私は、卒業式には、たしか「蛍の光」や「仰げば尊し」を歌った覚えがあった。
 最近では、いろいろな歌を歌って卒業生の前途を祈りお別れをするようだが、その時代としては、何と、進んだ学校だったんだなと思った。
あとでネットで調べていたら (作詞者の吉丸一昌が大正時代に安曇野の地を歩きながら、遅い安曇野の春を待ちわびる思いを詩にしたと言われています。)とあり、何となく分かったような気がした。

早春賦 《吉丸一昌作詞・中田章作曲》

(1) 春は名のみの 風の寒さや
  谷のうぐいす 歌は思えど
  時にあらずと 声もたてず
  時にあらずと 声もたてず

(2) 氷融け去り 葦はつのぐむ*
  さては時ぞと 思うあやにく
  今日も昨日も 雪の空
  今日も昨日も 雪の空

(3) 春と聞かねば 知らでありしを
  聞けばせかるる 胸の思いを
  いかにせよとの この頃か
  いかにせよとの この頃か
*角ぐむ・・・角(つの)のような芽を出す。

● 素晴らしい早春賦 → http://www.youtube.com/watch?v=LJ6YJZv6_Kg
 


新しい月が始まる

2008-02-01 | 教育を考える
【 スケッチ 磐梯麗し(笹山浜より、翁島 ハクチョウ)】

 新しい月、2月を迎えた。初めて迎える平成20年2月である。また繰り返される季節を思うが、実はすべてが、見たことのない新しい季節であり未知の空間への旅なのだ。心して見つめていきたいと思う。そんな新しい気持ちで生活するきっかけとなるような気がする。

 今朝の新聞に、あの教育再生委員会の答申のニュースがあった。いろいろ批判したいことがあるが、「道徳の教科化」もその一つ、とんでもないと考えていた。でも、昨今の社会の情勢を見るにつけ、それも仕方ないことかと思うようになってきた。
 関連して、以下はいつかの思い。

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【 子供の躾は家庭から 】

 親の生き様が子供の見本になる時代は終わったのだろうか。若者の不思議な行動を見るにつけそう思われてならない。身近な親の助言が、あまりに膨大な周囲の情報に埋もれている現状だろう。ある面、屈託のないおおらかで伸び伸びした若者だが、わがまま身勝手な、責任感、向上心もない子をも育ててしまった。親子のなれ合いや互いの甘えは良くない。親は長上の義務を果たさなければならず、本来持ち合わせているらしい人間の怠惰な資質に負けてはならない。
 風土や伝統、文化に支えられた尊敬すべき日本人らしさは急速な社会変化に失われた思う。しかし、おはよう、ただいまの挨拶もできないことや、人に迷惑をかける行いなどは、食事が家族バラバラの家庭と無縁ではない。
 ホモサピエンスは人間らしく進化して行くのであろうか。ここ数十年の急速な世の中の変化が、十万年前からの人類の進化に重大な資質変容因子を取り込む心配をしている。
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塾の講師による夜間有料授業

2008-01-29 | 教育を考える
              【赤井より 麗しの磐梯】

   東京の区立中学校で大手進学塾の講師による夜間有料授業を実施するというニュースに接した。落ちこぼれ対策の補習であり、できる子をもっと伸ばそうという試みと言うが、こうした発想に大きな疑問を感じる。
 学校は、とりもなおさず知育、徳育、体育のバランスの取れた全人格的、総合的な教育の場である。営利目的の受験産業との連携が、子どもたちの豊かな学校教育をゆがめる受験競争社会を助長してはならない。
以前、川内村で村営の学習塾を作ったというニュースを聞き、驚き疑問を感じた。()学習塾は不必要悪である。知育偏重の是正が叫ばれ、ようやくゆとり教育の理念に行きついたのに、また以前の受験競争社会に戻ってしまうのではないかと危惧を覚えざるを得ない。
 子どもたちが心豊かな人生を送るための基盤を培うための教育であって欲しい。



)「村営学習塾は疑問

  川内村で村営の学習塾を作ったというニュースを聞き、驚き疑問を感じている。
 私は子ども3人に学習塾に通わせなかった。塾通いで失われるものは大きく、子どもたちには伸び伸びした少年期を送って欲しい願いがあった。家庭や地域には子どもたちをより創造的なたくましい人間に育てる義務がある。塾通いで、どれだけ無駄な時間が失われるか知れない。
学習塾は不必要悪と思う。根底には競争社会下での漠然とした不安があるのだろう、親は表面的な安心感から塾に通わせ、子どもたちは親や社会環境の犠牲になっている。それでなくとも今、期待の中始まった「ゆとり教育」が見直され、学習環境は子どもたちにとり、強制的、管理的なものに変わりつつある。ペーパー学力偏重の机上の学習でなく、より体験的なバランスの取れた学び環境を取り戻さなければならない。
村営学習塾は地域の学力差を心配しての苦悩の教育施策のようだが、それには、小、中学校における少人数学級の実現が急務だと思う。(福島民報 掲載 2007.5.14)



ゆとりある教育場面

2008-01-28 | 教育を考える
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【冬:崎川浜より 磐梯麗し】


  子どもたちの学力低下が懸念され、長い時間をかけようやく到達した「ゆとり教育」が転換されようとしている。ゆとり教育の検証がないままに、またネコの目のように教育の方向性が変わる。
 授業時間数を増やしても真の学力は育たない。今大切なことは、疑問を抱き、自らの課題を解決する力、学ぶ意欲や感性等を育む、ゆとりある創造的教育活動である。
 黒板を前に、教科書による教師の解説授業は要らない。たとえば、バーチャルな学習教材を離れ、もっと社会や野外で現物に触れる生き生きした体験学習が欲しい。
 詰め込みの知識量、偽りの学力を問う大学入試の競争体制に翻弄され、真の生きる力を涵養するゆとりある教育場面が失われていく危惧を覚えている。一つ一つの授業が、子どもたちの心に響く、おおらかな、主体的な、自由な、こころ豊かな学習の場であって欲しい。


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孫たちに無限の可能性を見る

2008-01-27 | 教育を考える
 
お正月に、娘が、5才と3才の孫たちに初めてDS(携帯型ゲーム機)を買い与えた。喧嘩にならないようにと、青とピンクの2台だ。DSも学習向けのソフトや大人向けの教養ソフトも充実しているし、大事に使えば価値ある代物だと思っている。
 今、孫たちは恐竜やポケモンのアドベンチャーゲームで遊んでいる。PCも大分前から使っているが、情報機器の利用はこれからのリテラシーである。5才になる武琉君はPCの検索画面で恐竜やキャラクター情報を自分で自由に操作している。まったく驚きである。 我々の育った時代に比べ、遙かに情報量の多い世界に育つ孫を見つめている。毎日、計り知れない可能性を見ている。将来どんな大人になるのだろうか。

DSは、ママはいろいろ心配しながらも、今のところ1日1時間という約束をさせている。今の時代にこれらは決して早くはないと思っている。親の管理下で、有効に使わせることも出来ると思う。実は、私も「数独」に凝ってしまった。ばあちゃんは「のだめカンタービレ」とかで遊んでいる。子どもがDSに熱中するのが理解できる。たまに熱中するのもいいものだとおもった。

 DSやPC、DVDやビデオなど、孫たちの見る映像はほとんどがバーチャルな世界である。なるべく現物に触れさせることが大切である。アニメの世界が作りものであることをしっかり認識させたいと思う。幼児期の子どもたちには、バランスの取れた遊びの環境を整える必要がある。
 今の時期も雪の庭にも観察対象はかなりある。裸の木々の枝、空や雲、輝く雪、小鳥のさえずり、5感を総動員して自然と触れ合う時間も大切だ。欠けてならないものは、自然への興味、関心を持たせることと思っている。

 興味の対象も変化する。「どうして?」「~って何のこと?」と矢継ぎ早に質問する。
質問に答えると、分からない言葉はすかさずに聞く。孫たちの真っ白なノートが次々と埋められていく。一生にどれだけの人生ノートが出来るのだろうか。
 この孫たちと、あと何年一緒に過ごせるだろうか。早く成人して欲しい気もするが、今のままでいて欲しい願いもある。目に入れても痛くない、かわいい孫を思う。いつも孫中心の賑やかな生活が幸せだ。


言語の危機

2008-01-23 | 教育を考える
  雑誌「学術の動向」(今月号)の特集:「日本語の将来のために、今何が必要か?」を興味深く読んだ。
  「言語教育の展望」で佐藤学はリテラシー(*1)の危機を解説している。
  「日本の中学生の校外の学習時間が世界最低レベルであり、言語の危機と言うより教養の危機の状況である。教養に関する調査結果からも、子どもの学力低下よりも大人社会の教養の衰退がはるかに深刻だ」という。
 なるほど、テレビ番組を見ていて「一億総白痴化(*2)」と言う言葉を思い出し、こんなことでいいのだろうかと真剣に考えることがある。
また、佐藤が挙げる【21Cの学校カリキュラム】としての4領域(*3)に関心を持ったが、言葉はすべてを通して達成されるべき教育であるという。当然だと思った。
 最近(1/17)中教審が、学習指導要領等の改善についての答申を出したが、その中でも、教育内容に関する主な改善事項の最初に「言語活動の充実」が述べられていた。
 知識を得るための言語、観察結果を記録する言語、レポートに表現する言語、コミニュケーションをはかる言語、何をするにも言語は重要である。あらゆる場面で思考状態を具現する手段としての言語の力はきわめて重要な、リテラシーそのものであろう。
  改めて言語の意義を確認し、教養を高めるため、言語を通しての学びの重要性に気づかされた。
 

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(*1)  『リテラシー(英:literacy)』:「言語により読み書きできる能力」を指す言葉で、元来「識字」と日本語訳されてきた言葉である。近年、情報化社会の進展からコンピュータの利用技術を持つか否かによって個人の可能性が大きく左右することから暗に「情報リテラシー」を示すことが多い。(ウィキペディアから)
(*2)  『一億総白痴化』:社会評論家の大宅壮一が生み出した流行語である。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」という意味合いが強い。(ウィキペディアから)
(*3) ①ディスコースの教育(教科教育) ②市民性の教育 ③アートの教育 ④ケアの教育 の4領域
 
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意義深い、小学校「農業科」の学習

2007-10-02 | 教育を考える
               【実りの秋】
 
 昨年、喜多方市が小学校に「農業科」を新設するとのニュースに接し、その構想に喜び注目し期待していた。先日、この副読本の編集が進められているという新聞記事(9/30付け福島民報)に接した。

農業に関わる総合的な教材はきわめて意義深いと思う。農作業や農作物の他ほか、田畑の生物の観察などを通していのちの大切さを学ぶという。

 将来の農業の展望、先端のバイオ農業技術や環境問題、農産物の流通や経済、さらには地域の産業としての農業の歴史の学習も欲しい。そして、これらはできる限り教室を出て、自然の中で体験的に学んで欲しいと思う。そこから生まれるであろう生徒の生きいきした感動を大切にしたい。

将来の担い手をも期待しての学習と共に、豊かな農業を学ぶことから、落ち着いた情緒、人としての大切なこころを育むことをこそ大切にして欲しいと思っている。

政治不信 心配な「感性・情操」教育

2007-05-31 | 教育を考える
  リタイアして初めていろいろなことが見えてくる。世の中の歪みを数々見るが、普段仕事に追われていると、そうした疑問も増幅する暇がなかった。
 きょうは社会保険庁改革法案が参議院を通過するという。ここ数日の政治の動きに、どうしてなのかと不満がつのる。昨日の年金特措法案の委員会での強制採決、少し前には教育関連3法案や国民投票法案など、重要な案件について十分な本質的な審議が尽くされたとは思えない。なぜそんなに急ぐのだろうか、政治不信はつのるばかりだ。
 
 その中でも特に心配なのは、将来、家族を支え地域社会を担う若者の心の歪みだ。ゆとり教育が見直され、またもとの管理教育へ逆戻りさせるように思える教育行政に不安がつのる。
 いつも思うことは感性、情操を育む教育を取り返さなければということ。これは一昔前からの心配事で、教職にあったときのテーマの1つでもあった。机に座り、教科書、黒板のみの授業ではこころの豊かさは育たない。いまこそ、より創造的な教育活動が求めらているのだ。
さらに、「IQよりもEQ」をと叫びたい。「EQ:心の知能指数」は、ダニエルゴールマンの著したベストセラーで、自分の感情を上手にコントロールする能力であるEQは、総合的な社会的知性と言われている。昨今の青少年の問題行動を見るにつけ、知識の詰め込みの受験体制の評価対象IQより、もっと、こころの知能EQが重要視されなければならないと思っている。

教育行政について、考えれば考えるほど憤りが湧いてくる。精神衛生上よくないが、できることをやるしかない。とりあえずは、清き一票の行使だろうか。
 静かに政治を見つめ、7月に評価の1票を投じたい。