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エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

癒しのテーマ音楽

2009-01-21 | 文芸
        【さわやか自然百景「北海道 クッチャロ湖 冬」より】
 
日曜の朝は、NHKのTV番組「さわやか自然百景」が楽しみだ。
 今週は「北海道 クッチャロ湖 冬」を観た。 北海道最北部のオホーツク海沿岸にあるクッチャロ湖では、湖が凍らない海の近くで、毎年約500羽のコハクチョウが越冬する。強いきずなで結ばれたコハクチョウの家族を見つめた。

 きれいな映像に流れる、坂本竜一作曲のテーマ音楽が何とも言えない。ほとんど欠かさずに見ている「新日本紀行」(現在は「新日本紀行ふたたび」)や「小さな旅」も、そのテーマ音楽にはいつも心の底から癒されている。

 ふと、5年前の闘病中のことを思い出した。ICUでの生死をさまよっていた約10日間、どう準備してくれたのか、いつまでも目ざめない私の耳元で、妻が繰り返し流してくれたのがこれらのテーマ音楽だった。あのときの幻覚は今も記憶に残っているが、懐かしの大好きなテーマ音楽は聴いた記憶がなかった。でも、思い出しても涙が出るほどの辛い病床で、意識の戻らない私の頭の片隅で繰り返し響いていたこの音楽が、私に生きる勇気を与えてくれたと今も信じている。
 テーマ音楽の裏には、種々の豊かな映像や語りがあった。そうしたテーマ曲にいろいろ教えられ、こころ揺さぶられてきた。今、生かされてふたたび聴くこれらテーマ音楽は、特別な音楽となった。辛かったころを思い起こし、周囲に助けられて運良く九死に一生を得たこの命であれば、まず健康を大切にしなければと思っている。

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ときおりのタオイスト

2009-01-19 | 文芸
            【窓ぎわのベゴニア】

  夜、床について、今日の一日をふり返る。残された日々が、それなりに意義を持つよう期待しての日課となった。思い巡らす大事なことはメモをとるが、ほとんどが無為に過ぎ去る日々の反省で、時折焦りをも感じている。
 この焦りは、こうありたいとの願望、欲求だ。そんなとき、良寛や道元、そして老子の「求めすぎるな」と言う声を聞き、安寧を取り戻して眠りについている。

日中も、概ね孫と遊び、草木や小鳥を友に、庭で「閑」を楽しんでいる。我が家の庭の門柱は、人界への入り口である。いつでも行きたければ行けるが、日々、家族、愛犬以外にはあまり口をきく人はない。こころも住環境も世の中から隔離された、陸の孤島と言える。あえて、四季折々を小さな自然の中で過ごしたいと思う。その気持ちはここ数年変わらない。

 加島祥造のベストセラー、詩集「求めない」の原点は、老子の「足ルヲ知ル」だと認識する。そして、これが現代人に欠けるものと思っている。
 彼は著書「伊那谷の老子」で《ときおりタオイストであれ》と言う。その言葉を地で行く生活をして、こころの穏やかさを取り戻している。


【参】拙ブログ
・「閑」を求めて/ 2008-03-28 ・求めない すると- / 2008-03-09
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逝きし世の面影

2009-01-13 | 文芸
               【渡辺京二著 「逝きし日の面影」(葦書房)】

 渡辺京二著の「逝きし世の面影」を読んでいる。
 正月早々に、短大に暮れから借りていた本を返却に行くと、司書の方が「逝きし世の面影」を持参してくれた。暮れに検索し、書架を探したが見つからなかった本だ。有難かった。同時にかなりボリュームのある立派な本に驚いた。しばらく炬燵にあたり、じっくり読もうと思っている。

著者・渡辺京二氏は、著作の意図は「文化は生き延びるが文明は死ぬ。一回限りの有機的な個性としての文明が滅んだ。意図はただ、ひとつの滅びた文明の諸相を追体験すること。それは、古き良き日本の愛惜やそれへの追慕でもない。」と語っている。江戸文明と俗称される古い日本の生活様式である。「近代以前の文明が変貌しただけで、同じ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いているというのは錯覚で、このような日本の文明は、すでに逝ってしまった」と。
 
 この時代を見つめる欧米人の残した膨大な記述資料が丁寧にまとめられている。幕末から明治初期にかけて来日した欧米人が見た日本は、貧しくてもだれもが微笑み、楽しげで、子供をとても慈しむ完成された社会だったようだ。日本に来た外国人が日本人の暮らしを羨んだ実に多くの記述を見る。この国民がたしかに満足しており、幸福であると書かれている。それは、互いに助け合い、支え会い、ともに生きていこうとする「暮らし」だろう。

 かつて日本の地を踏んだ欧米人の鮮烈な印象だが、今を生きる我々がタイムスリップしても、同じ印象をいだくのかも知れないと思った。と同時に、今の時代の幸せ度を再点検したいと思った。多くの異邦人が見た日本の自然、人々の生活、文化はたしかに素晴らしかったのかもしれない。

 ある記述には、日本人は「貧乏人は存在するが貧困なるものは存在しない。」とある。貧しいが、人間らしい満ち足りた生活があったのだ。理解出来るような気がする。
「炉辺に一束の薪、嚢中に三升の米」で十分と詠った良寛を思う。家具ひとつない部屋で、しかも厳寒の山中での生活はどんなに辛いものであろうか。実は、多くの国民が同じであったと思う。その時代から、我々の失ったものを考えると、質素、忍耐、そして怠惰、贅沢などの言葉が浮かんできた。

 彼の意図するように江戸文明の、彼の言う「奇妙な特性」の諸相をしばらく見つめてみたいと思う。
 

会津を愛した早乙女貢さん

2008-12-26 | 文芸
             【磐梯朝霧:早乙女貢 画文集「会津の詩」より】

 今朝の新聞で、作家・早乙女貢氏の逝去を知った。ご本人は言葉に出して健康に自身があると言っておられたくらいで、元気に作家活動を続けておられると思っていたので、突然の訃報に驚いた。
 吉川英治文学賞を受賞した「会津士魂」「続・会津士魂」は全21巻、30年かかったと言い、現在も書いている続編の完成まではあと30年、百歳を超えるまで生きなければならないし、生きる自信があると語っていたそうだ。
 この秋にも、「会津まつり」で例年のように家老・西郷頼母になりきって馬上から颯爽と会津の町を眺めておられたのに。私が先生へ敬意を込めて頭を下げると、軽く会釈を返されたのが目に残っている。
 
 本棚に、早乙女貢 画文集「会津の詩」(新人物往来社刊)がある。発売と同時に求めたものだが、本人はあくまで趣味だと言っているが素晴らしい絵と文章である。

【月明鶴ヶ城:早乙女貢 画文集「会津の詩」より】


【長命寺土塀:早乙女貢 画文集「会津の詩」より】


その巻頭の「わが故郷会津」には、氏の故郷会津への思いを示す一文がある。
「会津に行くたびに、私は安らぎを覚える。 血が呼ぶ、というか、祖先の墳墓の地という思いが、一木一草にも親しみをおぼえ、川の流れにも、親しく懐かしい響きを感じるのだ。・・・・
 曽祖父は会津藩士であり、戊辰戦争で活躍した。その由緒が、私をこの地に導き寄せる。・・・・・明治維新の陰で、もっとも甚大なる被害を受けたのが、会津藩だった。歴史は常に勝利者によって改?される。そこには欺瞞の歴史しかない。明治維新がいい例だ。会津藩士の士道と頑なまでに正義を信じる武士の心は、非道な手段で政権の座を得た薩長土の連中にとって、憎くてならなかったろう。彼らは、おのれらの野望による悪事を隠蔽するために、会津藩を”逆賊”とし、”朝敵”として叩き潰さねば、枕を高くして眠れなかったのだ。・・・・・・」


会津藩への思慕の強い作家として有名であり、『會津士魂』に代表される幕末作品・考察における視点は一貫して会津・新撰組など幕府側に立っている。
歴史を敗者の側から書いてくれた早乙女さんの文章は、私にとってもこころ強い支えとなるものがあった。会津にとって大切な方を失ったと思う。ご冥福をお祈りします。

きけ わだつみのこえ  -文藝春秋「名著講義」-

2008-12-18 | 文芸
【布絵磐梯 かえる日もなきいにしえ】

文藝春秋の10月号から始まった新連載、藤原正彦の「名著講義」を楽しみにしている。
大学1年生を対象として開催しているた読書ゼミネール、毎週1冊の本を通して、学生との授業のエッセンスだ。
1回目は・新渡戸稲造「武士道」、2回目は・内村鑑三、3回目は・福沢諭吉「学問のすすめ」だった。
 それぞれかつて読んだ本だったが、新しく教えられることも多く、あらためていろいろ考えさせられている。

 連載の「名著講義」4回目の今回は、「新版 きけ わだつみのこえ」だった。
いまさらながら、戦争の愚かさ、死んでいった兵士の、親を、家族を思う気持ちに込み上げるものがある。戦後63年、風化しがちな戦争の悲惨さを忘れず、今、当たり前に生きている平和であることの幸せを再認識しなければならない。

この本は、多くの若者に読んで欲しいと思う。あらためて平和の意義を考える一つのよすがとなるだろう。
 「きけ わだつみのこえ」にみる多くの遺書から、自分を含めてその後の若者が当時の学生と比べ、如何に人間的に軟弱であることかと痛感している。

次回の「名著講義」が楽しみだが、渡辺京二著「逝きし世の面影」の予定、出来れば図書館で借りて読んで見たいと思っている。

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母へ最後の手紙 林市造(京大学生。昭和20年4月12日沖縄にて戦死。23歳)
『お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときが来ました。
 親思う心にまさる親心今日のおとずれなんときくらん、この歌がしみじみと思われます。
 ほんとに私は幸福だったです。わがままばかりとおしましたね。
 けれども、あれも私の甘え心だと思って許してくださいね。
 晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。
 母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。
 私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、と言うことは、立派に死んだと喜んでください、と言うことは、とてもできません。けどあまりこんなことは言いますまい。
 母チャンは私の気持をよく知っておられるのですから。』
【「きけわだつみのこえ 日本戦歿学生の手記」(青年学生平和の会 発行:1949より)】

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(参)ネット:昭和毎日ニュースより
きけわだつみのこえ」刊行 1949年10月20日
1947年12月、東大の学生たちによって東大出身の戦没学生の遺稿集「はるかなる山河に」が出版された。この遺稿集が反響を呼び、全国から寄せられた戦没学生の遺稿75点からなる「きけわだつみのこえ」が刊行され、20数万部のベストセラーとなった。前途ある若者たちが戦争に疑問を抱きながらも押しつぶされ、迫りくる死をどう受け入れたか。本心をついに言えず死んでいった彼らの姿が読者の胸を打ち、戦後の平和運動に大きな影響を与えた。


「まぼろしの邪馬台国」

2008-12-14 | 文芸
         【ネットより】


本棚にずっと眠っていた「まぼろしの邪馬台国」を引っ張り出して再読しはじめた。古びた昔のベストセラーは昭和42年第1刷とあるから、私の大学生活真っ只中だった。当時、その本の出版で邪馬台国ブームが起こった。

 昨日、最近封切りの映画「まぼろしの邪馬台国」を観てきた。主演は宮崎康平の妻、和子役の吉永小百合と宮崎康平役を演じた竹中直人だ。
 映画のネット解説によると、「悲運や貧苦を乗り越え、「邪馬台国」に情熱を捧げた夫婦を描いた感動作」とあった。なるほど、著書「まぼろしの邪馬台国」の、邪馬台国が島原にあたっと主張する学説的な内容だけではなく、そこに至るまでの、盲目の康平の目となり杖となった、妻との半生を描いた夫婦愛の物語であった。
 
 40年も放って置いた本を辿った。かつて文章の所々に引いた鉛筆の傍線が、あらためて心を打った。そして、かすかに記憶の引き出しに埋もれていた思いが浮かんできた。
***************************
著書の「まえがき」には、恩師津田先生への思いから邪馬台国を自らの手で探し出そうとした決意が書かれ、妻と共に手探りで生き抜いてきた生活記録であると書かれている。 傍線個所のいくつかをしみじみ読んだ。
 ・「そうだ、失明は古代史のナゾを解くために天が私に与えた試練ではなかったのか。と、こう考えたとき、「邪馬台国」の四字は、ふたたび太陽のように暗黒の私の胸に輝きはじめた。」
 ・「戦死者や傷ついたより多くの人々の不幸を知るに及んで、不幸が自分だけではないことを知るようになった。」
・「暗い眼底に去来する白い雲の流れと、青く広がる有明海から天草灘の潮騒が、私を、ゆえ知らず仕事へかりたてるのである。」
・「目あきは不必要なものを見すぎる」「楽しかった病床生活」など、彼の、眼が見えないことからかえって本質的なことに気づき、病床にある苦しみも幸せに転化していく強靱なこころに気づかされる。また、それ以上に康平を支えた妻の強さ、立派さがこの上なくすばらしい。
 また、傍線の一つ、白秋詩碑の前で、詩の一節に涙した康平の気持ちを思った。
・「背後で妻が碑面の朗読をはじめた。
    山門は我が産土 
    雲騰がる南風のまほら
    飛ばまし今一度
    ・・・・・・
    盲(し)ふるに早やもこの眼
    見ざらむまた葦かび
    籠飼や水かげろふ─

  「盲ふるに早やもこの眼」と言う言葉が棘のようにグサリと喉につきささる。 こらえようとしたがわれ知らず熱いものがこみ上げてきて、不覚にも涙が出た。」
・「この地図には私の苦しかった半生と貧しい人生のすべてが秘められていた。指 先は、生きることを教え、触れてゆく凹凸の海や島は、限りない故郷の郷愁を誘 いゆくりなく病床に舞いこんできた木の葉に、たけてゆく季節を知るのだった。」
   *********************************
「まぼろしの邪馬台国」の執筆は、康平の口述を和子が書き留めていく共同作業だった。共著と言っていいであろう作品は、第1回吉川英治文化賞を受賞した。1980年にその後の更なる研究内容が加筆された決定版が出版された。いずれも絶版だったが、映画化もあったのか、この8月に講談社より新装版が発売されているという。

 再読し終わった「まぼろしの邪馬台国」を「今日の風、なに色?」(辻井いつ子:アスキー)「盲目の科学者」(ヒーラット・グチャーメイ:講談社)の隣に戻した。
 これらの本にどんなにか力付けられたことか。


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詩画集・風の道

2008-11-10 | 文芸



          【詩画集 風の道 の表紙】

10年ほど前に偶然立ち寄った美術館(*)で、一片の詩との出会いがあった。
そのとき見た藍染めの布に書かれた詩が心に響いた。
 いきさつについては、拙ブログ(2008-10-30)「3年遅れの礼状」に書いた。
(*)今井繁三郎美術収蔵館

 そのとき手帳に認めたこの詩は、やがて、山形の詩人・佐藤總右の詩であることが分かり、山形市の霞城公園に「そこは新しい風の通り道・・・」の詩碑の前に立った。
 その後また数年を経て、このほどその出典の詩画集「風の道」を手にすることが出来た。
ご子息の松田氏がお持ちだった絶版の詩画集、2冊しか手元にないその1冊を送って下さったのだ。いただいてはいけないと思っているが、心動かされ、いろいろな意味でこの詩を口ずさみながら生活してきた私の時の流れを書棚に止めておきたい思いもある。とりあえずお預かりしておきたいと思っている。

 全く分からずに愛唱していた詩歌の題は「風の道」、「詩画集 風の道」の巻頭にあった。10年ぶりに見る全編を新しい気持ちで鑑賞している。
 スケッチブック装丁の薄い詩画集は20枚足らずの冊子で、その表紙デザインは、黒い地に赤い色で「詩画集 風の道」とある。早速鑑賞した収録の10数編の詩に思いを込めた作者の心情が表われているような気がする。
 自分なりにその詩からいろいろ思い巡らしていた。また、この会津の雪をながめながら、東北の大地と時の流れをオーバアラップさせながら口ずさんでいた。

「風の道」の全文は以下
*************

「風の道」
そこは新しい風の通り道
吹き抜ける風の中で
ふるさとの雪はめざめる

祭り火は四季をいろどり
人々は伝承の炎を絶やさない
たわわに実る果実のように
人はみな美しい種子を宿している

青いながれのむこう岸から
明るく手招くものがいる
あれは長い伝統を乗り越えた人たち
いきいきと息はずませて
未来の沃土を耕しているのだ


***********

 こうして詩「風の道」を鑑賞すると、忘れかけている心がもたげてきた。
 人々はこうして悩み生きてきたのだろうか。いっそう、生きること、生きていることの喜びを知ることとなった。
 生きることの意味に悩み葛藤する叫びが心に響く。厳しい眼差し、シャープな研ぎすまざれたこころ、生に悩み、苦悶する一詩人を思わざるを得ない。
(松田達男氏に感謝しながら) 



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図書館の利用

2008-10-31 | 文芸
 
 今日、午後から、シンポジューム「再発見!図書館inあいづ ~図書館さこらんしょ。」に参加した。先日、会津大学図書館へ行ったとき、司書の方からポスターを見せられ、良かったらと誘われた。平日でもあり参加者が少ないようなので、消極的ながら参加を希望した。
 これは福島県内の大学図書館連絡協議会の企画事業で、今回は会津若松市内にある3図書館(会津若松市立図書館、会津大学付属図書館、同大短期大学付属図書館)の魅力や連携の可能性を探るパネルディスカッションだった。
 参加者は各大学の関係者の他、一般の参加者を含めて総勢30人くらいだった。
 パネラーは、各図書館の館長3人で、それぞれに施設の概要。歴史や蔵書、さらに地域との活性化をはかるにはどうすれば良いかなどの意見が述べられた。
 この中で、会津図書館は日本で最初に出来た市立図書館であることを知った。それにしても現在の図書館はかなり貧弱であり、図書館の使命から言ってももっとそれなりの環境の整備が欲しいと思っていた。
 そもそも私は、大学図書館は閲覧室の静寂な環境が気に入って利用している。だからそんな市立図書館であって欲しいと思っていたが、幸いこの会議で、会津市立図書館が平成23年に竣工の計画で建て直されることを知った。

公立図書館と大学図書館とは、それぞれに目的や利用対象が違う面があるし、蔵書の中身は違って当然だ。例えば、会津大ではコンピュータ関連領域の専門書が多く文学書が少ないのは当然だ。利用者はそれぞれ必要性を感じて利用するわけなのだ。いずれにしても、それぞれの施設が地域住民にも最大限利用しやすい図書館であってほしい。
 アンケートを求められ、いくつかの要望を書いた。会津大学には、もう少し人文科学や教養を高める蔵書が必要と思った。コンピュータの専門技術教育以前に、一個の心豊かな人材を育成することが第一である。あらたまって、大学図書館の意義の一つを考えさせられた。

パネルディスカッションの後、図書館内を見学した。各図書館の特色ある資料が展示されていた。
 会津大では月周回衛星「かぐや」のデータ解析をしていて、それらの資料が展示され、学生が説明してくれた。
 会津図書館については、会津風土記や日新館教育で使われた四書、錦絵・猪苗代湖図、会津千代松袖鑑、会津藩諸氏系譜など、所蔵の貴重な歴史的資料の現物を見せていだき、とても興味深かった。

 ネット社会で、図書館の連携も変化した。今は一図書館だけでなく、図書館間の横断検索が計画されているようだ。関係者ではないが、活字離れも言われる今、図書館の1冊1冊の書籍が宝の持ち腐れにならないような有効な利用を考えなければならないと思った。
 

3年遅れの礼状

2008-10-30 | 文芸
【 詩集「ノスタルジー」 -昭和30年代への回想- 】

 今日、何気なく一冊の詩集「ノスタルジー」を手に取った。それは、3年前に著者の松田達男氏から突然送られてきた詩集である。そのときに添えられた手紙を読むと、私が山形の新聞に投稿した佐藤總右氏に関する駄文(*)を読まれてのことであった。松田氏は詩人・佐藤總右氏のご子息であった。

 添えられた手紙には日付がなかったが、その詩集の出版は2005年4月とあった。おもえばその年は、退職した年の春であった。5年前に大病を患い、翌年にどうにか生かされて職場に復帰したものの、精神的にもまだまだ心の整理が付かない折りであった。
折角恵送いただいた詩集であたったが、礼状も差し上げずに、そのうち忘れ去ってしまっていた。書棚の詩集「ノスタルジー」の脇には、總右氏の詩集「無明」がある。箱入りの立派な装丁の詩集で、山形に總右氏の奥様を訪ねた折りにいただいたものであった。
 今日、気になっていたお礼の手紙を3年遅れで認めた。

 今も、磐梯の冬景色を描くとき、余白には きまって總右氏の詩
 「そこは新しい風の通り道 吹き抜ける風の中で ふるさとの雪はめざめる」
 を書き続けている。




(*)「山形新聞」掲載文
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○念願かなった總右を知る旅 (山形新聞:2002.6.4付)

 数年前、山形県羽黒町の今井繁三郎美術館で一枚の古びた藍染めの布に出会った。
 「そこは新しい風の通り道 吹き抜ける風の中で ふるさとの雪はめざめる」
 東北の冬からの爽やかな力強い宣言に感動を覚え、以来、作者佐藤總右という人物とこの布について知りたいと思っていた。
總右さんが山形市の詩人で、未亡人が駅前の小路で居酒屋を営んでおられると今井先生からお聞きした。雪の季節にと思いながらも、桜の季節に念願のお店を妻と訪ねた。
旅の目的はこの詩に魅せられた自分がいることを知ってもらうことであったが、この詩を添えた磐梯山の布絵と、感激した思いを納めた拙著「麗しの磐梯」を土産にした。近くに宿を取り、夕刻お店を訪ねた。彼の書斎を改造した部屋で郷土料理をいただきながら、胸につかえていた總右さんのことを伺うことが出来た。
翌朝、桜花爛漫の霞城公園にこの詩が刻まれた詩碑を訪ねた。読み上げると改めて素晴らしい感動が蘇った。

 ○一芸術家知り思わぬ「収穫」 (山形新聞:2002.9.30付)

 出羽国の羽黒山に参拝した帰り道、今井繁三郎美術館に立ち寄った。田や畑の間を縫いながらたどりついた柿畑の中に、鶴岡から移築されたという三百年も前の土蔵が見えた。背丈ほどの壺がいくつも並ぶ庭はヤマゴボウの黒紫の実が印象的な不思議な空間であった。
 監視人などいない館内には大きな絵画が並び、壁には民族衣装やお面が架けられ、屋根瓦やドライフラワーが床に置かれていた。美術館の主は個展開催に上京していたが、これら世界各地の民芸品の数々は、彼の心動かされた宝なのであろう。
 特に早春の月山の風景画に魅せられたが、小さなタンスに何気なくかけらた古ぼけた藍染の布の文字が心に残った。
  「そこは新しい風の通り道 吹き抜ける風の中で ふるさとの雪はめざめる」
 通りすがりに尊敬できる一芸術家を知り思わぬ収穫であった。そしてここに本当の美術館のあり様を見た思いがした。      
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母のちぎり絵

2008-09-27 | 文芸

  父に先立たれた母は、月に1、2度ちぎり絵を習っていた。
 ときどき故郷会津の我が家へ来るとき、いくつかの作品を持ってきてくれた。

  母の作品のいくつかを壁に下げてある。本格的な額に入っている色紙をはずしスキャナーで取り込んだ。
階段の壁の紅い実の作品は、熟した柿と思っていた。身知らず柿が好きだった母が、故郷を思いながら制作したのだと思い込んでいた。でも、よくながめるとツルが見え、葉はブドウのようだ。そう言えば、鮮やかな紅い実は朱色だし、形も多少楕円形、これはカラスウリに違いないと結論づけた。

 母のちぎり絵の作品は、確かに年寄りの拙いものが多いが、この作品は素人の域を出た素晴らしいものだと思う。秋の自然を素直に見つめ、何日もかけて一生懸命つくったものだろう。たぶん母が米寿を迎えたころの作品だと思う。秋の自然に心なごむ、好きな作品だ。

 よく私のところに滞在するとき、母は私を真似て、スケッチブックに磐梯山を描き色鉛筆で染めていた。目も悪く、絵も上手いとは言えなかったが、絵心があったのだろう。そんな母の気持ちを嬉しく、懐かしく思い出した。

 母が一生懸命工夫して作ったちぎり絵をながめていると、元気なころの姿が浮かんで来た。



趣味の焼き物

2008-09-21 | 文芸

 物置の焼き物を整理した。もう20年も前、楽しく陶芸に熱中していたころの作品に久しぶりに再会した。何枚かは食器棚に置いてよく使っていたが、かなりの数は眠っていた。
我が家では、浜田庄司風の益子焼きの湯飲みや織部焼のぐい呑みと共に、会津本郷の宗像焼の角皿、酔月焼の醤油射しなどを毎日使っている。いずれも旅行の折りに求めてきたものだ。

益子の浜田庄司参考館を訪ね、バーナードリーチ、、河井寛次郎等の名を知ってから、さらに陶磁器に関心が高まった。生活の中の美を追求した寛次郎の全てを知りたいと思い京都五条に二度、河井寛次郎記念館を訪ねた。それから大分遅れて民芸運動の創始者である柳宗悦の日本民芸館を訪ねたのは数年前、また、近くは本郷の特色ある各窯元を訪ね、技術やそれを越える感性を探しながら、やきもの楽しさを味わうことができた。
 とかく工芸作品として芸術領域での鑑賞が浮かぶが、実は焼き物こそ民芸運動の言うとおり、「使用しての価値が言われるべきもの」と思っている。雑器という表現があるが、用の美というものが焼き物本来の価値であると思う。柳宗悦は「美は用の現れ。用と美と結ばれるものが工芸」と述べ、雑器に虚心が生み出す美しさを見いだした。
そんな風に焼き物の鑑賞を楽しんでいたが、実際に創作することは難しかった。いろいろ学び、工夫して焼き物を作ったが、ろくろだけは習得出来なかった。ろくろはからりの経験がいるから、もっぱら作ったのは、手びねりの茶碗やぐい呑み、向付など、磐梯山の絵を板に彫った絵皿などだった。文鎮替わりの置物、箸置き、箱物などを楽しく作った。
 床の間には今も大皿の呉須で色つけした絵皿を飾ってあるが、機械ろくろで何とか作った大作である。

 もっぱら食文化との関連で陶磁器を眺めてきた。自作の磐梯の絵皿は、刺身を盛る時に使っている。いつも、ご馳走をよけながら、絵皿の風景を眺めながらの食卓は、自己満足の豊かさだった。自分の趣味で自作した食器を使い、祖先が営々と作った地方の料理を食べることの贅沢さをいつも考えている。


 【楽しく作った作品】
 

 

 

  



野口英世を思う

2008-05-23 | 文芸

今朝の新聞で、今日「第1回野口英世アフリカ賞記念」の切手が発行されると知った。
手紙の投函もあったので、早速郵便局へ行った。結構切手は使うが、何時も記念切手をもらうことにしている。記念切手は2種類で、肖像画と、もう一つはアフリカの地図と顕微鏡がデザインされていた。アフリカ地図の上にhideyo noguti と自筆のサインがあった。
 野口英世は郷土の偉人だ。ときどき記念館を訪ねている。その都度、彼の生い立ち、生き様を見つめていた。何時も目標に向かってくじけず努力する英世の姿勢には感銘を受ける。
夏目漱石からバトンタッチした野口英世の千円札をあらためてながめていたら、彼の「忍耐」の書が浮かんできた。

 以下はずいぶん前に書いたエッセイ。
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 「野口英世の生涯に思う」
 もう十年も前になるか、従来の見方とは一変した赤裸々な人間野口を描いた渡辺淳一の原作「遠き落日」を、驚き、つらい気持ちで読んだ覚えがある。伝記や小学生のころ見た映画の感動などから、自分の中のものが崩れていく思いがあった。
同名の映画「遠き落日」を見た。欠点のない完璧な人格はない。見たくない、隠しておいてほしい心配もあったが、そしてあらためて英世の生きざまを考えさせられた。
 間をおかず猪苗代湖畔の野口英世記念館を訪ねてみた。上京のとき柱に刻した「志を得ざれば、再び此地を踏まず」の決意文、ふるさとの小学校に書いた「忍耐」の書、顕微鏡や試験管を前にした白衣姿の肖像画などに接するとき、映画にない感動がこみあげてきた。貴重な資料の数々から、常に目標に向かいくじけず諦めずに努力する英世の生涯を思った。
 白雲なびく秀峰磐梯を望み、改めて「頑張らなくては」と勇気づけられ記念館を後にした。 (1992.7.28民報掲載)
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魅力の藤沢周平

2008-05-13 | 文芸
【黎明磐梯 2008.5.12 am4:24 2F】

 最近、就寝前に藤沢周平の短編集を読んでいる。以前に読んだものだが、何度読んでも静かに心に落ちて、読後に余韻が残る。

 中野孝次はエッセイ「今に失われた人情世界への憧れ」で周平の時代文学について分析し、「藤沢文学のよろしさ」として、 ○メリハリのきいた文章  ○登場人物がごく普通の人間  ○剣の立ち会いの描写  ○友情のあつさを描く  ○自然描写のよさ  ○食いものの描写の良さ ○主人公の人物の魅力的なこと ○女の姿とと心のよさ  などを挙げている。そして彼を、かつてあった日本と日本人の美しい面を描き出す作家だと評している。また、彼の小説は必ず心の動きの急所を鮮やかに捉えているので、読む者を捉えると。

 かつて藤沢周平の故郷・鶴岡市へは何度も訪れている。
 鶴岡は魅力的な街である。一度は村上の町屋、酒田の土門拳記念館を訪ねた折りに、一度は羽黒山から今井美術館を訪ねた時、また、一度は斎藤茂吉を大石田に訪ねた時と、そのときどきに帰路鶴岡市を訪ねた。これらの小旅行の前、最初に鶴岡市を訪ねたのは、教育研究会の東北大会での研究発表の折りだった。そのときに庄内藩校の致道館を見学したことが思い出される。

藤沢周平は実に魅力的である。これから、まだまだ読んでいない藤沢作品を読み、感動を胸にしまい、また鶴岡市に海坂藩の面影を訪ねたいと思っている。

 藤沢周平は平成9年1月に69才で亡くなった。
『書斎のことなど』には、
「物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだんに消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終わることが出来たら幸せだろうとときどき夢想する。」とある。


(参)拙ブログ 「藤沢周平の世界」(2006-12-11)


感動を表す術

2008-05-09 | 文芸
 日々、畏敬する自然の美しさに感動している。日々の生活の中で、樹木や草花、昆虫や野鳥を写真に撮る。彼らに動かされる心を何とか残したい気持ちでもある。
 心の動きを残すことはなかなか難しいことである。詩や文学の世界もあるだろう。いろいろな思いをすらすらと俳句や歌に詠むことの出来る人をいつも尊敬している。
 人一倍にこころ動かされるが、そのこころをなかなか表現出来ないもどかしさを思う。とりあえず私は、拙い文章で情景を写実するか、心と景色をつなぐスケッチを楽しんだりしている。でも、まずは偉大機械、カメラの力に頼っているのが常である。
 今この素晴らしい情景を目に焼き付け、豊かなこころでいたいと思う。


 【マイズルソウとチゴユリが咲いた。】
  


懐かしの北杜夫

2008-04-12 | 文芸
【かつて蒐集した蝶の標本】


何気なく本棚から「幽霊」を取り出した。冒頭の文章がなんと言っても素晴らしく、青春のころに鉛筆で無造作に引いた傍線部分をときどき読んでいた。その部分はいつかそらんじてしまった。最近、しばらく傍らに置き、何度目かになるが読了した。
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[幽霊ー或る幼年と青春の物語ー] 
 第1章
 人はなぜ追憶を語るのだろうか。
 どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。 ― だが、あのおぼろげな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだろう。それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕(かいこ)が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。

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 書棚には他にずらりと北杜夫の作品が並んでいる。
「少年」「楡家の人々」「青年茂吉」「壮年茂吉」「茂吉彷徨」「茂吉晩年」「或る青春の日記」「羽蟻のいる丘」「マンボウ追想記」「マンボウ博士と怪盗マブゼ」「この父にして」「どくとるマンボウ航海記」「夜と霧の隅で」「どくとるマンボウ昆虫記」等々。実によく読んだものだ。一冊一冊を静かに開くと、懐かしい昔がよみがえってきた。

 北杜夫は大好きな作家だった。あの一文一文の素晴らしい文体、ユーモアあふれる文章に魅了される。「楡家の人々」や、すり切れるほどに読んだ文庫の「昆虫記」は特別懐かしい。
 
 小生、蝶を求めて信州へ進学、青春をチョウと共に過ごした。彼の文章に散見する昆虫たちとのふれ合いは、自分の体験と重なり信州での青春の一コマが思い浮かんでくる。
 彼の旧制松本高校時代の面影を求めたり、山形に歌人茂吉の歌碑を訪ねたりしてきた。 もう一度、北杜夫作品を楽しみたいと思っている。