北方警備
3/12夜、TUFのTV番組「200年の絆 会津藩樺太出兵」をみた。
新聞の番組紹介欄には
「 200年前、ロシアの東方進出を防ぐため、幕府の命令で会津藩約1600名が樺太(サハリン)、宗谷そして利尻島(北海道)の警備についた。ロシアの東方進出を防ぐためだった。しかし敵はロシアならぬ水腫病だった。ビタミン不足から顔がむくみ腹は膨れ、苦しみながら多くの人が死んでいった。その子孫が先祖の足跡を訪ね、遥か200年前に思いをはせる。」とあった。
TVを見て驚いた。その旅人はかつての勤務校でお世話になった先輩、古河憲治先生だった。吹雪のシベリアや北海道最北端の海岸を歩く古河先生の、先祖の立った土地、景色をどんな気持ちで眺めたであろうか。地図を便りに200年前に思いをはせる先生の気持ちが痛いように伝わってきた。厳寒の慣れない風土に、過酷な日々を過ごした会津の先人がいたのだ。
先生は、仙台、花巻五戸、三厩、稚内、宗谷岬、利尻・・・と、当時の会津藩の先人がエゾ警備に赴いた道を辿った。そこここに眠る会津藩士の墓に手を合わせる。
ナレーションは会津出身の俳優・佐藤慶だ。その後戊辰戦争までの会津藩の辿った歴史をふり返り、小田山、日新館などを訪ねる番組でもあった。また、ニシン山椒漬け、こづゆ、棒タラなど会津の食文化なども紹介された。
古河先生は、本泊の海岸に先祖の茂右衛門さんの墓に行きついた。1808.9.1シベリアから会津へ戻る途中、北の海で船が難破し、漂着した利尻で亡くなった。墓石の雪を払い、会津から持参した砂利を置いた。
いずれのお墓も、その土地の人が会津人のお墓を手厚く守っていてくれた。
先生の会津を思い先祖を思う気持ちが切なく、こころ動かされた。
昨年は「北方警備」から200年、会津若松市では各種の記念事業が行われた。
歴史シンポジウムでは直木賞作家の中村彰彦さんが「会津藩のルネッサンス―田中玄宰の改革と北方警備の精神」と題し基調講演があった。
(参) 会津藩の北方警備(樺太出兵)について (ネットより) **************************
文化四年(1807)徳川幕府の鎖国政策の中で、ロシア通商使節のレザノフは実力での通商を図ろうとロシア皇帝の許しなく海軍による樺太・千島への襲撃を開始した。幕府は奥羽諸藩に蝦夷地(北海道)への出兵と防備を命じた。
それでも十分ではなかったため、当時会津藩家老の田中玄宰は幕府に会津藩の樺太出兵を内願。文化5年(1808)正月、軍将内藤信周指揮の下会津藩兵が若松城下を出発、宗谷(稚内市)に本陣を置き、番頭梶原景保が利尻島に派遣された。さらに北原光裕指揮の下樺太に上陸し本格的な警備陣営を設け、ロシア軍襲撃に備え訓練を重ねた。(本営:北原光裕、西側:丹羽能教、東側:日向次明)
実際のロシア兵との交戦はなかったが、樺太からの帰路会津軍は台風に遭い船が難破、一部は天売、離島焼尻島へ避難した。現在宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑が建てられている。また利尻島、焼尻島にも会津藩士の墓がある。
会津藩の樺太出兵はその後の間宮林蔵らの北方探検に大きく貢献する事にもなった。
*************************