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エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

湯のみの絵付け

2009-06-12 | 文芸

茶碗に絵付けを頼まれた。いろいろな形の素焼きの湯のみが届いた。
 昔勤務していた高校の同窓会から、東京地区の同窓会記念品の湯のみにデザインを頼まれた。
 勤務していたころ、創立百周年の記念行事で、マグカップや湯飲みに磐梯山をデザインしたをことがあった。それは、猪苗代湖に浮かぶ磐梯山に、校歌の一節「峰は秀づる磐梯山 水はたとうる猪苗代」と添えたものだった。

 しばらく絵筆を握っていなかった。準備された筆と明るい青の呉須で、いつも描き慣れている磐梯山を描いた。猪苗代湖にハクチョウを浮かべた。
 弘法筆を選ばずだが、粘っこい呉須で、特に細い文字は難しく思うように書けなかった。小さい同窓会名と日付は、鉄筆で掘って呉須で埋めることにした。
 約20個の茶碗に2時間ほどで磐梯山を描き上げた。どのように焼けるのか、できばえが心配だ。

ついでながら、思い立って久々に色塗りを楽しんだ。
 スタンド形のカレンダーの裏面を利用して、数枚の麗しの磐梯を描いた。
 1枚4~5分の仕事なので、いまいちである。


 【静寂の湖 笹山浜から郡山方面】


 【早春の磐梯 河東・大工川付近】


 【磐梯雪景色 崎川浜 赤や青の屋根は廃校になった学校】

もう一度賢治を学びたい

2009-05-29 | 文芸


 何日か前に、NHK「ラジオ深夜便」4時台の「こころの時代」で、米国生れロジャー・パルバース(東京工業大学教授)氏の“私の大好きな宮沢賢治”を聞いた。
 途中からだったが、賢治を熱く語る氏の的確な賢治への思いに感心し、氏に興味を抱いた。
放送の最後に英訳の朗読を聞いた。
 Strong in the rain   Strong in the wind ・・・

ネットで検索した。氏は第18回「宮沢賢治賞」を受賞し(宮沢賢治に関する優れた研究や評論をした人に贈られる賞)、「雨ニモマケズ」を『STRONG IN THE RAIN』として英国で出版、また青少年のための『英語で読み解く賢治の世界』で、長年賢治の詩、童話作品の研究・翻訳に取り組んでいる。
 本棚には何冊もの関連書籍があるが、別の視点で読みたいと思い、早速、ネットで[「英語で読み解く賢治の世界」を発注した。

 放送を聞き、忘れていた賢治の精神を思い出し、もう一度学ぼうと思った。

 以下は、かつての拙エッセイである。


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賢治の高潔な精神に学ぶ (1996.2)

 今年は宮沢賢治生誕百周年に当たるという。彼は私にとって小さい頃からの身近な詩人、哲学者、科学者であった。
 五年前、花巻での研修会の帰りに賢治の記念館に立ち寄ることが出来た。その折求めた小冊子「宮沢賢治記念館」には、見学の感動メモが記されている。
 彼の三十七才の短い生涯を思い、サムサノナツハオロオロアルク暗い時代の、しかし濃厚な精神的生きざまを考え直した。そして自分の精神状態の貧しさを嘆き、物質文明が精神の高揚を妨げる一因ではないかと疑ったりしている。
 妹の死を嘆く詩に、暗い冬の寒さが思い浮かぶ。賢治の古い手帳に書かれた「雨ニモマケズ」を繰り返し読むうちにその高潔さに涙がこみ上げてきた。またイーハートヴ、ジョバンニなどの響きからは、賢治の抱いた大自然や宇宙銀河の世界が清らかによみがえってくる様だ。
 賢治生誕百周年は、私の惰性の日々に、人生の糧となる彼の生きざまを振り返り、再度豊かな心を考えるチャンスとなった。
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日記@BlogRanking

文藝春秋

2009-04-14 | 文芸
           【カイドウ ヒヨドリ ジンチョウゲ】

 文藝春秋5月号が発売になった。
 いつものように短大の図書館でゆっくり読ませてもらった。満開のサクラのもと、新入生が所々に集い、お昼を食べていた。新しいスタートを切ったキャンパス風景を見た。

《ご成婚五十周年大特集》関連の記事や《小沢一郎の罪と罰》などがメインのようだが、
○半藤一利氏の「明治維新は非情の改革だった」そして、藤原正彦氏の「父・新田次郎の背を追って」は面白かった。
 他に、○櫻井よし子氏の「地球温暖化の詐欺を暴く」 ○青木新門氏の「私が出合った幸福な死 ─「おくりびと」と「納棺夫日記」」 ○中曽根康弘/金子兜太氏の「宰相は俳句で磨かれる」など、今月号は私には興味深い記事が沢山あった。

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●半藤氏の「明治維新は非情の改革だった」表題には「伊藤博文もテロリスト」「維新は権力闘争だった」などとあった。反薩長の歴史解釈が小気味よかった。
 お父さまが長岡の出身、やはり血筋がそうさせるのだろう、明治維新の戊辰戦争は東北や越後の諸藩に対する侵略戦争に他ならないと断言する。世間でまかり通っているのは、薩長が自分たちの革命を正当化した薩長史観だと薩長を痛烈に批判している。最近、薩長史観に異議を唱えて、「幕末史」を著した。是非読みたいと思っている。
  
●「父・新田次郎の背を追って」は、あの「国家の品格」の著者・藤原正彦氏が3月に大学を退官されたときの記念講演の内容だ。
これまで歩んだ道のりをふり返り、数学と文学の違いを述べていた。

・終戦後の貧しい生活の中、幼いこころに豊かさと幸せには何の相関関係もない事実がはっきり刻み込まれた。
・これからは、経済の修復より社会や人間や自然の修復が急務だ。
・数学と文学の違いは、共に永遠を希求しながら文学は有限の人生を意識し、数学は人間、時間、空間から超越している、むしろ無限を意識している。
・夜中に浮かぶインスピレーションについて、数学と文学の違い。文学の場合は夜中のひらめきが、起きてからも残っている。思考パターンが文学に関係が深いからと言う。
・数学の真理を追究する上で大切な資質はIQや偏差値ではなく美的感受性これは日本のお家芸である。
・日本人の著しい美的感受性について、それらを育んできたのは繊細で美しい自然である
・数学は日々の進歩がなく、文学にはある。オール・オア・ナッシングである数学、文学は時間をかければ誰でも才能と努力に見合った作品書ける。
・仕事を成し遂げるに大切な3要素は ①野心 ②執着心 ③楽観的であること
・人間のもっとも深い情緒は例外なく死に関係している。有限の人生を意識しているからこそ文学も芸術も永遠を希求する。数学も同じだが、有限な存在を意識せずに抽象世界を進む。
 
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日記@BlogRanking

懐かしいマンガ

2009-04-04 | 文芸
         マルコ

 娘がときどき孫たちにDVDを借りてくる。今回は、「プリキュアファイブ」「仮面ライダー」そして、劇場版の「母をたずねて三千里」だ。
 懐かしい「母をたずねて三千里」を一緒に見た。あのテーマ曲の歌がなく、少し物足りなかったが、不覚にも涙を流してしまった。
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「草原のマルコ」

はるか草原を ひとつかみの雲が あてもなくさまよい とんでゆく
山もなく谷もなく 何も見えはしない
けれどマルコ おまえはきたんだ アンデスにつづく この道を
さあ出発だ 今 陽が昇る
希望の光両手につかみ ポンチョに夜明けの風はらませて
かあさんのいる あの空の下 はるかな北を めざせ
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 ネットで調べたら、フジテレビ系の世界名作劇場枠で「母をたずねて三千里」が放送されたのが1976年と言う。長男がまだ4才のころだ。でも、おそらく再放送されていたのだろう、子どもたちの成長とだぶって思い出された。娘に聴いたら、あまり記憶にないらしい。覚えているアニメでは、「ふしぎな島のフローネ」「キャンディ・キャンディ」「ミツバチマーヤ」などを挙げた。
孫たちが、いま毎週見ている番組は、ドラえもん、仮面ライダー、シンケンジャー、それにプリキュアファイブなどだ。それに比べると、アニメ、そしてやはり世界名作はいいと思う。そうそう、宮崎作品も。

 誕生やクリスマスのプレゼントは決まってそれらのフィギィアーのおもちゃだ。結構な値段で親も大変だ。また、武琉はいつも格闘シーンを真似てじいちゃんに戦いを挑む始末、日本中の子供が追い求めるアニメの影響はいろいろと大きい。

我々が小さいころはテレビなどない時代、ラジオの赤道鈴之助か。でも小学生のころは床屋さんに行くと、月刊誌の「少年画報」「冒険王」「少年」などで「鉄人28号」「天馬天平」などのマンガをよく見ていたことを思い出した。そう言う意味では、時代は変わってもさほど変わらないかも知れない。



会津彼岸獅子 春の訪れ

2009-03-22 | 文芸


  彼岸の墓参りの帰りに、街中を廻っている彼岸獅子にであった。天寧 彼岸獅子だった。
長い冬に終りを告げる春彼岸の会津の風物詩、春の訪れを喜びあう会津の伝統行事だ。3体の獅子が笛と太鼓の音色に合わせ、美容院、寿司や、ラーメン屋の前で舞っていた。
古式ゆかしい舞をみながら、ほんとうの春の訪れを感じた。長い伝統があるこの舞いを、昔の庶民がどんな目で眺めていたのだろうか。
 舞い終った獅子に、孫たちとの記念に写真をお願いした。


会津若松市内では、天寧・下居合・神指・北会津・小松などの獅子団がある。磐梯町、会津高田、西会津、喜多方市でも伝統の舞いが守られている。

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○ 会津彼岸獅子の歴史 (ネットより)
天喜四年(西暦1056年)前九年の役に源義家が安倍貞任を征討の際、士卒の戦死者を弔い、士気を鼓舞するため、従軍の兵卒に笛太鼓の勇壮な調子に合わせて舞をさせたのが起源で、当時は木彫の獅子頭をかぶって踊ったと言われています。
 今でも木流村にある頭はその類であるが、現在のものは大体張子になりました。
 今から約300年(天正二年・西暦1573年)前、会津一円に悪疫が流行し死者数知れぬ惨禍があった時に、主な社寺に獅子舞を奉納し平癒を祈願したところ次第に終息したと言う。
 折しも春彼岸であったために彼岸獅子と呼ぶようになったと伝えられています。
 寛永二十年(西暦1643年)に保科正之公が出羽の国「最上」(今の山形県)から会津藩主として移封された時、獅子を先頭にして若松城に入城し、大いに士気を鼓舞したと伝えられています。
 また、戊辰の役(西暦1868年)のこと、日光口の総督「山川大蔵」が帰城する際、小松の獅子団を先頭に大楽団を組織し、威風堂々と銃列を敷く敵中を行進して城中に入るという話はあまりにも有名です。
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スピーチ「壁と卵」

2009-03-19 | 文芸

                【ミスミソウ咲き始める】

イスラエル最高の文学賞、エルサレム賞が2/15、作家の村上春樹氏に贈られた。
「文藝春秋」4月号で、村上春樹の『独占インタビュー&受賞スピーチ 「僕はなぜエルサレムに行ったのか」』を読んだ。
有名になった「壁と卵」のスピーチ全文を英文と和訳を見比べたりして静かに読んだ。素晴らしい内容だ。授賞式がイスラエルのガザ攻撃の時期とも重なり、周囲からは辞退の勧めがあり、本人も悩んだようだが、彼の言うように「受賞を断るのはネガティブなメッセージ、出向いて授賞式に話すのはポジティブなメッセージ」になったと思う。

【心に残ったスピーチ】
 ○熟考のすえ、最終的に私はここに来ることを決心しました。私がここに来ると決めた理由のひとつは、あまりにも多くの人々が「行くべきでない」と言ったことです。・・・ 私は立ちすくむよりもここに来ることを、目を反らすよりも見つめることを、沈黙するよりも語ることを選びとりました。
 ○個人的なメッセージを送らせてください。これは私がフィクションを紡ぐ時、常に心に留めていることです。私はそれを一枚の紙切れに書いて壁にはっておくというよりもむしろ、私の「心の壁」に彫りつけられていること……それはこういうことです。
"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."
「もしここに高く、固い壁があり、そこにぶつかれば割れてしまう卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。」  

○このメタファーはいったい何を意味しているのでしょうか? それはいくつかの場合において、とてもクリアで単純です。高く固い「壁」とは、爆撃機であり、戦車であり、ロケット砲であり、白リン弾です。そして「卵」とは、それらに壊され、燃やされ、撃たれる非武装市民……、これがそのメタファーが意味することのひとつです。
○私たちひとりひとりが、多かれ少なかれ「卵」なのです。私たちは唯一かけがえのない魂を内包した、壊れやすい殻に包まれた卵なのです。これは私にとっての真実であり、皆さんにとっての真実でもあります。そして私たちはそれぞれ――多少の違いはあっても――高くて固い壁に直面しています。その「壁」の名は、そう、「システム」です。
○僕が小説を書く理由は、ひとつしかありません。それは個々人の魂の尊厳を立ち表わせ、光りをあてることです。
○今日、皆さんにお伝えしたかったことはただひとつです。
 私たちは誰もが人間であり、国籍や人種や宗教を超えてみんな一人一人の人間です。システムという固い「壁」に直面する「卵」だということです。・・・私たちにはそれぞれ、手に取ることが出来る生きた魂がある。システムはそれを持っていません。
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  最近、アメリカの救世主、オバマ大統領の演説を聴いた。今スピーチを読み終え、改めて「言葉の力」を再認識させられている。

土門 拳を観る

2009-03-18 | 文芸
            【土門 拳 記念館】

 昨日は朝から梅雨を思わせる雨降りだった。時折みぞれに変わるが、寒さもそれほどではない。
「文藝春秋」の四月号を見に、短大図書館へ行った。大学はもう春休みに入り、図書館も貸し切りだ。年度末でもあり、学校ではいろいろな工事が入り、春休み特有の雰囲気だった。 
 「文藝春秋」を月に1度楽しみにしている。ゆっくりソファーに座ってのくつろぎのひとときだ。4月号の広告で、2月にエルサレム賞を受賞した村上春樹のスピーチに関する記事を読みたいと思っていた。独占インタビュー「僕はなぜエルサレムに行ったのか」だ。

 グラビアの生誕100年「土門 拳が見た日本と日本人」を興味を持ってみた。そこには、【一貫して日本の文化の本質を追い求めた彼が写し取った「原日本人」の肖像】とあり、あの土門らしい作品が載っていた。
 以前、山形の酒田市に土門拳記念館を訪ねたことがある。そのときの感動を思った。
家に戻り、その際に求めた【土門拳の昭和②「こどもたち」】を書棚から出してきてあらためて鑑賞した。もう一度訪ねてみたいと思っている。
 
 
  以下は、10年前の感動。
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酒田・土門拳記念館での感動 1999.9

 待ちかねて開館時間の九時前に土門拳記念館を訪ねた。丁度、土門拳生誕九〇年の特別企画展「古寺巡礼」と「筑豊のこどもたち」を鑑賞することができ、あらためて写真の意義を見つめ直した。特に戦後まもなくの「こどもたち」の写真には感慨深いものがあった。それは当時の自分の思い出に重なる懐かしさと、反対に思い出したくない脳裏に残る風景でもあった。同じ年頃の自分が確かにその中にあり、昭和三十年頃の自分の家庭での生活はどうだったか、かすかな記憶をたどった。
 写真の素晴らしさは、どれだけ見る者の心に響くかだと思う。仏像の心やこどもたちの心が伝わって、作品の前で込み上げる感動があった。説明のパネルにある、「実物以上に実物である写真が本当の写真」「写真は肉眼を越える」などの土門拳の文章をすべての作品が如実に示していた。日本人の心を写しきった彼の芸術を静かに鑑賞し、充実した満足感に浸ることができた。
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懐かしい花瓶に生ける

2009-03-16 | 文芸


 従兄弟から、孫の武琉君に入学祝と生花が届いた。そうか思えばもうお彼岸だ。
 物置から花瓶を出してきた。自分で絵付けした懐かしい花瓶にした。



 花瓶のデザインは3つの絵が青い呉須単色で書かれてあった。
○松の枝の絵に「霜幾たび降れど松ヶ枝の永遠に緑の美しきかな
○コスモスに  「年々歳々花相似 歳々年々人不同
○磐梯山に   「養浩然之気
花瓶の底に昭和61年作とあるから、もう25年も前のもの、当時のそれなりの人生観を表現したものだろう。懐かしいかぎりだ。勤務校での現職教育で、窯業科の窯で焼いてもらった作品だ。

     

 明日は彼岸の入り、暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。
 ユキワリソウ、フクジュソウが花を開いた。昨年より10日ほど早いようだ。
 穏やかな春の陽に、庭の寒暖計も昼前に10℃近くまで上がった。

白のミスミソウ

会津藩の北方警備

2009-03-14 | 文芸
北方警備

3/12夜、TUFのTV番組「200年の絆 会津藩樺太出兵」をみた。
新聞の番組紹介欄には
「 200年前、ロシアの東方進出を防ぐため、幕府の命令で会津藩約1600名が樺太(サハリン)、宗谷そして利尻島(北海道)の警備についた。ロシアの東方進出を防ぐためだった。しかし敵はロシアならぬ水腫病だった。ビタミン不足から顔がむくみ腹は膨れ、苦しみながら多くの人が死んでいった。その子孫が先祖の足跡を訪ね、遥か200年前に思いをはせる。」とあった。

 TVを見て驚いた。その旅人はかつての勤務校でお世話になった先輩、古河憲治先生だった。吹雪のシベリアや北海道最北端の海岸を歩く古河先生の、先祖の立った土地、景色をどんな気持ちで眺めたであろうか。地図を便りに200年前に思いをはせる先生の気持ちが痛いように伝わってきた。厳寒の慣れない風土に、過酷な日々を過ごした会津の先人がいたのだ。
 先生は、仙台、花巻五戸、三厩、稚内、宗谷岬、利尻・・・と、当時の会津藩の先人がエゾ警備に赴いた道を辿った。そこここに眠る会津藩士の墓に手を合わせる。
ナレーションは会津出身の俳優・佐藤慶だ。その後戊辰戦争までの会津藩の辿った歴史をふり返り、小田山、日新館などを訪ねる番組でもあった。また、ニシン山椒漬け、こづゆ、棒タラなど会津の食文化なども紹介された。
 古河先生は、本泊の海岸に先祖の茂右衛門さんの墓に行きついた。1808.9.1シベリアから会津へ戻る途中、北の海で船が難破し、漂着した利尻で亡くなった。墓石の雪を払い、会津から持参した砂利を置いた。
 いずれのお墓も、その土地の人が会津人のお墓を手厚く守っていてくれた。
 先生の会津を思い先祖を思う気持ちが切なく、こころ動かされた。

昨年は「北方警備」から200年、会津若松市では各種の記念事業が行われた。
 歴史シンポジウムでは直木賞作家の中村彰彦さんが「会津藩のルネッサンス―田中玄宰の改革と北方警備の精神」と題し基調講演があった。

(参) 会津藩の北方警備(樺太出兵)について (ネットより)            **************************
文化四年(1807)徳川幕府の鎖国政策の中で、ロシア通商使節のレザノフは実力での通商を図ろうとロシア皇帝の許しなく海軍による樺太・千島への襲撃を開始した。幕府は奥羽諸藩に蝦夷地(北海道)への出兵と防備を命じた。
 それでも十分ではなかったため、当時会津藩家老の田中玄宰は幕府に会津藩の樺太出兵を内願。文化5年(1808)正月、軍将内藤信周指揮の下会津藩兵が若松城下を出発、宗谷(稚内市)に本陣を置き、番頭梶原景保が利尻島に派遣された。さらに北原光裕指揮の下樺太に上陸し本格的な警備陣営を設け、ロシア軍襲撃に備え訓練を重ねた。(本営:北原光裕、西側:丹羽能教、東側:日向次明)

実際のロシア兵との交戦はなかったが、樺太からの帰路会津軍は台風に遭い船が難破、一部は天売、離島焼尻島へ避難した。現在宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑が建てられている。また利尻島、焼尻島にも会津藩士の墓がある。
会津藩の樺太出兵はその後の間宮林蔵らの北方探検に大きく貢献する事にもなった。
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89歳の新人作家

2009-03-04 | 文芸
法用寺 三重塔

数日前、2日間にわたり4時のNHKラジオ深夜便を聴いた。作家・久木綾子氏の「瑠璃光寺五重塔に魅せられて」だ。
 初めて聞く、歴史小説「見残しの塔―周防国五重塔縁起 」の著者は89歳、声と言い、話しの中身は驚くほど若かった。
 ネットの書評には、「人は流転し消え失せあとに搭が残った。搭の名は瑠璃光寺五重塔。中世室町。五重塔の誕生をめぐる人びとの数奇な運命を描く歴史小説の大作」とあった。
 著者は「塔を建てた人を描いてみたい」と思ったが、どの塔にもその誕生にかかわる歴史、人間ドラマがあったに違いない。まさに「人は流転し消え失せあとに塔が残った。」であろう。
 瑠璃光寺五重塔については、いつか司馬遼太郎のDVD「街道をゆく」で触れていたなと思ったが、ラジオを聴きながらなぜかいつか感動した山形の羽黒山の五重塔を思い浮かべて聴いていた。また、驚いたことに、今度は、羽黒山の塔を書きたいらしい。
瑠璃光寺の五重塔は、奈良の法隆寺、京都の醍醐寺と並び日本三名塔に数えられるそうだ。いつか瑠璃光寺五重塔を見てみたい。そして著書「見残しの塔」を読んでみたいと思っている。 また、日本各地の塔にも関心が湧いた。
著者は塔の建築技術や中世史など学び、時代考証に万全を期した緻密な時代考証をもとに、構想が十四年、執筆に四年かけた作品だ。ご主人が逝去され70過ぎから執筆を始めたという。何より、徹底した取材にあらためて驚いた。すごいと思いつつ、自分にもこれからでも遅いと言うことはない、何かやりたければ遅いと言うことはないと勇気も湧いてきた。

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久木 綾子(ヒサギ アヤコ)
1919年、東京生まれ。東京育ち。旧制高等女学校、専門学校卒。戦時下、陸軍情報局監理下に置かれた松竹大船撮影所報道部に記者として勤務したことがある。同じ頃、三笠書房社主竹内道之助氏主宰の同人誌『霜月会』の同人となり、小説を書き始める。終戦の年、山口県人の池田正と結婚。義母は、池田くら。福井県小浜市の新田長太郎の姉。長太郎は、昭和天皇に、「新田義貞の戦略」で御前講演をしたことがある。結婚後は主婦専業。平成元年、夫に先立たれ、再び文学に戻る
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日記@BlogRanking

月に一度の検診日

2009-02-14 | 文芸

        【バレンタインデー  娘と妻に義理チョコ?をいただきました
            私の好きな 〈大吟醸〉と〈10万円札〉でした。
               ありがとう!】

 月に一度の検診日に、いつも思うことは同じ。長い待ち時間にストレスがたまる。今日も、病院滞在4時間ほどだった。
 でも、健康のためにと諦めて、少しでも腹を立てずに流れに身を任せていた。
 前にも書いた。【拙ブログ:「病院の待ち時間は読書」2008.7.15】

 いつも何か小冊子を持参するが、たまたま今日は、加島祥造著「タオ 老子」だった。
 これは『老子道徳経』全81章の全訳の創造詩だが、ゆっくり構えろと教えられたようだった。
1章づつ、ゆっくりページをめくり、老子のこころを想像した。でも、時折目を閉じて思い巡らすとき、待ち時間の空間にある苦痛とともに、早く家に戻り、庭の自然に包まれて過ごしたい思いが湧いた。
 何とか健康を保ちながら、月にたった1度だからと諦めている。それでも、《たった》が辛いのだが。この長い待ち時間、過ぎにし日々を思い、来るべき明日を思ったりもした。

ウィキペディアで道教の世界を覗いた。道(タオ)という宇宙と人生の根源的な真理の世界で道の字はしんにょうが「終わり」を、首が「始まり」を示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を含んでいる。日本においては、気づきをもって各人の生活の場面でその身に付いたものをそれぞれに生かし、大切に思うことを清く保ちつづけて生きてゆくこと、などとあった。

 33章
  ・・・・・・
自分を知ることこそ
ほんとうの明るい智慧なんだ。
・・・・・・
道(タオ)につながる人は、
  今の自分に満足する、そして
  それこそがほんとうの豊かさなのだ。
・・・・・・
 44章 
  ・・・・・・
  なにを失い、なにを亡くすかだって?
  静けさと平和さ。
  この二つを得るには、
  いま自分の持つものに満足することさ。
・・・・・・


結局、今日もまた「足を知る」を教えられた。

DVDで「街道をゆく」

2009-02-13 | 文芸

 月に1,2度大学図書館でDVDで、司馬遼太郎の「街道をゆく」を視聴しながら全国を旅している。至福のひとときを過ごしている。
 テーマ音楽が流れ、ナレーションが入る。何度見たことか。
「土を踏む。声を聴く。そして遙かなる時を見る。今、日本の国を知る。」

そもそも、司馬遼太郎にとって、「街道」は空間的存在であるが、時間的存在でもある。そして、彼はその過去という膨大な時間の世界へ旅立ち、それぞれの土地の風土や人々の営みの中で・日本はどういう国か、・日本人とは何物か、・国家・文明・民族とは何か・・・という問いに対する答えを見いだしたかった。

 まさに私も、そんな旅をしてみたいと思っている。これからの限られた時間に、自分の足で、耳で、肌で感じる旅をしてみたいと思っている。そんな希望を少しずつ実現出来ればと思う。

 きょうは、またプロローグ「時空の旅人・司馬遼太郎」を視聴し、司馬の紀行の思考を鳥瞰した。そして「長州路・肥薩の道」を歩い、明治維新の原動力になった長州藩、その風土、歴史を見た。そして、幕末の時の流れ、会津に思いを巡らせた。

 かつて学生のころに、萩、山口を一度この目で見てみたいと小さな旅をしたことがあった。当時、戊辰戦争の敵地との思いを抱き、萩城址、白壁の柚子、松下村塾を巡ったことを思い出した。のんびりしたいいい時代、寝袋を担いで、いわゆる蟹族と言われた一人旅だった。新潟から北陸を巡り、山陰、山陽と鈍行で廻ったが、泊まりは金沢大学、鳥取大学、山口大学の寮にお世話になった。懐かしい思い出だ。

 何年か前に、文庫本「街道をゆく」を全43巻そろえた。約20街道くらいの旅をしただろうか。中でも「北のまほろば」「白河・会津の道」は何度も繰り返し読んでいる。最近は、DVDで視聴した後に、その道を掲載する巻を本棚から持参して、斜め読みするのが楽しみである。しばらくそんな旅を楽しみたいと考えている。

・(参)拙ブログ【「街道をゆく」 プロローグ 時空の旅人 】2008-01-30
・ 昨日、2月12日は司馬遼太郎の命日だった。
 【1996年、腹部大動脈瘤破裂のため国立大阪病院にて死去。享年72。
  従三位に叙され銀杯一組を追賜される。忌日は生前好きだった菜の花に因み  「菜の花忌」と呼ばれる】(ウィキペディアより)
 

「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ」

2009-02-01 | 文芸
  
昨日の晩は眠れない夜だった。そんなときは自然にまかせ、いつものように目を閉じて「ラジオ深夜便」を聴いた。
〔人生私流〕はフリーアナウンサー 押阪忍の出演「阪を押して忍べ」で、懐かしい人の半生を聴いた。1時台の深夜便アーカイブズは、中西龍の懐かしい「日本のメロデイー」今日は偶然にも5回目で最終回、久々に「中西節」を聞くことができて幸運だった。昭和60年の6/14、5/15、6/26放送のものだった。
にっぽんのメロディー」は、1977年~1991年3月まで放送された。いつも聴いていた。あれからもう20年の月日が流れたのか。
オープニングの口上
 「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます。皆さんこんばんは、日本のメロディー、中西龍でございます」
 流れる懐かしのメロディ、そして紹介される俳句の解説、その豊かな心を打つ口調を聴くこの1時間は懐かしの至福の時間だった。思えばいつも心に響いた番組だった。

 人間は懐かしさに生きているのではないだろうか。懐かしさにいろいろな思いが去来し涙が流れた。決して後ろ向きではないだろう。懐かしさは心のよりどころで、明日の元気をもらうことが出来る。
 最近、昔を思うことが多い。沢山の楽しい、悲しい思い出がよみがえる。特に世話になった人々や会いたい人たちの面影が沢山浮かんでくる。家族の成長の後も懐かしく思い出す。

今回の曲は伊藤久男の「夕月の歌」、 松平晃の「急げ幌馬車」、舟木一夫の「高原のお嬢さん」など。

伊藤久男「夕月の歌」>は、メロディー、歌詞共々が切々と心に響いた。
 3番の歌詞
   思い出は はるかなる
   浮き雲の なお彼方
   夕月の
   うるんでいつか 消えてゆく
   ああ・・・

偶然手にした 中村久子著「こころの手足」

2009-01-27 | 文芸
           【ケラー女史に贈った最初の人形とともに  ネットより】

 偶然に書店で手にした 中村久子著の「こころの手足」を読んだ。
 これまで62年間、中村久子女史の存在を知らなかった。もっと早くに知っていたなら、我が人生観に多大なる影響を及ぼしたに違いない。
両手両足の切断という重い障害を抱え、ひたむきに読書、裁縫、書道等に打ち込み、少しずつ自立していく。辛かった少女時代、厳しく優しく育てた両親、父や母の死、夫との別れ、弟や祖母の死と、波乱の人生にこれでもかこれでもかと次々に起こる不幸、また周囲の悪い人たち・・・ 時代的にも大変な辛い人生だが、それらが自分への試練だと言う。「天は何処まで試練を与えた給うか。」と書くように、かつてこれほど切ない人生を知らない。読み進み涙は止まらなかった。この苦闘の人生をみつめ、強く生き抜いた、強靱なこころに感動した。
 糾える縄のごとしと言うが、こんなにひどい神の仕打ちがあろうかと思いながら、後半生は、それまでの不幸せの数だけの幸せであったと思いたい。
 レンケラー女史と出遇い、口で作った日本人形を贈ったとき、ヘレンケラー女史は“私より不幸な、そして偉大な人”と呟いたという。
 後になり知る人々への感謝の念。「手足のないわたしが、今日まで生きられたのは、母のお陰です。生きて来たのではない、生かされてきたのだと、ただただ合掌あるのみです。」と語っている。
 読了して、《ちぎれ雲》の項にあるいくつもの短歌に、久子の美しい尊いこころを見つめている。
 ○母として母のつとめの足らざるを朝な夕なにわびつすごしぬ
○宿世にはいかなるつみををかせしやをがむ手のなきわれはかなしき
○手足なき 身にしあれども生かさる いまのいのちはたふとかりけり。


 この本との偶然の出会いが嬉しかった。これからも女史の心を「こころの手足」にしていきたい。


「ふるさと」 作詞家・高野辰之

2009-01-22 | 文芸
             【おぼろ月夜の館 ネットより】

 今朝の「こころの時代」で《 歌い継がれる”ふるさと”〜作詞家・高野辰之の功績(1)》を聞いた。
義母を見舞いに、晩秋の信州を訪ねたのはもう10年も前になる。その折、毎年宅急便で送ってもらっていた野沢菜の収穫体験をした。すでに霜が降り、多少収穫時期は遅れていたが、小春日の畑で紅い蕪を包丁で切ったことを思い出した。
 帰路、思い立って野沢菜の里、野沢温泉村に立ち寄った。そこで思いがけずに「おぼろ月夜の館」を見学し、高野辰之を知ったのだ。あの唱歌「故郷」の作詞者である高野辰之の業績や人間像に触れて、あらためて自分の知る世界がわずかなことに気づき、生涯学ぶことの意義を思ったことだ。
 そこには確かに「山は青きふるさと 水は清きふるさと」、清々しい豊かな北信州の風土があった。
久々に「おぼろ月夜の館」で求めたCD「信州ゆかりの日本の名歌を訪ねて」を聴いた。 そこに収録されている高野辰之作詞の「故郷」「朧月夜」「春がきた」「春の小川」などを静かに聴いて、あらためて高野辰之に思いをはせた。

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