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エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

賢人に学びたい

2010-02-01 | 文芸
                         【ブログ 「吉田道昌の学舎」】

 昨日しばらくぶりの感動があった。先頃、朝河貫一についてその人生を学び始め、ネット検索で一つのすばらしいブログに行き着いた。信州安曇野の大地で、自然を見つめ、教育を考え、世界を思考するブログは「「吉田道昌の学舎」http://d.hatena.ne.jp/michimasa1937/、カテゴリーは30数個 、管理者の興味、関心事から人柄までもがわかるような気がした。
 自分もこんなブログを目指したいが、若かりし日々の学び少なければ、とあきらめる。
 しばらくカテゴリーごとに、すばらしいブログをたどった。

 そして、朝河貫一と同時代に生きた新渡戸稲造、内村鑑三やなどの、次々に派生する人物伝を概観してみた。いつか訪ねた安曇野の研成義塾・井口喜源治記念館でのパンフレットを本棚から探してきた。ブログにある清沢洌を初めて知った。また、安曇野の生んだ臼井吉見も思い出した。そうそう荻原碌山からももう一度学びたい。
 これからじっくり「賢人」の生き様を見つめ直してみたいと思っている。



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朝河貫一 祖国を愛し続けた真の国際人

2010-01-28 | 文芸



阿部善雄著 『最後の「日本人」 浅河貫一の生涯』を読了した。
二本松出身の愛国の歴史学者、朝河貫一博士については詳しく知らなかった。

朝河貫一(1873~1948)は立子山小学校から川俣小学校に転校、その後県立安積中学校(現安積高校)へ進んだ。主席卒業の彼は答辞を英語で演説したという。また、逸話には、英和辞書を毎日2ページずつ暗記して、暗誦したものは1枚ずつ食べるか破り捨てていき、ある日ついにカバーだけになったので、それを校庭の西隅の若桜の根元に埋めたとある。貫一は皆に「辞書食い」というあだ名を付けられた。今「朝河桜」と呼ばれ、大木に育っているらしい。
 その後、東京専門学校を首席で卒業した朝河貫一は、米国へ留学するが、その渡航費を川俣の同級生、資産家味噌醸造業の「たまりや」から借用している。
 40年も前、私は川俣で6年間、しかもその「たまりや」渡辺弥七さんの離れで借家住まいをしていた。博士のことを知らなかったとは言え、物心両面で貫一を支えた弥七さんのお父様(熊之助)が貫一の同級生だったわけだ。
 その後、ダートマス大学で学び、エール大学大学院に進んだ。卒業後は母校ダートマス大学で、東洋史、東洋文明などを講義している。日露戦争勃発時、愛国心から英文の『日露衝突』を出版、祖国の危機を弁護した。戦後の日本は、朝河の主張する「清国の領土保全」「満州、韓国における列島の機会均等」とは全く異なる道を歩むことなった。その後、朝河は、日本の孤立、日米の衝突の危機を『日本の禍機』に著している。
 その後も朝河の不安は的中、軍部の暴走は止まらなかった。どうしても避けなければならない日米戦争、彼はルーズベルト大統領に、天皇へ平和を呼びかける親書を送ることを提案し、その草稿を書いた。だが、不幸にもその親書が大統領に届く前に、真珠湾攻撃が起こってしまった。そんな息詰まる歴史の流れが書かれていた。
在米約50年、その間帰国はたったの2回、ふるさとの父、母の思いは如何ばかりだったことか。ふと、同時代に生きた野口英世の人生と通じるものを感じた。
 貫一の名は論語、「吾ガ道、一ヲ以テ之ヲ貫ク」から命名された。折々の父の励ましの手紙には胸が詰まるものがある。
 辞世と思われる「精進」と言う長歌が残されている。(左)

 キーボードをたたいていると、二つの祖国で貫一がこころに描いた平和への思いが巡った。 近いうちに。朝河貫一ゆかりの地を訪ねてみたいと思っている。


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歳の神

2010-01-11 | 文芸
  
 何日かぶりに冬晴れの穏やかな一日、青空に磐梯が顔を出した。



 今日は町内の「歳の神」があった。
 午後6時点火、こんなに穏やかな歳の神はあっただろうか。昨年は吹雪いていた。田んぼの雪に足を取られ転んだ覚えがある。
 我が家に飾ったミニ門松、しめ縄、古いお札などを火の中へ納めた。燃えさかる火を見つめ一年の無病息災を祈った。役員が準備した甘酒やお神酒、みかんをごちそうになり、暖かい火に当たった。わずかな顔見知り、懐かしい面々と新年の挨拶を交わした。



 時々バンバンと竹の爆音が鳴った。あちこちでスルメやお餅をそれぞれ工夫して火にかざして焼いていた。
 途中で消防車が見回りにきた。消防士に聞いたら、今日の歳の神は3件で、土曜あたりから始まり、15日が一番多いとのことだった。

 会津地方で「歳の神」と呼ばれるお正月の伝統行事は各地でいろいろ呼ばれ方があるようだ。今朝、松本の姉から電話があり、向こうでは、きのうが「三九郎」だったとのこと。
こうして新しい年が始まり、時が流れていく。 


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暖かい貧しさ

2009-12-17 | 文芸
      【デンマークカクタス】

最近、NHKアーカイブス「あの人に会いたい」で水上勉を視聴できた。
あの穏やかに語る若狭での貧しい少年時代やお母さんへの思いに涙がこみ上げてきた。
 「ありがたいことに貧困だった。」と、目を潤ませながら語っているような気がした。
 「貧のしつけ」も人間が置き忘れたものなのだろう。

いつも雑誌「サライ」に連載された「折々の散歩道」を愛読していた。1991年に長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)に庵を構えて、陶芸や絵画、竹紙漉き、野菜作りなどの生活を送っておられた。その頃からの画と、何よりも優しいまなざしを読ませてもらった。
 水上作品はあまりないが、いま本棚にあった『閑話一滴』(PHP文庫)を読み返している。どの文章を読んでも、切ない気持ちになりこみ上げてくるものがある。幼い日のふるさとの若狭でのこと、お母さんの思い出、こころに切なく迫ってくる。
 書棚の「良寛」、『一休」など、もう一度、水上作品を読んでみようと思っている。
そして、自分自身置き忘れてきたことことを考えてみたい。

「良寛和尚像と詩碑」

2009-12-16 | 文芸
         【良寛像と詩碑 向こうに圓蔵寺 :月見ヶ丘から 2009.3.19】
 

 短大図書館に会津史学会の機関誌『歴史春秋』を見に行った。前に来館したとき、その新刊(第70号)に「良寛和尚と柳津」という記事を見つけていた。

 小川茂正氏の研究発表 《良寛和尚像と詩碑》で -2編の長詩を考える- と副題が付けられていた。良寛和尚が約190年も前の秋に、柳津を訪れ残した長詩について、柳津詣でがいつであったか、またその目的は何であったかを興味深く考察しておられた。そこには良寛の残した長詩と解説が述べられ、あらためて往時の美しい柳津の景観や良寛の感懐に触れることができた。
 また、月見ヶ丘にある良寛禅師詩碑建立を機に、柳津町良寛会が発足し、交流研修を重ねておられることを知った。

 いままで、この機関誌『歴史春秋』を見る機会はなかった。たまたま目にとまってみた機関誌だが、会津の歴史についての多方面にわたる内容だった。私自身、幕末、戊辰戦争の頃の時の流れや徳一の頃の恵日寺仏都会津などに関心を寄せてはいたが、これを機会に、もっと深く郷土の歴史を学びたいと思った。


(参)以前に拙ブログで、良寛ゆかりの地を訪ねた感懐を『良寛を歩く(その1)~(その7)』にまとめた。(2006.5月~6月)
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「柳津讃美! 良寛漢詩碑に思う」 【「良寛を歩く(その6)」(2006-06-16)】

 柳津・つきみが丘にブロンズの良寛像と漢詩の碑がある。
 よく温泉に入りに行くが、その都度像をながめていた。
最近この漢詩碑の内容を調べてみた。これは、良寛が「秋夜宿香聚閣」と題した、実に五言34句の長い漢詩で、荘厳な寺院と周りの景色を賛美している。この真筆の遺墨は出雲崎の良寛記念館にある。
 良寛は全国を殆ど行脚して回っていたというが、よほど柳津円蔵寺での眺めが良かったのだろう。 香聚閣(の円蔵寺)に泊まり、過ごした様子が細かく書かれ、特に麗しい周囲の自然風景に感動している。よほど気に入ったと思われる。
 良寛が訪れたのは秋と言われるが、詩の感動は春から夏の今の時期のような感じがする。いま、その漢詩に書かれた良寛の感懐を共有したいと思い、円蔵寺に参拝した。
 この詩で、良寛は立ち去りがたい思いを
「人間有虧盈 再来定何年 欲去且彷徨 卓錫思茫然 」と表現している。
当時と変わらないすばらしい景色を前に、そんな良寛の心境を思った。
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寮歌考

2009-12-15 | 文芸
        【ブルーベリーにうっすらと雪が】

  
 信州のブログ仲間「山裾の人」さんのブログ「田舎暮らし山裾の日々」で、雄大な浅間山の美しい写真を楽しみに見ている。
 煙のたなびく浅間山を眺めていると、その都度、信州での青春の歌が口をついて出てくる。
 ”朝霧に浮かぶ浅間山 煙の高くたなびけば~”、寮歌『ああ黎明』の一節だ。
また、”振りては 浅間の煙 熱血湧く 青春の意気 ~”と、応援歌も懐かしさとともに浮かんでくる。いずれも、遙か40年も昔、コンパや学校祭の折にしばしば歌っていた。そうそう、”春花香る信州の 吹雪く桜の花の下 ~ ”もあった。
 ”寮歌前誓友に告げぐ 玲瓏として高き吾妻の霊峰・・”の出だし、”いざや歌わんかな・・・ アイン ツバイ ドライ”、声高らかに歌ったものだ。みんなあまりに懐かしい、若かりし青春の歌だ。よみがえる美しく流れた日々は、なんと純粋であったことか。
桜の季節には、思誠寮の『春寂寥』をよく口ずさんでいる。”あわれ悲し逝春の 一片毎に落る涙”当時から、北杜夫も歌ったであろう(*)すばらしい寮歌に酔っていた。剣道部の全学合宿で教えられたと記憶している。

 ”春寂寥洛陽に 昔を偲ぶ唐人の 傷める心今日は我
  小さき胸に懐きつつ 木の花蔭にさすらえば
  あわれ悲し逝春の 一片毎に落る涙”

(*)北杜夫著『或青春の日記』には(昭和23年4月9日)”・・・長野の街を見下ろして、僕らは「春寂寥」を歌って山を下る。”とある。

 寮歌なるもの、そのメロデーは何とも言えない。また、その七五調の文語体の歌詞もすばらしい。先輩から後輩へ営々と口伝されてきたのだろう。世相の変わった最近の学生生活では、たぶん歌われていないのではないだろうか。
 
 寮歌といえば、旧制第一高等学校の『嗚呼玉杯に花うけて』 第三高等学校の『紅もゆる丘の花』などを知るが、『北帰行』 は旧制旅順高等学校の愛唱歌だったという。
ウィキペディア(Wikipedia)によると、寮歌の数は旧制高等学校の寮歌や、その影響を受けた他の諸学校の歌も含めると、3000曲以上はあるようだ。
バンカラ学生をあこがれたりしていた頃、コンパ等で酔って家へ帰る道すがら歌うのは、決まって『人を恋うる歌』だった。

  ”妻をめとらば才たけて ・
   顔(みめ)うるはしくなさけある
   友をえらばは書を読んで ・
   六分の侠気四分の熱 ・ ”

 作曲不詳の与謝野鉄幹の作ったこの三高寮歌は、数節しか知らなかったが長い詩歌であることがわかった。
http://www.fukuchan.ac/music/ryoka/hitookouru.html

 またときどきこれらの寮歌を歌いながら、過ぎし多感な若き頃を思い出すことだろう。



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修那羅山の石仏

2009-12-06 | 文芸
 

信州小諸のブログの友、オコジョさんの「オコジョの散歩道」を楽しみにのぞいている。
昆虫や植物にも造詣が深く、何よりも山や各地の紀行文はプロの郷土史家と言える。
また、学生の頃の思い出の地がよく登場するのも楽しみにしている。
昨日は修那羅峠のあたりの紀行文が書かれていた。
我が家に大事に取ってある、一枚の懐かしい石仏の写真パネルがある。(パネルの裏面にサインと1970.2)
 40年も前、先輩のTさんが卒業するとき、大学に残ったわたしに記念にとくれた全紙の作品だ。当時、研究室の皆を案内して石仏巡りに修那羅山を訪れたときのものだ。
 今は、上田から松本へは三才山トンネルを通るが、学生の頃、私は上松線をよく利用していた。山の中の妻の実家へ、バスでを利用して何度か青木峠を越えて行った。青木からつづら折りの峠を登ると峠の頂にはドライブインがあった。今はあまり利用されていないようだ。その途中に、ときどき修那羅峠の石仏を見に寄っていたのだった。修那羅峠の名に触れて、懐かしい思い出が鮮明によみがえってきた。二度と帰らぬ青春の何かを求めての石仏見学だったのだろう。
 今度、半世紀ぶりにこれらの石仏群と再会してみたいと思っている。


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 さくら ももこ

2009-12-05 | 文芸
  

 いつしか枕元にうずたかく積まれた本を整理した。
 枕元の本棚には興味ある本が並んでいるが、寝る前に書斎から適当な本を次々と持ってくるのでたまる。
良寛、茂吉、司馬遼太郎、山頭火・・・文藝春秋や昆虫の世界、野の植物図鑑・・・。
少しの時間、布団の中で何かを求めたい思いで本を広げている。

 最近は「さくらももこ」シリーズだ。このユーモアあふれる、心温まる《ももこ》の生活ぶりをのぞいている。ここ数日読んでいる「おんぶにだっこ」はももこの幼年期の思い出だ。その「あとがき」に、作者はこの作品の要素として「人間の根源的な部分への帰還」をあげていた。また、人間は、幼い頃はピュアだけど、年を重ねるに従ってピュアでなくなるのかということを考えてもらいたいとも述べている。
 いつまでも純真な《ももこ》ちゃんの心の動きをシリーズエッセイでほのぼのと見つめている。《ももこ》の思い出をたどり、なぜかときどき熱いものがこみ上げるときがある。ももこシリーズには、言葉で言えない、今は失われている大切なものが詰まっているからだろう。


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日本画家 小野竹喬

2009-11-25 | 文芸
    【秋 小野竹喬】

先日の毎日新聞の余録で、日本画家、小野竹喬を知った。いま、大阪市立美術館で、「生誕120年 小野竹喬展」が開かれている。彼が芭蕉の心境を追った一連の「奥の細道句抄絵」について書かれていた。

 日本画家といえば、東山魁夷、平山郁夫が馴染みだった。いつか桜の季節に東京の山種美術館で奥村土牛作品を鑑賞したこともあった。長野市の東山魁夷記念館へは静かに雪の降る日だった。そうそう、いわきに単身赴任中には隣町の茨城天心記念五浦美術館へも何度か足を運んだ。

ネットで、初めて知った小野竹喬について調べた。
「小野竹喬(おの ちっきょう:1889~1979)は、近現代日本画を代表する日本画家。14歳から89歳にいたる75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けました。
竹喬芸術のかけがえのない清らかさ、柔らかさ、温かさ、それは多くの人が語るように竹喬の温厚で誠実な人柄によって生まれたものです。」などとあった。
 
初めて見る作品は、何ともいえない独特な絵でほのぼのとした、独特な気品が感じられすっかり気に入った。出身の笠岡市に笠岡市立竹喬美術館があることを知ったが、ちょっと遠い。いつか訪ねてみたいと思っている。


【奥の細道句抄絵より 荒海や佐渡に横たふ天の河 】

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余録:おくのほそ道 毎日新聞(2009.11.23付)
 元禄2(1689)年夏、みちのくの旅を続ける松尾芭蕉は日本海岸の名勝で足を止めた。浅い海に無数の小島を浮かべた浜辺で、ひそやかに咲く薄紅色の花を、古代中国の伝説の美人が目を閉じた姿に見立てて<象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶの花>の一句を残す▲現在の象潟(秋田県にかほ市)は、江戸時代後期の大地震で地盤が隆起し、平野に小山が点在するひと味違う風景に変わっている。1975年、この地を訪れた日本画家が、旅の途中で見かけたネムノキに発想を得て、芭蕉が見たはずの、雨に煙る幻の海景をよみがえらせた▲大阪市立美術館で開かれている「生誕120年 小野竹喬(おのちっきょう)展」で出合ったこの作品に、心ひかれる。「奥の細道句抄絵」連作の一点だ。別の一点、<あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風>は、ぎらつく夕日が空を朱に染め、すすきの野に濃い闇が迫る。澄み切った空気感に魅了される人も多かろう▲若い日の竹喬はセザンヌに傾倒し、立体的な構図と鮮やかな色遣いを取り入れて、自然を切り取ってみせる勢いで新しい風景画に挑戦した。だが、日本画の技法や画材で表現し切れない壁にぶつかり、満足しなかったという▲「虚心になると自然は近づいてくる」。竹喬が語っている。自然に身をゆだねていれば、筆を誘うささやきが聞こえてくるのか。芭蕉の心境を追った一連の作品は、年ごとに無駄をそぎ落として陰影を深めた画家の仕事の総決算といえる▲大阪展は12月20日まで。その後岡山県・笠岡市立竹喬美術館、東京国立近代美術館を回る。竹喬はさまざまな日本の四季を描き残した。自分だけの心に刻む作品が、きっと見つかるだろう。
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良寛 乙子神社草庵

2009-11-09 | 文芸

 
 最近、良寛を訪ねたい心境だった。
朝霧が晴れ、いい秋日和、明日から天気が崩れそうなので、モミジの季節に分水町の国上山に五合庵を訪ねた。かつては雪のある季節、桜の時期に訪ねたが、この季節に是非良寛の見た景色を眺めたいと思った。

 高速割引も魅力だったが、皆同じ、どこも混んでいてがっかりした。
 国上山は観光地化していて、良寛を偲ぶ雰囲気ではなかった。散る落ち葉を楽しみにして遠路訪ねたが、駐車場は満車で入れず、結局五合庵の下にある乙子神社に、傍らの草庵と、あの石碑を見て山を下った。


 
 杉の林に囲まれ、昼なお暗き小庵がひっそりたたずんでいた。
良寛も歩いたであろう山道をたどった。大きな杉の切り株を見ると、遙か代は変われど、約200年前も同じような雰囲気であったろうと想像できた。
 草庵は当時の間取りを参考に昭和62年に再建されたものだ。
良寛は、老朽化した五合庵から少し下ったこの小庵に10年間住み、ここで円熟した作風を見せた。
 乙子神社の良寛歌碑は安政5年(1858年)良寛が示寂して27年後に建立されたもの。流麗な筆致をたどり、解説板の文字と見比べた。なんとか、「生」[立」そして小さな「懶」も確認できる。良寛の人生観「騰々」の文字も読めなかった。
 あらためて、良寛の貴い心を思った。





寺泊によりおいしい魚で昼食をと考えていたが、広い駐車場も入れず、魚市場も人混みで歩けないほど、またの機会にすることにした。
 人が少ないだろう落ち葉の頃に、また訪ねてみたいと思っている。
(2009.11.8)

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短歌に思う

2009-11-01 | 文芸
先日、山形の知人M.Oさんから「言の葉倶楽部」という小冊子が送られてきた。
同人誌というのだろうか、随想あり、詩や短歌、映画評論や歴史考察.文化論など、会員10数名のさまざまな思いが綴られていた。冊子名のように言葉を楽しむ人たちのいろいろな文章が綴られていた。 
 知人はvol.2に「短歌/ふたとせの」、vol.3に「短歌/花火の夜は(18首)」という短歌集を載せていた。少し時間をかけて、1句1句の作者の心の動きを読み取ろうとしながら鑑賞している。
「花火の夜は」は現代風の短歌で、言の葉の意味を考えながら読んだ。花火を見つめながら去来する思いを詠んだ歌。大輪を眺め、また線香花火を見つめて思い巡らす。いつも、花火はぱっと咲いて消える、瞬間的な、刹那的なものと思っていたが、そうではないのだった。
「ふたとせの」は、つらい病を克服されたのだろうか。ふたとせの体験が、過去を思い出させ、そしてその後の癒された喜びにつながる心の動きを推測しながら鑑賞した。

 俵万智のさわやかな新しい歌に触れ、いいと思ったが、とかく現代風の短歌は敬遠しがちだった。恵送された冊子を手に、歌を詠む人をうらやましく思いながら、感性豊かな現代風の短歌を静かに鑑賞したいと思っている。

 短歌というと、私は啄木や茂吉が好きだった。「ひたくれない」の斎藤史を読んだこともあった。歌を詠む才覚がないことを悔やみながら、もっぱら天才の三十一文字を目で追っていた。考えてみると、何よりも好きな短歌は、わかりやすく、体に染みついた七、五調のリズムが魅力なものだった。その根底には、藤村の「若菜集」があったような気がしている。
 特に茂吉の、心に響く落ち着きのある歌が好きで、時々、斎藤茂吉記念館で求めた「茂吉の山河」(球龍堂)を広げている。

(参)拙ブログ 「歌聖 斎藤茂吉を訪ねて」(2007-01-28 文芸)


詩集 Home 私の好きな家

2009-10-19 | 文芸
    【詩集 Home 私の好きな家】表紙

詩人の松田達男氏より、最近刊行された詩集 『詩集 Home 私の好きな家』が送られてきた。
 さわやかなメルヘンチックな表紙の装丁、扉には山形市郷土館の繊細なペン画がデザインされていた。
 著者とはお父様の詩人・佐藤総右氏の詩が一つの縁で、いつかお手紙を頂いた。
 その詩は「風の道」、そして同じ名の詩集『詩画集 「風の道」』(1970.4.1刊)をお送り頂いた。 (参)拙ブログ「詩画集・風の道 2008-11-10」
 その後頂いた手紙に「山形市内の歴史ある建物の写真、詩を書いていること、そしていつか形にしたい」とあった。拙ブログにもコメントを頂くが、その名は[Home]とあった。
 今その形になった詩集を手にとって、氏の心の動きを見つめている。

「あとがき」から、著者は、詩人であり建築士であることを知った。
 建物というハードを、温かく、楽しく、冷たく、悲しく、辛くみつめるこころを汲み取ってみたい。そんな気持ちでこの詩集を鑑賞してみたいと思っている。

 詩人の子は詩人、やはり詩人の豊かな感性は立派に繋がっていくのだと思った。
 
『詩集 Home 私の好きな家』 松田達男著(一粒社tel 023-643-2469)
 

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 読書の秋

2009-10-02 | 文芸
   【弾けたサンショ】

 読書の秋だ。それに合わせたように、昨日と今朝のラジオ深夜便 こころの時代は、紀田順一郎氏(神奈川近代文学館・館長)の話、《わたしの読書遍歴「江戸川乱歩との出会い」(1)、(2)》だった。評論家であるくらいしか知らなかった氏の話に、立派な人柄を感じた。

 終戦時10歳、その後の周囲に書籍の不足していた時代に、読書の遍歴ノートにる教師の指導の人間形成に与える意義等々、大切なものを思った。そして、あふれる豊かさのなかで読書離れの進んでいる今、子どもに接する大人社会の姿勢を思った。
 若者は本を読まないようだ。余暇には、テレビ、ビデオ、CD、ゲーム、また携帯でのメールに忙しく、ますます本は読まれなくなっているに違いない。読書によって得られるものは大きく、読書の習慣が欲しい。時代の変化にもその意義は薄れるものではない。若者の読書離れを憂えている。

 とは言いながら、私自身も最近は本を読まなくなった。読むと言えば、感動とはほど遠い、趣味のコンピュータか科学関連雑誌のたぐい。
 若き日に浩然之気を養うべく読書にいそしんだことや読書からの感動が自分を大きくしてくれたと考えると、あれからどれだけ成長したのだろうかと、精神的に次元の低い現在を反省したくなる。

 かつてよく読んだ作家、好きな作家を思い付くままにあげてみた。
 石川啄木、北杜夫、島崎藤村、斎藤茂吉、宮沢賢治、太宰治、寺田寅彦、司馬遼太郎、中野孝次、良寛、田淵行男、藤沢周平・・
 
 これからの燈火親しむ候、テレビ、ラジオのない静かな夜長に、努めて本を読み、久しく忘れていた涙を流すほどの感動を求めたいと思っている。


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河井寛次郎記念館

2009-09-01 | 文芸
     【白地草花絵扁壺 1939・昭和14】

日曜の朝8時、ふとテレビのスイッチを入れると、偶然に「河井寛次郎記念館」の看板が目に入ってきた。そして、かつて訪ねた懐かしい世界が浮かんだ。
 吸い込まれるように静寂の別世界に入り込んでしまった。

番組は、これまで見たことのない【ミューズの微笑み -ときめき美術館-】(NHK教育)だった。この番組は、全国北から南まで、ふと訪ねたい美術館を3人の旅人が訪ねる12回シリーズで、それぞれに異なった楽しみ方を紹介する番組だった。この〈河井寛次郎美術館〉はミュージシャンの財津和夫氏が訪ねた、昨年10月の番組の再放送だった。

ここは昭和12年に新築された寛次郎の自宅がそのまま記念館になっている。
新築の記念に柳宗悦から贈られた振り子の時計が静かに時を刻んでいた。同じく浜田庄司から贈られた箱階段や黒光りしている板の間、吹き抜けの空間、屋根の付いた家具、囲炉裏、臼を加工して作った椅子などなど、どれもが時の流れを静かに示していた。思索にふけるときに使ったという2畳の部屋、数々の作品が並ぶ渡り廊下、奥には登り窯が当時のままに残っていて、かつてのにぎわいが聞こえるようだ。仕事場には「心刀彫身」の書の掛け軸がある。中庭にはあの丸石もそのまま残っている。すべてのユニークな空間は、今も私の鮮明に脳裏に焼き付いていた。
私は、かつて何度か引率した京都への修学旅行の折り、河井記念館を二度訪ねたことがあった。
 番組を見ながら、映し出される静寂の空間に、歩んできた時の流れが走馬燈のごとくに蘇ってきた。また、30年ぶりにもう一度訪ねてみたいと思った。

 昭和32年、ミラノの国際工芸展でグランプリを受賞した際、インタビューを受ける寛次郎の様子を見た。傍らには奥様とあの棟方志功が映っていた。実はそのときの作品は友達が勝手に出品していたと話していた。また、登り窯で作品を見る寛次郎の姿があった。
 この番組で文化勲章の受賞も固持したと知った。柳宗悦との出会い、その後の美の追究など、彼の生き方や人柄が再度思い起こさせられるものだった。

 書棚から「河井寛次郎の宇宙」(講談社カルチャーブック)と、福島県立美術館で企画された『河井寛次郎展-祈りと悦びの仕事-』で求めた京都国立近代美術館所蔵の川勝コレクションの原色図版を取り出してきた。
 しばらく忘れていた陶芸の魅力、河井寛次郎の生き方にもう一度触れてみたい。


  かつての感懐
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○河井寛次郎の豊かな作品   (1994.7)
益子を訪れた折りに、浜田庄司やバーナードリーチ、柳宗悦、河井寛次郎等の名を知った。
 数年前から陶芸に興味を持ち、いつか京都東山五条の河井寛次郎記念館を訪ねたいと思っていたが、今回県立美術館で彼の作品を見る機会に恵まれた。河井は、無名の職人たちが作ってきた雑器の持つ質実で素朴な美に大きく目を開かれた民芸運動の実践者であった。
 よく焼き物の価値は、形が美しいこと、釉薬が美しいことそして使いやすいことと言われる。柳宗悦は「美は用の現れ。用と美と結ばれるものが工芸」と述べ、雑器に虚心が生み出す美しさを見いだした。日用雑器は、今ほとんどが機械製だが、本来は手仕事で作られ伝えられた良さなのだと思う。彼の作品を見ながら、展覧会の副題「祈りと悦びの仕事」の意味や彼の心豊かな生活をかみしめた。そして、自分の趣味で自作した食器を使い、祖先が営々と作った地方の料理を食べることの贅沢さをあらためて考えた。

○ 河井寛次郎記念館を訪ねる。(2000.10)
 先日、念願が叶って京都五条に河合寛次郎記念館を訪ねることができた。民芸運動の指導者で生活の中の美を追求した寛次郎の全てを知りたいと思った。
 記念館は彼が実際に生活した住宅であり、彼の陶芸や木彫、建築や書にも通ずる独特な芸術家の温もりが伝わる一種独特な空間であった。彼の作品に直に手を触れ、彼も上った階段を素足で上った。その軋みが静かな空間に響き妙にこころが落ち着いた。 
 生涯のモチーフであった美、仕事、暮らしの三極構造に周囲の作品を位置づけてみた。小さな中庭には、彼が自由に動かしたと言う丸い石が秋の雨に趣き深く置かれていた。そして住宅の一番奥のかつてにぎわったであろう静寂の登り窯で、しばらく思いを巡らした。
 彼のことば「此世は自分を探しに来たところ、此世は自分を見に来たところ」に納得し、何か目の前がはっきり見えたように感じ、しっかり自分を見つる生涯をと肝に銘じた。

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絵付けした湯のみ

2009-06-23 | 文芸

  先日依頼され、麗しの磐梯の絵付けをした湯のみが出来上がった。N先生が届けてくださった。お礼にと、薔薇の花束とご自身作の飾り香炉をいただいた。そして、心配していた絵付けした湯飲みもいただいた。
呉須の濃さが不安だったが、まあまあの色合いが出ていたので一安心した。
 早速、お茶を入れ、絵を眺めながら味わった。

 私の陶芸との付き合いはわずか数年だったので、ろくろ技術は自分の物に出来なかった。でも少し作ったぐい呑みや小鉢は今も使っている。でも、絵には興味があったのでよく平皿にいろいろな絵をデザインして焼いた。小さな置物も沢山作った。はからずも15,6年前の陶芸に親しんだ頃を思い出し懐かしくなった。
 今もそのころ作った小物入れは気に入って机の上にある。また、磐梯を描いた平皿は、乗せられた料理が食べられるにつれ現れる秀峰を楽しんでいる。刺身はいつも同じような磐梯絵付けの平皿を使っている。
 




完璧な作品よりも、多少のゆがみが趣があっていい。特に自分の作品となると捨てがたく長い間使っている。折りがあれば、またいろいろ作ってみたいと思っている。


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