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エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

雨の日に

2010-04-22 | 文芸
                              【日向ミズキ咲く】

雨の日は、何となく心落ち着き、自分を見つめ、取り戻すことができる様な気がする。
終日、冷たい雨降り、午前中は、普段点けているラジオを消して、昨日、寝床で読みかけのページを広げた。
中野孝次の「清貧の思想」に、三好達治の詩が取り上げられ、達治ももとより「清貧の人」であったと書かれている。
本棚から達治の詩集を手に取り、長い詩「冬の日」全文を声を出して読んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「冬の日」 -慶州仏国寺畔にて

ああ智慧は かかる静かな冬の日に
それはふと思ひがけない時に来る
人影の絶えた堺に
山林に
たとえばかかる精舎の庭に
前触れもなくそれが汝の前に来て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」

秋は来り 秋は更け その秋は巳にかなたに歩み去る
昨日はいち日激しい風が吹きすさんでゐた
それは今日この新しい冬のはじまる一日だった
さうして日が昏れ 夜半に及んでからも 私の心は落ちつかなかった
短い夢がいく度か断れ いく度かまたはじまった
孤独な旅の空にゐて かかる客舎の夜半にも
私はつまらぬことを考へ つまらぬことになやんでゐた

さうして今朝は何という静かな朝だらう
樹木はすっかり裸になって
かささぎの巣も二つ三つそこの梢にあらはれた
ものの影はあきらかに 頭上の空は晴れきって
それらの間に遠い山脈の波うって見える
紫霞門の風雨に曝れた円柱には
それこそはまさしく冬のもの この朝の黄ばんだ日ざし
裾の方はけぢめもなくあいたいとして霞に消えた 
それら遥かな頂の青い山々は
その清明な さうしてつひにはその模糊とした奥ゆきで
空間てふ 一曲の悠久の楽を奏しながら
いま地上の現を 虚空の夢幻に橋わたしてゐる

その軒端に雀の群れの喧いでゐるへん影楼の甍にうへ
さらに彼方疎林の梢に見え隠れして
そのまた先のささやかな集落の藁家の空にまで
それら高からぬまた低からぬ山々は
そこまでも遠くはてしなく
静寂をもって相応へ 寂寞をもって相呼びながら連なってゐる
そのこの朝の 何といふせう条とした
これは平和な 静謐な眺望だらう

そうして私はいまこの精舎の中心 大雄殿に縁側に
七彩の垂木の下に蹲まり
くだらない昨夜の悪夢の蟻地獄からみじめに疲れて帰ってきた
私の心を掌にとるやうに眺めてゐる
誰にも告げるかぎりではない私のこころを眺めている
眺めている―
今は空しいそこそこの礎石のまはりに咲き出でた黄菊の花を
かの石燈の灯袋にもありなしのほのかな陽炎のもえてゐるのを

ああ智慧は かかる静かな冬の日に
それはふと思ひがけない時にくる
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前触れもなくそれが汝の前にきて
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 中野孝次は、ここで達治の言う「智慧」について、
「魂に関する出来事を知覚する心の働きを的確に表現するには、この言葉しかなかったのだろう。
ここに描かれた光景は世の光景でありながらすべて魂の中の光景であった。」と述べている。
また、この達治の詩は、従然草の「一生は、雑事の小節にさへられて、むなしく暮れなん。」(第112段)の、自分の魂の平安と充実のために生きようとの心に通じると書かれていた。

私は、≪ああ智慧は かかる静かな冬の日に それはふと思ひがけない時に来る≫の一節が好きだ。
 この詩を読みながら、同じような豊かな心が、今日の雨の日に、≪それはふと思いがけない時に来た≫と思った。
本当に「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」と思う。

 これからも、雑事の小節から離れて、時に良寛に、また藤村に、達治に触れながら静かに過ごしていきたいと思っている。 今を大切に、清貧な生活を心がけながら。

神のような人 秋月悌次郎

2010-04-15 | 文芸
                                【高田梅開く】

   
 何年か前に、中野孝次の『「生き方の美学』を読んで、幕末の会津人、秋月悌次郎の人間性に触れた。これは拙ブログ「北越潜行の詩」2006-02-13にも書いた。
 先日、月に一度の検診日に本棚から持参した本だ。待ち時間に、斜め読みしてもろもろ思いを巡らした。

秋月悌次郎は、幕末の京都で守護職を務めながら時代に翻弄され、逆賊の汚名を一身に集めてしまった会津藩主・松平容保公のそばにあって、公用方を務めた一人だ。この幕末史のなかでの一文官の生き方は感動である。

 生き方の美学の『第19話 徳・・・ハーンと秋月悌次郎』には、熊本五高で同僚だったラフカディオ・ハーンが、悌次郎を「神様のような」人と呼んで尊敬したこと、熱意ある教育者として、学生に慕われたとが書かれている。そして、中野孝次は「百年たった今、この明治日本を担う新興青年が何が何でも古い日本の価値を否定して、西洋の実学を取り入れるしかないと言い張る、こうした-徳よりも実利の学を-、という国家を導いてきた結果、現代日本はまさに世界でも珍しく「徳」というものがない国になってしまったのではないか」という。また、ハーンは、「旧体制の下で育った日本人は礼儀しく、利己的でなく、善良でみなのびやかであった。それはいくら褒めても褒めたりぬ美徳である。」と書いている。

病院の帰りに短大図書館に寄り、松本健一著『秋月悌次郎 老日本の面影』(1987年 作品社)を借りてきて一気に読んだ。「生き方の美学」に紹介されていた本だ。
 ハーンに与えた印象を手掛かりに、幕末から明治に生きた秋月という人物の持っている意味、歴史における革新と伝統の関係、そして秋月に係わった人物たちの像が書かれていた。秋月の人格的な温和さ、それを支える思想的中庸のエトスは、維新史の動乱をかいくぐって手に入れた「常民の心」だと述べられていた。
五高での秋月翁の古希のお祝いで諸氏が語る秋月の人間像に、人として尊いものを再確認した。それは、「教育は結局教える人の生き方の問題に凝縮される」という言葉にあるように、地位とか名誉ではなくその人の人間性だと思った。尊敬されるものはその人となりである。

 数年前に読んだ、中村彰彦著『落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎』でも同じような感動を得た。 著書名「落花は枝に還らずとも」は、文中にあった。
「一度枝を離れた落花は、その枝に還って咲くことは二度とできない。しかし、来年咲く花の種になることはできる。
 会津滅藩に立ち会い、亡国の遺臣と化した悌次郎は、自身を落花になぞらえることにより、逆風の時代になおかつ堪えて生きる覚悟を初めてあきらかにしたのである。」

 また、いずれの本にも、二人の詩人の素晴らしい漢詩が紹介され、あらためて二人の感懐がよくわかった。
特に、長州藩・奥平謙輔との往復書簡にはこみ上げるものがあった。秋月は、会津藩落城後に藩の寛容な処分を訴えに旧知の長州藩士奥平謙輔のもとへ、猪苗代から新潟へ秘かな雪中行の折り、の胸を打つ「北越潜行の詩」を残した。

有故潜行北越帰途所得 会津 秋月胤永
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行無輿兮帰無家 行くに輿無く 帰るに家無し
國破孤城乱雀鴉 國破れて 孤城雀鴉乱る
治不奏功戦無略 治は功を奏せず 戦は略無し
微臣有罪復何嗟 微臣罪あり 復た何をか嗟かん
聞説天皇元聖明 聞くならく 天皇元より聖明
我公貫日発至誠 我公貫日至誠に発す
恩賜赦書応非遠 恩賜の赦書は 応に遠きに非ざるべし
幾度額手望京城 幾度か手を額にして京城を望む
思之思之夕達晨 之を思い之を思うて 夕晨に達す
憂満胸臆涙沾巾 憂は胸臆に満ちて 涙は巾を沾す
風淅瀝兮雲惨澹 風は淅瀝として 雲は惨澹たり
何地置君又置親 何れの地に君を置き又親を置かん
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戊辰戦争において会津藩降伏を取り仕切った秋月悌次郎は、維新後は死者の影を背負い、≪自己を主張することを価値とした近代日本のなかでは永遠に失われてゆかざるをえないような、伝統を守って生きる人間の生き方の正道を踏もうとした懐かしい人≫であった。

以下は松本健一著『秋月悌次郎 老日本の面影』(勁草書房)のネットの内容説明である。
≪ラフカディオ・ハーンをして「神様のような人」といわしめた会津藩士秋月悌次郎。その生涯を描いた本書は、「司馬遼太郎さんとわたしの人生」が「交叉」した地点となった。

戊辰戦争において会津藩降伏を取り仕切った秋月悌次郎は、維新後は死者の影を背負い、≪自己を主張することを価値とした近代日本のなかでは永遠に失われてゆかざるをえないような、伝統を守って生きる人間の生き方の正道を踏もうとした懐かしい人≫であった。──「懐かしい」は司馬遼太郎さんが使う最大の褒め言葉である。(あとがき)≫


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シーダー・ローズ

2010-04-12 | 文芸
                       【送っていただいたシーダーローズ】


昨日、今井繁三郎美術収蔵館の館長さんから宅急便が届いた。
前日に、「びっくり ? という段ボールを送りました。此方の勝手な おしつけ・・・・自然の不思議なワンダーワンダー程ではないのでしょうが、5~6年前から落ちて来る様になりまして。」とメールをいただいた。

 段ボール箱には、「下積み厳禁」、「ガラス、ビン、セトモノ」、「天地無用」の貼り紙がされ、中にはヒマラヤシーダーの、枝に付いたままの大きな固い球果と、かさが開き始めた松ぼっくり、そしてはじめて見る沢山の【薔薇の花】が入っていた。
 まだ固い昨年の雌花の球果は縦10cm、横5cmくらいあった。 「今後の夢、楽しみを壊すようですが、・・・・美術館の庭に6本のヒマラヤシーダの大木がある・・・」と、便りが添えられていた。



最近ブログやメールで、ヒマラヤシーダーとその雌花の球果のことが話題になり、現物を送ってくださったのだ。その気持ちがとても有難かった。

 手元の図鑑によると、ヒマラヤスギについて、「マツ科、ヒマラヤスギ属。和名がヒマラヤスギ、別名ヒマラヤシーダ-。20~30メートルになるが、原産地のヒマラヤ、アフガニスタン東部では50メートル、直径3メートルに達する。10月から11月に開花、翌年10~11月に成熟し果鱗が落ち、果軸だけ残る。」とあった。
時々行く近くの公園にも大木があり、先日はまだ残る雪の上に茶色く枯れた雄花が沢山落ちているのを見たが、雌花の松ぼっくりは見つけられなかった。
卵型の球果は翌年の秋に成熟し、鱗片が一枚ずつ剥れ種が拡散する。球果の先っぽが地面に落ちたものが【薔薇の花】なのだ。
ネットで調べていたら、この【薔薇の花】が『シーダーローズ』と呼ばれていることを知った。なるほど、いい命名だ。これは普通のマツボックリの様にブーケやリースなどの材料として使われているらしい。

かつて一度だけ訪ねた美術館は、江戸時代に建てられた土蔵が鶴岡から移築された建物だった。前庭のあちこちに大きな甕が置かれ、ちょうど紫色の実を付けたヨウシュヤマゴボウが印象的だった。美術館のHPの写真からみると、どうも遠くに車を置いて、裏の方から桑畑を通ってたどり着いたような記憶がある。
昨年、開館20周年を迎えた美術館は、数年前に「次代につなぐやまがた景観賞」の最高賞を受賞している。展示される美術品だけでなく、貴重な蔵の建物やそれを取り巻く雑木林や足元の小さな自然など、さらには画家・今井繁三郎氏の心が息づく空間が一体となって、すばらしい今井美術館があるのだと思う。

 土に帰ってしまう自然の造形シーダーローズを机に置いてながめている。送っていただいた館長さんのお心を有難く思った。




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そこは新しい風の通り道

2010-04-05 | 文芸

羽黒三山を旅した1998年の秋、偶然に旧羽黒町(現在は鶴岡市)の今井美術収蔵館館を訪ねた。そこで、鮮烈な詩に出会った。
美術館2階の背の低い古い箪笥の上に掛けてあった藍染の布に「そこは新しい風の・・・」と白く染め抜かれていた。今も、その場で手帳に詩を書き留めた記憶がよみがえってくる。
 その後、今井先生から、山形の詩人・佐藤總右氏の作であること、奥様が山形市におられると教えられた。
その後、桜の季節に奥様を山形市に訪ね、霞城公園の「風の道」の石碑を案内していただいた。そこで、この詩がやはり皆に大事にされていた詩であることを知った。その旅先で今井先生が亡くなられたことを聞かされた。ふとした縁で知った今井先生、もっと先生から沢山のことを教えていただきたかった。実に残念であった。

 昨年は、美術館の館長をされている娘さんから「今井繁三郎生誕100年、美術収蔵館開館20周年の記念誌「泉野」」を御恵送いただいた。その後も時々はがきやメールをいただくが、最近、なつかしい「風の道」の染められた布の写真が届いた。それは、新しく作られたものだろう、12,3年前にこの目で見た古い布に印象はなく、總右氏自身の筆になる力強い字である。

 また、数年前に、總右氏の息子さんから突然の便りがあり、總右さんの著作「詩画集 風の道」をお送りいただいた。その扉には「詩画集・風の道 あたたかい眼さしだけが 人びとの生涯を支える」 とあり、巻頭の詩がこの「風の道」と題する詩であった。
そこで、はじめてその詩の全文にふれ、さらに崇高な詩人を知ることとなった。
 
 十数年前に偶然この詩に出会い、その詩からいろいろ教えられ、さまざまなご縁をいただいた。とてもありがたいことだと思っている。そして詩集「無明」を開いてみた。

*************
「風の道」
そこは新しい風の通り道
吹き抜ける風の中で
ふるさとの雪はめざめる

祭り火は四季をいろどり
人々は伝承の炎を絶やさない
たわわに実る果実のように
人はみな美しい種子を宿している

青いながれのむこう岸から
明るく手招くものがいる
あれは長い伝統を乗り越えた人たち
いきいきと息はずませて
未来の沃土を耕しているのだ
 
*************

以下に、関わる、思い起こしたい心、昔のエッセイを再掲載する。
       
「一芸術家知り思わぬ「収穫」」    
 出羽国の羽黒山に参拝した帰り道、今井繁三郎美術館に立ち寄った。田や畑の間を縫いながらたどりついた柿畑の中に、鶴岡から移築されたという三百年も前の土蔵が見えた。背丈ほどの壺がいくつも並ぶ庭はヤマゴボウの黒紫の実が印象的な不思議な空間であった。
 監視人などいない館内には大きな絵画が並び、壁には民族衣装やお面が架けられ、屋根瓦やドライフラワーが床に置かれていた。美術館の主は個展開催に上京していたが、これら世界各地の民芸品の数々は、彼の心動かされた宝なのであろう。
 特に早春の月山の風景画に魅せられたが、小さなタンスに何気なくかけらた古ぼけた藍染の布の文字が心に残った。
 「そこは新しい風の通り道 吹き抜ける風の中で ふるさとの雪はめざめる」
 通りすがりに尊敬できる一芸術家を知り思わぬ収穫であった。そしてここに本当の美術館のあり様を見た思いがした。   (福島民友新聞 1998.9.30)   

「念願かなった總右を知る旅」  
 数年前、山形県羽黒町の今井繁三郎美術館で一枚の古びた藍染めの布に出会った。
 「そこは新しい風の通り道/吹き抜ける風の中で/ふるさとの雪はめざめる」
 東北の冬からの爽やかな力強い宣言に感動を覚え、以来作者佐藤總右という人物とこの布について知りたいと思っていた。總右さんが山形市の詩人で、未亡人が駅前の小路で居酒屋を営んでおられると今井先生からお聞きした。雪の季節にと思いながらも、桜の季節に念願のお店を妻と訪ねた。旅の目的はこの詩に魅せられた自分がいることを知ってもらうことであったが、この詩を添えた磐梯山の布絵と、感激した思いを納めた拙著を土産にした。近くに宿を取り、夕刻お店を訪ねた。彼の書斎を改造した部屋で郷土料理をいただきながら、胸につかえていた總右さんのことを伺うことが出来た。翌朝、桜花爛漫の霞城公園にこの詩が刻まれた詩碑を訪ねた。読み上げると改めて素晴らしい感動が蘇った。(山形新聞  2002.6.4)

「東北学を学びたい」     
 最近、書店の郷土コーナーには地域を掘り起こす数多くの本が並んでいる。「会津学」や「会津の群像」など興味深い本を求めた。
 「東北学」という科学を知ったのはいつのことだったろうか。地域や時間軸を変えて、東北地方の自然や人文、すべての科学を認識した地域学の目的は何なのだろうか。
数年前、山形県羽黒町の今井美術館を訪ねたことがあった。そこで出会った一枚の藍染めの布が、今も印象深く心に残っている。
 そこにはローケツの白抜きの文字で
 「そこは新しい風の通り道 吹き抜ける風の中で 故郷の雪は目ざめる」と書かれてあった。これは、東北地方の忘れてはならない心やこれからの時代の方向性を示しているように思えた。
 私は、これから東北地方を隅々まで旅して、各地の風土を肌で感じ、我々を育て培った故郷の山河の恩恵に感謝しながら、歴史や文化、人間を見つめ、そこで学んだすべてを自分のものにしていきたいと考えている。 (朝日新聞(福島)2005.12.21) 

 【ときどき、スケッチにこの詩を盗用させていただく】
   
 

(参)かつての関連する拙ブログ
「今井繁三郎美術収蔵館」 2006-02-14
「▽色彩の画家・今井繁三郎▽」 2006-02-19
「今井繁三郎作品集」 2006-10-18
「3年遅れの礼状」  2008-10-30
「詩画集・風の道」  2008-11-10

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なつかしい青春の心を知る

2010-04-04 | 文芸
                 【沈丁花ほころぶ】

 何気なく、本棚の「岡潔 春宵十話」を手に取った。
 興味ある内容で、ちっぽけな人間が青春の一時期に出会った大切な本だ。
緑色に縁取られた箱入りの本を開くと、40年も前に引いたアンダーライン、そしてその横にメモが走り書きされていた。
自然について、教育について、生き方について・・・、青春の心の一端が記されていた。
すでにあまりに長い月日が経ってしまった。

アンダーライン個所をたどり、メモの一部分に目をやり、懐かしい日々を浮かべながら再読した。
○人の中心は情緒である。情緒は民族の違いによっていろいろな色調がある。
たとえば春の野にさまざまな色どりの草花があるようなものである。
○情緒の中心が発育を支配するのではないか、とりわけ情緒を養う教育は何より大事に考えねばならないのではないか、と思われる。
○その人たるゆえんはどこにあるのか。私は一にこれは人間の思いやりの感情にあると思う。
○よく人から数学をやっていて何になるのかと聞かれるが、私は春の野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。
○数学のもとも良い道づれは芸術である

以下は「岡潔 春宵十話」の内容目次。
【春宵十話 (人の情緒と教育、情緒が頭をつくる、数学の思い出、数学への踏み切り、フランス留学と親友、発見の鋭い喜び、宗教と数学、
学を楽しむ、情操と智力の光、自然に従う);宗教について;日本人と直観;日本的情緒;無差別智;私の受けた道義教育;絵画教育について;
一番心配なこと;顔と動物性;三河島惨事と教育;義務教育私話;数学を志す人に;数学と芸術;音楽のこと;好きな芸術家;女性を描いた文学者;
奈良の良さ;相撲・野球;新春放談;ある想像;中谷宇吉郎さんを思う;吉川英治さんのこと;わが師わが友】  
 
「あとがき」の余白全面に、若き日の、鉛筆の走り書きがあった。
【 大学生活の6年間が終わる。その間、僕の周りにはいつも大いなる自然が存在した。
このことは何にも勝る幸せだった。大自然に眺め入るとき、すべてを忘れてしまう。
眼に映る姿はあまりに素晴らしく、それらを享受したことが涙流れるほど嬉しい。
 緑と土と光のにおいがする。チョウを求め入る山道に大自然の匂いがする。
北海道への一人旅もそうであった。自分は恵まれた大自然の中に真の姿を捕まえた。
大自然に向かいペンを執る。夜空を見上げ聞いてみた。幸せの何か。人生の何かを。崇高なる対話なり、対大自然なれば。
自然に育てられた自分を、これからも忘れてはならない。
これからのあわただしい生活の中にもそんな自分を見失いたくない。
理想は現実の中にありそれらは相関連するもの、夢見ることをやめたときに、青春は終わる。
いつまでも心は大きく。生命は不思議だ、宇宙は不思議だ。人間としての人生だ。勉強しなければ。格物致知!。】

 在りし日の思いを想像した。 
 拙い文章、考えだが、とても純真に思えた。
 長い間忘れていた本に、なつかしい青春の心を見つけることができた。
  

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会津彼岸獅子と磐梯の巫女舞

2010-03-21 | 文芸
 今年も長い冬に終わりを告げ、春の彼岸入りとともに彼岸獅子が街に繰り出している。
 彼岸のお中日には、例年みんなで墓参りに行っていたが、
今朝は昨日とうって変わっての雨降り、寒かったので一人で出かけた。
 暑さ、寒さも彼岸までというが、数年間は荒れ模様だったと記憶している。
昨年はいい天気に恵まれ、墓参りのあと、町内を巡る彼岸獅子を見て、孫たちと記念撮影をしてもらった。
 お城の本丸で彼岸獅子が舞われるが、雨降りのときは西出丸の武徳殿に変更になる。
 豊岡墓地に墓参りを済ませ、帰りに武徳殿に立ち寄って見ると案の定彼岸獅子の舞いが披露されていた。

 

そうそう、4年前のこの日は大雪だった。やはり武徳殿で彼岸獅子の舞いを見たあと、雪の中を磐梯町の舟引き祭りに向かった。
今日も、行くことにした。
 磐梯神社に到着する頃、雨は雪に変わっていた。寒い中、社殿の外から厳かな巫女舞を見ることができた。
長い間練習を重ねた町内の小中学生による古式の舞の奉納だ。



 舟引祭りまでは間があったし、あまりの寒さに帰ることにしたが、思わぬ幸運に恵まれた。
 磐梯町そば打ち愛好会が提供してくれる暖かい手打ちそばをいただくことができた。
 冷えた身体が温まり、本当にありがたかった。
 この舟引き祭りは、最近県指定重要無形民俗文化財に指定されたこともあり、
年々見物客も多くなり、道路沿いに車が何十台も止まっていた。

 会津彼岸獅子舟ひき祭り、ともに豊作と家内安全を祈る会津の伝統行事である。
あらためて、春の訪れを実感することができた。

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会津と長州

2010-03-18 | 文芸
                           【もうじき 福寿草】

  

先日、心清水八幡神社を参拝の折、松陰の東北遊学考察(3/16のブログ)から、≪長州と会津のかかわり≫に思いをはせた。

 その後、松陰は江戸に戻った後、脱藩の罪で萩に送還されることとなる。
 松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出て2度目の江戸遊学へ。
 松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことである」、また「学者になってはいけない。実行しなければならない」と言い、
志を立てて貫くことの大切さ、学問を実行に移すことの大切さを繰り返し説いた。
自らは幕府の弱腰外交を厳しく非難し、尊皇攘夷を実現するべく行動を起こそうとして、安政の大獄で捕縛、享年30で処刑された。
 松陰は死を前に、遺書に「親思ふ こころにまさる親ごころ 今日の音づれ何と聞くらん」を、
そして辞世の句「身はたとひ武蔵野の野に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」で始まる「留魂録」を残し、門下生に自らの志を託した。
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 そののち、明治維新を迎えるが戊辰戦争の悲劇の歴史を残すことになった。
立場の違い、考え方の違いを暴力に訴える不幸が幾多の歴史を作ってきたが、戊辰戦争もその一つだった。
会津戦争中の様子は祖父から父、父から子へと聞き継がれた。
戊辰前の平和な城下町ことごとく壊された。郭内の1/3は戦火に焼きつくされ、町家や農家の財産は略奪されたという。
戊辰戦争以降の喪失から再出発した明治の会津の先人たちの生き方を思った。

 最近、「会津と長州は和解すべきだ」といって、市民レベルの交流が話題になるが、
140年の時の流れをしても、会津の人たちの被害者意識を消すことはできない。
会津を攻めた薩長土肥の仕打ち、「勝てば官軍」の意識への怨念すらも色濃く残っていると思う。
 その悲劇、犠牲の上に今の会津人がいるが、実は、若い世代は戊辰戦争すら知らない現状である。時間が解決するのだろう、
会津に生きる人たちのそういう意識もますます薄れていくだろう。
 でも、過去にとらわれ過ぎることはないが、郷土会津の長い歴史や先人、自然の育んだ会津の精神を再評価し、
新しい時代の気風を作っていかなければならない。まさに、温故知新である。
そのための会津の青少年の教育が最も大切に思われる。


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松陰と会津

2010-03-16 | 文芸
      
 昨日、所要ありて会津坂下まで行った。その折、塔寺の心清水八幡神社に参拝した。
神社参道に吉田松陰の「東北遊日記」の碑が建っている。神社に参拝するたびに読んでいた。
 
碑には「若松を発し、高久、坂下を経て塔寺に至る。行程三里廿四丁、皆平坦の地なり」など、
松陰の直筆本を拡大した銅板がはめてある。その脇に「吉田松陰東北遊日記碑文解説」の解説板が建っている。
 松陰は、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけて、松陰が満22歳のとき、肥後藩士宮部鼎蔵らと東北諸藩を歴訪している。
旅のコースは
(江戸 → 水戸 → 白河 → 会津若松 → 新潟(出雲崎,佐渡) → 碇ヶ関 → 弘前→ 竜飛崎 → 青森 →
八戸 → 盛岡 → 仙台 → 米沢 → 会津若松 → 日光→ 館林 → 江戸 )
 心清水八幡神社を訪ねたのが1852年旧2月6日(今の暦で2/29)とある。
会津若松では、七日町の「清水屋」旅館に宿をとり10日間に渡って滞在し、日新館なども熱心に見学している。
松陰は山鹿流兵学をも学んでいて、当時の会津藩に惹かれるものがあったのだろう。
旅行に往きと帰り、2度にわたり会津若松を訪ねている。
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会津あたりの記録には (嘉永4年12月)
廿九日 朝雪、已にして晴れる。
勢至堂を発し、坂を登り、少くして山巓に至る。是れを勢至嶺と為す。
嶺は磐梯山と対す。三代・福良・赤寸・原・赤井を経て、若松に宿す。
会津侯松平肥州の都なり。原・赤井の間に坂あり、黒守と為す。
赤井を過ぎて二坂あり、沓懸と為し、滝沢と為す。
滝沢は城外の村名にして、以て坂に名づけしものなり。
坂上より城市を下瞰すれば、一望瞭然、田野も又甚だ濶し。
土人云はく、十八万石許りと。果して然るや否や。
其の日、郡を経ること二、安積と曰ひ会津と曰ふ。行程九里
晦日 晴。朝少しく雪。井深蔵人を訪ふ。
蔵人既に没し、其の次子某と孫茂待つに逢ふ。
志賀与三兵衛・黒河内伝五郎を訪ふ、共に在らず、
伝五郎の子百太郎に逢ふ。
会津の法、
外套の紐の色を以て士人の等級を分かち、
衣の領の色を以て軽卒の等級を分かつ。
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 『東北遊日記』による 『東北遊日記』の冒頭には、「有志の士、時平かなれば則書を読み道を学び、
経国の大計を論じ、古今の得失を議す。一旦変起こらば則戎馬の間に従い、敵を料り交を締び、長策を建てて国家を利す。是れ平生の志なり。
然り而して天下の形勢に茫乎たらば、何を以って之を得ん」と、心境を述べている。
また、「東北地方は東は満州に連なり、北はロシアに隣接する。国を治めるのには最も重要なところであるが、
自分は一歩も足を踏み入れたことがない。この機会を逃せば後に悔いを残すことになるだろう」という憂国の思いが認められているという。

戊辰戦争は、松陰が会津を訪れてから16年後に起こっている。
 長州と会津のかかわりに思いをはせた。

 
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映画「戦場のピアニスト」

2010-03-11 | 文芸
            【紙粘土の花束】

 いつか話題になった映画「戦場のピアニスト」をPCで視聴した。
 1939年ナチスの侵攻を受けたポーランドでの、実際にあった惨劇の物語。
 天才ピアニストがドイツ兵から逃げ隠れながら戦火を生き抜く恐ろさが切なかった。
 150分がとても短く感じられた。
 ドイツの将校に見つかり、その前でピアノを弾くクライマックスシーンは、涙が止まらなかった。
あらためて、戦争の悲惨さ、そして戦争を起こした人間の愚かさを教えてくれた。 
 

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戦場のピアニスト』 (The Pianist) 【ウィキペディアより】

 フランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作(2002年)。ナチス・ドイツのポーランド侵攻以後、ワルシャワの廃墟の中を生き抜いたユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を元にしている。
 カンヌ映画祭では最高賞であるパルムドールを受賞した。また、アメリカのアカデミー賞でも7部門にノミネートされ、うち監督賞、脚本賞、主演男優賞の3部門で受賞。
 主演のエイドリアン・ブロディはこの作品でアカデミー主演男優賞を受賞した。
また、映画の中でシュピルマンが弾き、象徴的に使われたショパンの夜想曲第20番嬰ハ短調「遺作」がよく知られるようになった。
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魅せられた写真

2010-03-10 | 文芸
                【孫のスティッチ】
   

 最近、ブログ「信州・浅間山麓から」(投稿者 蒼山庵さん)を訪問した。http://sozanan.cocolog-nifty.com/mount_/
写真に魅せられ、バックナンバーを少しづつ鑑賞している。
どれも今まで見たことのない素晴らしい写真だ。
いづれも心に響く、哲学を秘めた写真に、すばらしい感性を感じた。
また、いくつもの背景が真っ白な静物写真が、驚きだった。

ブログから驚きの写真をコピーさせていただく。
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【 ブログ「信州・浅間山麓から」より】

 【 ブログ「信州・浅間山麓から」より】

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 蒼山庵さんにコメントして、どのように写すのか尋ねた。
≪写真の背景ですが、これは単純にバックに白い紙を置いただけです。
影ができないように強い光を避けた平準的な光の中で撮っています。
また暗部全体を明るく補正し、画面全体の調子を整えています。
 お試しください。≫」とお返事のコメントをいただいた。

 早速、身近なもので試してみた。
 <暗部全体を明るく補正>が分からないが、いろいろやってみたいと思っている。



【冬を越した観葉植物】


【新薬師寺のお面】


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熊田千佳慕の平和な虫の世界

2010-03-01 | 文芸
    【樹液に集まる昆虫】

今年1月から朝日新聞の購読に切り替えた。
気付かずにいたが、今日購読料の集金に来た時、額絵シリーズ「熊田千佳慕の世界」を置いて行った。
第8回分で、「春の草原」と「野の花たち(ヘビイチゴ)」だった。

 はじめて熊田千佳慕と作品を知ったのは、県立美術館での展覧会を見た時だった。
 その時に求めたカタログ(図版)を本棚から取りだし、久々に鑑賞した。
カタログには「2002.5.18 於:県立図書館」とメモってあった。
あらためて驚きの描写だ。アリ、トンボ、クモ、ハチ、チョウ、カマキリ、・・・、あらゆる昆虫たちの細密な描写は驚異的だった。

その後もお元気で創作を続けられていたが、残念ながら昨年夏、99歳で亡くなられた。

 下記は、展覧会を観た折に書いた新聞の読者欄への投稿文である。
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熊田千佳慕の平和な虫の世界
 
 県立美術館で、熊田千佳慕の平和な虫の世界を鑑賞した。花と虫を見つめ、心と心で語り合う画家の心豊かな日々を想像した。
齢九十を越えたナチュラリストが、虫の目の高さで自然を見つめ精魂込めて描く緻密な絵は、初めて目にするメルヘンの世界であった。
私自身もそんな目で身近な自然を描いてみたいと思った。
 かつて、高山蝶の生態研究者、山岳写真家田淵行男の微細画を驚嘆の目で見た覚えがある。それは、そのまま蝶の翅の文様分析であり生態研究であった。
彼は肉眼的視点で特徴を捉え、それを自主的に強調することで写真と一線を画した。その絵はがきは今も、蝶に魅せられた私の宝である。
一方、童画家熊田の作品には、科学を超えた、夢にあふれる温かさが感じられた。
彼は「美しさは、その虫、花、自然が美しいからではなく、見つめる愛する心があるから」と言う。
 いずれも写真にはない、虫の心が伝わる労作で、あらためて驚愕と敬意の念を禁じ得ない。
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 カタログには、「熊田千佳慕の作風はドライブラッシュとよばれ、水分を十分絞った面相筆で、
点描のように細かく色を重ねていくやり方は熊田独自のもの」とあった。




春の訪れ

2010-02-24 | 文芸
         【短大グランドから飯盛山を望む】

 いよいよ春を意識する天気に恵まれた。やはり春はい~な!と思えた。
 ときどき吹く風はまだまだ頬に冷たいが、輝く雪がやわらかい春の陽に溶けている。
  庭の日だまりに黒い土が見えてきた。

 
【雪解け進む近くの田】 

雪解けを見ながら、藤村の詩の一節を浮かべた。
 
小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も籍くによしなし
しろがねの衾の岡辺
日に溶けて淡雪流る


そしてまた、信州の安曇野生まれの「早春賦」が自然と口をついて出てきた。
 清らかな信濃路の早春が目に浮かんできた。

春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず


午後には、気温も12℃まで上がったそうだ.
庭木の雪囲いのひもを急いで外して回った。
窮屈な冬を過ごした木々も、眠りから覚める暖かさだ。
(2010.2.23)

  
 【赤井より磐梯春望  2010.2.21撮】


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100年以上前の雛人形

2010-02-22 | 文芸
   

日新町の竹問屋 平出吉平商店のおひな様を見せていただいた。
福島民友に「100年以上前の雛人形」の記事が載り(2010.1.31付け)、一度見てみたいと思っていた。



 店主の平出幸朗さんから説明を伺った。平出さんのお母さんの生まれた明治29年に購入したもので、最近、たまたま蔵で見つけたものだ。
 ずっと蔵に眠っていた雛人形たちが、晴れ渡り春の日が差し込む店先で、嬉しそうに並んでいた。
ちいさな食器が載った会津塗りのお膳や、いろいろめずらしい飾りものが賑やかだ。
 お雛さまの顔立ちも時代と共に変わるらしい。近づいて、上品なお顔を拝見させて貰った。
 お人形は一体づつ真綿にくるまれ袋に入れられていた。その和紙の袋には、お母様の短歌が墨書されていて、心優しくおひな様を保存されていたことが偲ばれた。
(2010.2.21)



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自分にとって、命とは何だろう

2010-02-15 | 文芸
       
【短大構内で】



幼稚園が代休の孫娘を連れて大学図書館へ行った。
いつものように、「文藝春秋」の最新号を隅々まで読んだ。
相変わらずの政治がらみの記事には、何の感想もなかった。

一つ二つ、こころ動かされるものがあった。
”村の時間  命は時間 ” と題する俳人・黒田杏子さんの話題だ。

 山口萩の老人の句 ”村を出ず子に従わず稲を刈る”が紹介され、
さらに、作者の読んだ背景に感動したことが書かれていた。
 句の作者は「村には自分の時間が流れている。山にも川にも自分の時間が流れている。
出来ることなら死ぬまでこの時間の中で生きていたいと思う」と。
 また、日野原重明医師の、小学生への「いのちの授業」で、「命って何?」と質問する。そして子どもたちに「命は時間なのです」と話されると。
 日野原先生は満98才になられるが、2年ほど前から句作を始められたとあった。
 
 《自分の時間》に、私もこころ動かされた。
 いつも、我が家の庭に流れる自分の時間を思った。そして、「自分にとって、命とは何だろうか」としばし考えた。
 自分にとっての命は、自分を支えてくれるもの、それは家族、自然豊かな庭、そしてそこに流れる穏やかな時間ではないかと考えた。



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立松和平さん逝去

2010-02-12 | 文芸
                【今朝の雪】


 8日午後、作家の立松和平さんが亡くなった。
 確かお正月にラジオに出演し、道元について、環境について元気に語っていた。
 また、最近のPHPの雑誌「ほんとうに時代」で「いい言葉~「いい人生」のヒント」で
 良寛の俳句「たくほどは風がもてくる落葉かな」について書かれていた。
 彼のエッセイは時々見かけるが、良寛、道元、環境問題など、いつもこころの向きが自分と同じように思われ好きだった。
 いろいろな環境保護活動の実践をみながら、行動派のすばらしい作家だったと思っている。
 あの栃木なまりの、 朴訥な語り口に人柄が感じられた。ご冥福を祈りたい。

突然の悲報、新聞には、先月体調を崩し入院して手術、その後急変し多臓器不全のためとあった。同じ年配で、人ごとと思えなかった。
 体験上、敗血症で危なかったことを思い出したが、何か症状があっても過信があったのだろうかなどと推測している。
 あまりに突然の明日を想像できなかった本人、心残りはいかばかりであろうか。
 ひるがえり、明日のことはわからない。今を大切に!一日一日を大事に過ごしたいと思った。
 著作の「道元禅師」を読んでみようと思ってる。 我が「道元禅師」考察の一助として。

今日は作家司馬遼太郎の命日だ。
 司馬遼太郎が愛した野の花にちなんで『菜の花忌』と名づけられている。
 小生「街道をゆく」の大ファン、何年か前に全巻を揃え、時々ランダムに読んでいる。