読売新聞 2007年6月12日夕刊 山折哲雄の宗教つれづれ
に気になる一節があった。長文になるが、引用する。
「『おしん』という朝のテレビ番組がお茶の間の人気をさらったのが、昭和58年から翌年にかけてだった。24年前のことになる。時代は明治、奉公に出された少女おしんが苦難に耐えながら生き抜く姿を描いて、視聴者の涙をさそったのである。
「驚くべきことに最高視聴率が60パーセントをこえ、さらにアジアを中心に放映されて話題を呼び、「おしん」ブームが世界中に広がる勢いをみせた。
「あの現象はいったい何だったのか。今からふり返れば、おしんの子守姿が目に焼きついている。差別と貧しさにあえぐ子守への同情と共感に多くの人々が胸をしめつけられたのである。アジアの各地で大きな反響を呼んだのも、それらの発展途上国に子守文化が深く根づいていたからだった。
「それから間もないころのことだ。ふと思い立って、当時の学校や家庭でどんな子守唄が唄われているのか調べたことがある。(略)それを一つずつ点検していくうちに意外な事実が明らかになった。それらの音楽教材に、日本の伝統的な子守唄がほとんど含まれていなかったからだ。学校や家庭では、哀調を帯びた五木の子守唄や中国地方の子守唄がいつのまにかうたわれなくなっていたのである。
「時代は明らかに、短調の旋律をおき去りにしたまま経済発展の道を追い求めていたのである。
「さきに私は、幼児用、低学年用の音楽教材から子守唄が姿を消してしまったといったけれども、正確にいうとかならずしもそうではない。なぜならそのなかにはシューベルトやブラームスの子守唄はちゃんと収められていたからである。それらはすでに明治時代の尋常小学校唱歌集などに登場していた。また歌詞をみればわかるが、そこには西欧中産階級の幸福な家庭と優しい母の姿が描き出されている。
「五木の子守唄や中国地方の子守唄とは雲泥の差といっていいだろう。そこでうたわれている小さな主人公たちは、いずれも貧困と差別と人生苦にあえぐ、「おしん」のような子守娘たちだった。そしてそんな暗い時代の記憶を否定し、のり越えるためにこそ、われわれの近代はあったのである。」
そうして、山折氏は結ぶ。
「だが、どうだろう。もしもそのために、わが国の子守唄が担ってきたはずの悲哀のメロディーを手放し、人の悲しみに共感し涙するこころまでが枯れはててしまったとしたらどういうことになるか。われわれはもっとと大切なこころの遺産までを失うことになるのではないだろうか。」
***
高校の頃の現代国語といえば、誠に退屈で、しかも試験では「教科書ガイド」なる参考書の問題がそのまま出題されたりしたものだから、面白いとおもった記憶がほとんどない。
が、ありがたいことに、教科書の教材そのものはどれも面白かった。レモンを本屋に置き去りにしてくるという悪戯も、率先してやった。
山折氏の慨嘆に接し、頭に思い浮かんだのは、高校3年の現代国語の教科書にあった「清光館哀史」(柳田國男) の、この一節だ。
「忘れても忘れきれない常の日のさまざまの実験、遣瀬無い生存の痛苦、どんなに働いてもなほ迫つて来る災厄、如何に愛しても忽ち催す別離、斯ういふ数限りも無い明朝の不安があればこそ
はアどしよそいな
と謂つて見ても、
あア何でもせい
と歌つて見ても、依然として踊の歌の調は悲しいのであつた。
(略)
痛みがあればこそバルサムは世に存在する。だからあの清光館のおとなしい細君なども、色々として我々が尋ねて見たけれども、黙つて笑ふばかりでどうしても此歌を教へてはくれなかつたのだ。通りすがりの一夜の旅の者には、仮令話して聴かせても此心持は解らぬといふことを、知つて居たのでは無いまでも感じて居たのである。」
この「心持」を分かち合えるかどうか。「解らぬ」までも察することができるかどうか。子守唄や九戸・小子内の盆のをどり歌によせられた、そのようなこころを持てるかどうか。それは、日本の文化・伝統に想いをいたす時、美しい国の復権に力を込めるのもよいけれども、それよりももっと基本的なことであるように思う。
そう思いながら、今日は、A.ハチャトリアンの仮面舞踏会「ワルツ」を聴いている。もちろん短調である。
に気になる一節があった。長文になるが、引用する。
「『おしん』という朝のテレビ番組がお茶の間の人気をさらったのが、昭和58年から翌年にかけてだった。24年前のことになる。時代は明治、奉公に出された少女おしんが苦難に耐えながら生き抜く姿を描いて、視聴者の涙をさそったのである。
「驚くべきことに最高視聴率が60パーセントをこえ、さらにアジアを中心に放映されて話題を呼び、「おしん」ブームが世界中に広がる勢いをみせた。
「あの現象はいったい何だったのか。今からふり返れば、おしんの子守姿が目に焼きついている。差別と貧しさにあえぐ子守への同情と共感に多くの人々が胸をしめつけられたのである。アジアの各地で大きな反響を呼んだのも、それらの発展途上国に子守文化が深く根づいていたからだった。
「それから間もないころのことだ。ふと思い立って、当時の学校や家庭でどんな子守唄が唄われているのか調べたことがある。(略)それを一つずつ点検していくうちに意外な事実が明らかになった。それらの音楽教材に、日本の伝統的な子守唄がほとんど含まれていなかったからだ。学校や家庭では、哀調を帯びた五木の子守唄や中国地方の子守唄がいつのまにかうたわれなくなっていたのである。
「時代は明らかに、短調の旋律をおき去りにしたまま経済発展の道を追い求めていたのである。
「さきに私は、幼児用、低学年用の音楽教材から子守唄が姿を消してしまったといったけれども、正確にいうとかならずしもそうではない。なぜならそのなかにはシューベルトやブラームスの子守唄はちゃんと収められていたからである。それらはすでに明治時代の尋常小学校唱歌集などに登場していた。また歌詞をみればわかるが、そこには西欧中産階級の幸福な家庭と優しい母の姿が描き出されている。
「五木の子守唄や中国地方の子守唄とは雲泥の差といっていいだろう。そこでうたわれている小さな主人公たちは、いずれも貧困と差別と人生苦にあえぐ、「おしん」のような子守娘たちだった。そしてそんな暗い時代の記憶を否定し、のり越えるためにこそ、われわれの近代はあったのである。」
そうして、山折氏は結ぶ。
「だが、どうだろう。もしもそのために、わが国の子守唄が担ってきたはずの悲哀のメロディーを手放し、人の悲しみに共感し涙するこころまでが枯れはててしまったとしたらどういうことになるか。われわれはもっとと大切なこころの遺産までを失うことになるのではないだろうか。」
***
高校の頃の現代国語といえば、誠に退屈で、しかも試験では「教科書ガイド」なる参考書の問題がそのまま出題されたりしたものだから、面白いとおもった記憶がほとんどない。
が、ありがたいことに、教科書の教材そのものはどれも面白かった。レモンを本屋に置き去りにしてくるという悪戯も、率先してやった。
山折氏の慨嘆に接し、頭に思い浮かんだのは、高校3年の現代国語の教科書にあった「清光館哀史」(柳田國男) の、この一節だ。
「忘れても忘れきれない常の日のさまざまの実験、遣瀬無い生存の痛苦、どんなに働いてもなほ迫つて来る災厄、如何に愛しても忽ち催す別離、斯ういふ数限りも無い明朝の不安があればこそ
はアどしよそいな
と謂つて見ても、
あア何でもせい
と歌つて見ても、依然として踊の歌の調は悲しいのであつた。
(略)
痛みがあればこそバルサムは世に存在する。だからあの清光館のおとなしい細君なども、色々として我々が尋ねて見たけれども、黙つて笑ふばかりでどうしても此歌を教へてはくれなかつたのだ。通りすがりの一夜の旅の者には、仮令話して聴かせても此心持は解らぬといふことを、知つて居たのでは無いまでも感じて居たのである。」
この「心持」を分かち合えるかどうか。「解らぬ」までも察することができるかどうか。子守唄や九戸・小子内の盆のをどり歌によせられた、そのようなこころを持てるかどうか。それは、日本の文化・伝統に想いをいたす時、美しい国の復権に力を込めるのもよいけれども、それよりももっと基本的なことであるように思う。
そう思いながら、今日は、A.ハチャトリアンの仮面舞踏会「ワルツ」を聴いている。もちろん短調である。
日ごろは大変お世話になっております(笑)
>レモンを本屋に置き去りにしてくるという悪戯も、率先してやった。
びっくりびっくり。
これは梶井基次郎の「檸檬」に書かれていることを実践されたということですか?
私もあの本を読んだ時にものすごい衝撃を受けたのです。
読んだ瞬間に頭の中に黄色いペンキがぶちまけられたというか、モノトーンの世界に突然檸檬だけが色付きの状態で見えたというか。
上手く説明できませんが、本を読んでいてこんな状態になったことがなかったので、自分でもとても驚いたことを覚えています。
すみません、日記の主旨とは違う話題で一人盛り上がりしてしまいました・・・
子守唄同様、古い日本文学にも良いものがたくさんあるのに、
最近は本を読む人が少なくなっているようで
残念な限りです。
それは京都の丸善ではなく、静岡の、それもいまは潰れてしまった本屋でのお話。
梶井の味わった爽快感はつゆほどもなく、本屋の親爺にどやされまいかと、ハラハラドキドキ(走って逃げましたから・・・)の所業でした。
いま読み返してみると、往時味わった色彩感だけは、鮮烈に蘇ってくるのが不思議です。
日本文学も、現国の「文学史」の認識にとどまっていたのが我ながら腹立たしく、近年、ようやく「夜明け前」などに手が及ぶようになりました。べらぼうに面白いです。
まったく、とんだ回り道をしたものです。