澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「マオとミカド~日中関係史の中の”天皇”」

2021年07月19日 09時49分23秒 | 読書

 「マオとミカド~日中関係史の中の”天皇”」(城山英巳 著 白水社 2021年)を読む。

 マオ(Mao)とは、毛沢東(Mao Zedong)を指す。ミカドは、天皇を意味する。つまり本書は、中国共産党の指導者であった毛沢東の天皇認識を中心に日中関係史を論ずるものである。


 
 新刊書紹介サイトは、次のように紹介している。

工作と諜報に明け暮れた裏面史

 「天皇陛下によろしく」――。毛沢東や周恩来ら中国共産党の歴代指導部は1950年代以降、訪中した日本の要人に必ずこう語り掛けた。
 日中戦争の記憶も生々しいこの時期、激しい反日感情を圧してなぜこうしたメッセージを発したか? 1920年代から50年代にかけての米ソ日中の史料や証言を掘り下げて解明していくのが本書の基本視角だ。
 まず指摘できるのは「向ソ一辺倒」から「平和共存」へと、中国の外交方針が大きく転換したことだ。超大国として米国が台頭する中、米国務省日本派が練り上げた「天皇利用戦略」を換骨奪胎しつつ、西側諸国を切り崩す外交カードとして天皇工作を焦点化していったという。
 他方、毛沢東は戦争中、のちに「闇の男」「五重スパイ」などと語り継がれる日本共産党の野坂参三と延安で頻繁に接触していた。
 野坂は共産党関係者を一斉摘発した三・一五事件で逮捕されて以降、「君主制ノ撤廃ニ異論」を唱えており、野坂との交流が「皇帝」毛沢東をして「万世一系」の天皇が持つ不思議な求心力について喚起せしめたという。「志那通」からチャイナスクールまで、帝国陸軍から自民党・共産党まで、大陸で暗躍した人々の群像!

 毛沢東が天皇に関心があったことは、よく知られている。1960年代、日本からの「訪中団」と接見したときに、「日本のおかげで中国革命は成功した」という主旨の発言を毛は繰り返した。「大日本帝国」の敗北を見越した毛沢東は、「持久戦」論を説いて、共産党軍の勢力温存を図った。「大日本帝国」崩壊後、待っていたとばかりにソ連軍の支援を受けて、「国共内戦」に勝利し、「中国革命」を成就させた。毛沢東にとっては、日本は中国革命の恩人なのだ。

 本書の中で特に興味を覚えたのは、1972年、昭和天皇が佐藤栄作首相(当時)に対し、国連の中国代表権問題で「蒋介石を支持するように」と発言したことだ。これは近年、成蹊大学の井上准教授が発掘した史実なのだが、マスメディアからは完全に無視された。

「昭和天皇は戦前から戦後も一貫して中国に関心を寄せたが、特に象徴天皇となった戦後、日本国憲法の規定により国事行為には内閣の助言と承認が必要であると縛られ、政治的発言を公式に発することはなかなかできなかった。近年まで表に出なかった事実であるが、1971年に国連の中国代表権が大きな転換点を迎える中、天皇が佐藤栄作首相に対し、日本政府がしっかり蒋介石を支持するよう促したことは、「以徳報怨」政策で天皇制を守ってくれた蒋介石への感謝の表明であった。七二年に中国と国交正常化すると今度は、駐中国大使の信任状捧呈という外交舞台で中国指導者に「過去の不幸な戦争」への「遺憾」の思いを伝えている。いずれも水面下であるが、政治的にきわどい政治発言と言える。天皇の戦前の中国問題へ関心は戦後、「反省」の念に重点を変えながら連続性をみることができよう。」(本書P.18) 

 つまり、毛沢東は戦略的に日本・日本人を理解するカギとして天皇および天皇制に関心を持った。一方、昭和天皇は「戦争責任」を免れた代わりに、「象徴天皇」の地位に置かれたが、その意識は「大日本帝国」時代とさして変わらなかった。「無限無責任体制」(丸山正男)の元凶は、今も昔も変わっていない。宮内庁長官が「今上天皇は五輪開催を危惧しておられる」と”忖度”すると、マスメディアが一斉に煽る。基本的にこのワンパターンなのだ。

 私見では、このマオとミカドは、鮮やかな日中対比論となる。長期を見据えて、戦略、謀略を図り、その実行に当たっては犠牲を顧みない毛沢東。「責任」の観念が希薄で、常に「良きにはからえ」という意識の昭和天皇。これでは、勝負にならないな、と実感。


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