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澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

「チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史」を読む

2015年04月20日 22時09分28秒 | 

 「チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史(楊海英著 文芸春秋社 2014年)を読む。
 昨年度、ある大学で「モンゴル近現代史」という授業を聴講したので、大国に翻弄され続けたモンゴル民族の歴史に対して、それなりに理解を深めたと思い込んでいた。

 しかし、この楊海英・静岡大学教授の著作で、モンゴル騎兵のあまりに壮絶な運命、苛酷な史実に触れ言葉も出なかった。書評については、渡辺利夫・拓殖大学総長が「産経」に書かれているので、それを読むのが手っ取り早いと思う。(下記に転載させていただいた。)

 私の心に突き刺さるのは次のようなことだ。

1 ブリアート共和国(現・ロシア)、外モンゴル(現・モンゴル国)、内モンゴル(現・中華人民共和国内モンゴル自治区)に分かれて居住するモンゴル民族は、満洲国が成立し、その国内にモンゴル人の居住地域が定められ、自治軍などの保有も認められたことで、三つに分かれた国がひとつのモンゴル人の国になれるかもしれないという、近代史上、最初で最後の夢を描いた。

2 だが、日本の敗戦によって、満洲はソ連に占領され、中共の支配下に。満洲国に協力したモンゴル人たちには粛清の運命が待っていたが、毛沢東は邪悪な企みを考えついた。彼は、勇猛果敢で漢人に恐れられたモンゴル騎兵をチベット制圧の先兵として使った。まさに「夷を以て夷を制す」の言葉通りの残虐な策謀だった。その後、文化大革命が始まった1966年、中共はモンゴル独立運動の陰謀があったとして、内モンゴル自治区に住む何十万人ものモンゴル人を迫害し、死に至らしめた。

3 モンゴル人と漢人の相克の歴史は、つまるところ遊牧民と農民の土地をめぐる戦いだ。満洲族の王朝であった清朝は、モンゴル人の居住領域(草原である牧草地)に漢人農民が入植することを禁じたが、その末期に至っては、事実上多数の漢人農民が開拓民として満洲に不法移住した。「五族協和」を唱えた満洲国は、国内のモンゴル人の居住領域を保護し自治を認めるとともに、近代的教育を施した。中共の圧政と歴史ねつ造がなければ、台湾の日本語世代と同様に、きっと多くのモンゴル人が日本に対して好感情を持っていたはずだった…。

 以上のようなことがらが、「日本は満洲で”悪いこと”をした」という教条のために、歴史の授業では全く教えられていない。そもそも「満洲」という言葉自体が「中国東北部」と言い換えさせられている始末だ。中共(中国共産党)の「正史」は、「中華民族」による「ひとつの中国」にあるのだから、広大な少数民族の領域である内モンゴル自治区やチベット、新彊ウイグルなどは、今や漢人の植民地とされてしまった。日本は悪いことをした、と懺悔や謝罪を繰り返すだけでは、決して収まり切れない、今も続く歴史がここにある。日本が「満蒙」と言われる広大な領域にどう関わってきたのか、さらに検証される必要があるのだろう。
 
 著者は本書の「まえがき」で「日本人よ、”モンゴル”をわすれないでほしい」と、そして「あとがき」で「日本人よ、”自虐”にも、”自尊”にもなるな」と書く。これは、中国国籍(内モンゴル自治区のモンゴル人)から日本国に帰化した著者ならではの、日本人に対する熱いメッセージだ。
 

 
(「チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史楊海英著 文芸春秋社 2014年)

拓殖大総長・渡辺利夫が読む『チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史』楊海英著
                                                                                            201
4.11.30 「産経新聞」

自決求めるモンゴルの叫び

 中国という巨大国家の闇を覗(のぞ)くには、実に多角的なアングルが必要である。この国家の特徴的な一面はその残虐性であり、それを知るには、何よりも帝国の支配下におかれたモンゴル、チベット、ウイグルなど少数民族の血を吐くような声に耳を傾ける必要がある。『墓標なき草原』以来、この著者が書き綴(つづ)ったいくつもの著作を私は読んできた。

 本書は、中国支配下のモンゴルで起こった、日本人には信じ難い規模でのジェノサイドを、その惨劇から奇跡的に生き延びてなお存命の人々との濃密なインタビューを通じて描き出した秀作である。読み通すのがつらくなるほどのリアルな記述に満ちている。

 しかし、本書の目的は惨劇の描写それ自体ではない。むしろ、中国の圧制に抗しつづけたモンゴル民族主義者の、一方では雄々しく、他方では切ないまでに鬱屈(うっくつ)した心情を記述することにある。

モンゴルの民族主義的な戦闘集団の先陣は、日本陸軍が満洲国で創立した興安軍官学校の卒業生たち、日本刀を自在に操る勇猛果敢なモンゴルの「サムライ」である。その秀才の一人で日本陸軍士官学校に留学、三笠宮殿下とも親交のあったドグルジャブを主人公に、その苛烈な人生を追いながら物語の全編が紡がれる。

 民族自決権を付与するとの共産党の甘言に乗せられ、中国人民解放軍内モンゴル軍区の騎兵として同じ少数民族であるチベット族への侵攻の先兵に仕立てられ、中国による凄惨なチベット支配に加担させられてしまったことへの、今に生き存(ながら)える元騎兵隊兵士の慙愧(ざんき)の思いを本書は切々と伝える。結局は、モンゴルもチベットもウイグルも、刃(やいば)を抜き取られて民族自決は遥(はる)かなるものとなってしまった。

 本書の最後で著者は「本書を書いている間、私はずっと一種の昂揚(こうよう)感に包まれていた。興奮状態だった」と記す。そうにちがいない。モンゴル騎兵の精神を探る旅に出て気づかされた、自決を求めてなお衰えることのないモンゴル人の熱い魂を描写しようというのだから。著者の昂揚感は私にも深々と伝わる。(文芸春秋・1850円+税)

 


「わが軍」と「この国」

2015年04月01日 17時06分21秒 | 

 安倍首相の「わが軍」発言が、マスメディアの格好のネタになっている。国会質疑をそのまま見る限りでは、日米合同演習に関連して、「米軍」との対比において、自衛隊を「わが軍」と言ったに過ぎない。ところが、TBS、テレ朝など、安倍叩きに狂騒するメディアは、発言の一部だけを切り取って、「それ見たことか!」と大騒ぎ。

 アベタタキニモマケズ…

 この「わが軍」という言葉で連想したのが、「この国」という言葉。「わが国」ではなく「この国」という人々がいることに、私はかねてから疑問を感じていた。
 「この国」派の代表は、故・筑紫哲也

 TBSはまだ生きている…

 ソフトな印象とは裏腹に、筑紫哲也はバリバリの左翼であり、プロ市民派だった。まさに「従軍慰安婦」をねつ造した「朝日新聞」そのもののような人だった。
 私は、筑紫が「わが国」とか「日本国は」と言うのを聞いたことがない。戦前の歴史を全否定して、戦後民主主義が輩出した「市民」を持ち上げる。筑紫にとっては、「国民」よりは「市民」に価値があるのだから、「わが国」とはいいにくい。だから、「この国」を多用したのだろう。

 だが、あの司馬遼太郎も「この国のかたち」を著している。だれが左翼か右翼かといった俗世間の些事をはるかに超越した、彼のような大作家が、なぜ「この国」という言葉を使ったのか?

 この疑問は、「司馬遼太郎の”かたち”~”この国のかたち”の十年」(関川夏央著 文春文庫)を読んでようやく氷解した。司馬遼太郎は、書き上げた作品に「この土(くに)のかたち」という表題を付けた。しかしながら、編集者は「土」を「くに」と読ませるのは、読者に馴染まない。だから、「くに」は「国」という漢字にしてほしいと頼んだのだそうだ。

 「この土(くに)のかたち」としたかったが…

 関川夏央は次のように書く。

 『これは私の考えだが、”この国”といういいかたが、永らく左翼に愛用された事実も気になったかも知れない。左翼は”わが国”とは決していわなかった。”この国”といった。自分がその国民ではないといいたげな気分、またあたかも、たまたま日本に住んでいるにすぎない外国人であるかのような気分が、”この国”と発語するときに感じられたのである。
 しかし、やはり「この土(くに)のかたち」では落ち着かない。”この土(くに)”と”この国”、四角いほうの”国”にもLandの意味はこめられていると思います、と堤(編集者)は力説し、奥様はいかがお考えですか、と尋ねた。「私も、どちらかといえば、国の方が良いと思います」「だったら二人で先生を口説きましょうよ」
 その結果、「二人がそこまでいうんなら、国でいこか」という司馬遼太郎の意向が、やがて伝えられた。』
                        
(関川「司馬遼太郎の”かたち”」p.40)

 司馬遼太郎の真意を知って、ほっとした思い。今頃、そんなことを知ったのかと言われるかも知れないけれど…。

 


 

 

 

 

 


李登輝氏の新著「李登輝より日本へ 贈る言葉」

2014年06月13日 09時40分42秒 | 
 李登輝氏の最新刊「李登輝より日本へ 贈る言葉」が一昨日刊行された。
 「中台貿易サービス協定」に反対する台湾学生の立法院(=台湾国会)占拠についても所見が書かれている。
 「台湾の声」に本書の紹介が掲載されたので、ここに転載させていただく。


李登輝より日本へ 贈る言葉
李登輝 著
(株)ウェッジ 2014年6月11日刊



【必読】李登輝元総統の新著『李登輝より日本へ 贈る言葉』


日本李登輝友の会メールマガジン「日台共栄」より転載




・著 者 李登輝
・書 名 『李登輝より日本へ 贈る言葉』
・体 裁 A5判、上製、272ページ
・定 価 本体2,400円+税
・版 元 (株)ウェッジ
・発 売 平成26(2014)年6月11日

◆『李登輝より日本へ 贈る言葉』
  http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3591

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はじめに

第1章 再生する日本
   日本が明るくなった
   安倍総理によって攻勢に転じた日本外交
   アベノミクスと「失われた二十年」
   日銀改革に期待
   「原発ゼロ」の非現実性
   夢の「核融合」発電
   トリウム小型原発の可能性
   安倍新政権の使命の重大さ
   安倍総理へのエール

第2章 李登輝の台湾革命
   自我に苦しんだ少年時代
   小我をなくして大我につく
   マルクス主義への傾倒
   二・二八事件「犬が去って、豚が来た」
   台湾の歴史の暗黒時代
   蒋介石による排日教育世代
   国民党に入党
   蒋経国学校
   台北市長・台湾省主席をへて副総統に
   「私ではない私」
   軍を掌握する
   国民党との闘い
   司馬遼太郎と私
   台湾人のアイデンティティ
   「歓喜の合唱」
   台湾の改革、いまだ終わらず
   台湾における「中華思想」の復活

第3章 中国の歴史と「二つの中国」
   「中国五千年」
   新儒教主義
   なぜ「支那」がいけないのか
   中国人には「現世」と「私」しかない
   「天下は公のために」
   台湾モデル
   「一国二制度」はあり得ない
   台湾は「生まれ変わった」
   特殊な国と国との関係
   「台湾中華民国」

第4章 尖閣と日台中
   台湾にとっての「尖閣」
   中国が狙う両岸の「共同反日」
   「千島湖事件」と「台湾海峡ミサイル危機」
   安倍総理の断固とした態度
   中国の独善的な論法
   韓国人と台湾人
   「日本精神(リップンチェンシン)」と「謝謝台湾」

第5章 指導者の条件
   人命より体裁を優先した民主党政府
   緊急時の軍隊の役割
   リーダーは現場を見よ
   指導者は「知らない」と言ってはならない
   「生きるために」――日本の大学生からの手紙
   孤独を支える信仰
   「公義」に殉ずる
   「公」と「私」を明確に区別する
   カリスマの危うさ
   劉銘伝と後藤新平
   台湾で最も愛された日本人
   権力にとらわれないリーダーシップ
   福澤諭吉の問題提起
   「伝統」と「文化」の重み
   エリート教育の必要性
   「知識」と「能力」を超えるもの

第6章 「武士道」と「奥の細道」
   オバマ大統領の最敬礼
   『学問のすゝめ』
   儒学の思弁より実証的学問
   東西文明の融合
   「武士道」の高い精神性
   日本文化の情緒と形
   「奥の細道」をたどる
   靖國神社参拝批判は筋違い
   変わらぬ日本人の美学
   一青年からの手紙にみた日本人の精神文化

第7章 これからの世界と日本
   「Gゼロの世界」
   平成維新のための「船中八策」
   若者に自信と誇りを

おわりに

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2>> 李登輝元総統新著『李登輝より日本へ 贈る言葉』の「はじめに」全文

 台湾がまもなく旧正月を迎えようという今年一月末、テレビでは「台湾新幹線の乗務員が日本の新幹線で接客研修」というニュースを報じていました。聞けば、昨年十二月には日本の新幹線の乗務員が台湾で研修を行っており、日台交流研修の一環だということでした。

 日本と台湾の密接な関係を象徴するものは数多くありますが、台湾新幹線はその代表的なものの一つと言えるでしょう。

 日本で研修を受けた台湾新幹線の乗務員は「日本の接客は非常に丁寧。私たちももっと練習して『おもてなし』の心を学んでいきたい」と感想を述べていましたが、私はこんな形の日台交流もあるのかと唸うならされました。
 昨年夏に東京オリンピック開催が決定してから、日本の雑誌や新聞で「おもてなし」という言葉を目にすることが多くなりました。私も二〇〇五年末、正月を日本で過ごすために家族とともに名古屋や関西を訪れましたが、そのときに乗車した新幹線のサービスの素晴らしさにほとほと感心したのを覚えています。

 新幹線の乗務員は、車内に出入りするたびに丁寧におじぎをし、乗客に細やかな気配りをしていました。通路や座席にはチリひとつ落ちておらず、トイレは常に清潔に保たれている。電光掲示板には目的地の天候や気温が乗客へのサービスの一環として表示され、私たちを乗せた新幹線は到着予定時刻ちょうどにホームへとすべり込んだのです。
 私が日頃から常々評価する日本精神を形作っている誠実さや真面目さ、思いやり、滅私の心、時間厳守といったものが体現されたのが日本のサービスであり、結実したものが「おもてなし」の心と言えるのではないでしょうか。

 私は、日本人が持つこの精神が改めて素晴らしいものであると強く確信すると同時に、いまでも日本の社会でその精神が失われずにいることを目にして感激したのです。
 こうしたサービスの分野で台湾が日本に学ぶことはまだまだ多くあります。新幹線を通じた日台交流が台湾のサービス向上に役立つことを期待しています。

 前置きが長くなりましたが、日本と台湾の結びつきはかくも強く、台湾には昔の日本がいまも息づいていると同時に、日々刻々と変わる国際情勢のなかにあっても、日台の絆が未来へ向けてますます強くなっていくという思いを禁じ得ません。

 私は今年一月で九十一歳を迎えました。一昨年の十一月に受けた大腸癌手術に続き、昨年七月には首の動脈にステントを入れました。いよいよ自分に残された時間を意識しなければならなくなったと感じる次第です。

 この本には、純粋な日本教育を二十二歳まで受けて育った元日本人ともいうべき李登輝の精神世界をひも解くと同時に、私という人間がいかにして形成されたのか、日本精神や武士道といった日本が世界に誇るべき素晴らしい財産に対する評価、我が祖国台湾の現状と未来、長らく「片思い」が続いた日台関係、国家の行く末を左右する指導者の条件や修練など、日頃から考えていることの集大成と言えるものを盛り込んだつもりです。

 夜ベッドに入っても、朝目覚めても、頭をよぎるのは、これから台湾がどうなっていくのかという思いです。と同時に、日本のこともそれ以上に気懸かりでなりません。幸いにして、一昨年十二月に再登板した安倍晋三総理によって、日本が長らく迷い込んでいた暗いトンネルに一筋の光明が差し込んだようにも思います。

 日本と台湾は運命共同体です。日本が息を吹き返せば、必ずや台湾もそれに引っ張られて明るくなるのです。中国の台頭が言われて久しいですが、アジアのリーダーとして相応しいのは日本をおいて他にないと私は断言します。日本経済の再生は、中国が持つ市場の大きさや経済に目を奪われがちな台湾の人々の関心を日本へ向けさせる絶好の機会とも言えると思います。

 本書は、日本の復活を心から期待する李登輝から日本人へ贈るメッセージです。

 本書の原稿も最終チェックの段階に入った頃、台湾と中国の「サービス貿易協定」発効に反対する学生たちが立法院に突入し占拠したというニュースが飛び込んできました。この付記を執筆している時点で占拠は二週間あまりとなっており、どのような結末を迎えるか予断を許しませんが、私の思うことを述べておきたいと思います。

 思えば二十四年前のちょうどいまと同じ季節、いくら南国台湾とはいえ三月の朝夕は時折ひどく冷え込むこの時期に、やはり台湾大学を中心とする学生たちが台北市内の中正紀念堂で座り込みやハンストを行っていました。

 ことの発端は、何十年も改選されない国民大会代表が、その退職に際し、高額の退職金や年金などを要求していたことに対する抗議でした。この座り込みが報道されるや、中正紀念堂には学生や支持者が続々と集まり始め、最終的には六千人を超える規模になったと記憶しています。

 その三年前の一九八七年には戒厳令が解除されていたものの、未だ国民大会には「万年議員」が居座って禄を食み続けていましたが、その根拠となっていたのが、台湾と中国大陸は未だに内戦状態にあるとして憲法の機能を制限し、国家総動員のために設けられた「動員戡乱時期臨時条款」でした。

 学生たちは万年国会の解散に加え、動員戡乱時期臨時条款の撤廃、民間からも識者を集めた国是会議の開催、民主化のタイムテーブルの提示という四大要求を掲げ、政府、つまり総統の任にあった私に突きつけたのです。

 私はと言えば、当時確かに総統の任にありました。とはいえ、それは一九八八年一月に蒋経国総統が急逝し、憲法の定めにしたがって副総統だった私が昇格したにすぎず、私のことを「ロボット総統」と見る向きも多かったのです。

 さもありなん、国民党内で派閥もなければ後ろ盾となる元老もいない、軍も情報機関も掌握していないのだからそう見られたのも当然でした。

 総統就任後、私は時をおかずに?経国路線を継承することを表明しました。蒋経国総統の急逝による党内の動揺を抑え、台湾社会を安定させることが何よりも先決すべき問題だったのです。

 台湾の民主化を推し進めるためには、名実ともに国民大会代表による支持を受け、選挙によって選ばれた総統にならなければなりません。そこで私は、代理総統の任期が切れる一九九〇年春を視野に、李元簇副総統候補とともに支持を取り付けるべく、一瞬も気の抜けない選挙戦を戦っていました。

 二月、党の臨時中央執行委員全体会議でわれわれが正副総統候補として指名されたものの、翌月の国民大会で正式決定される前にひっくり返そうとする非主流派勢力によるクーデター工作が白熱しており、日々予断を許さない状態にありました。

 そして折も折、学生たちによる座り込みが始まったのは、国民大会での総統候補指名を翌日に控えた三月十六日のことだったのです。
 というのも、それに前後する三月十三日、国民大会は台北市郊外にある陽明山中腹の中山楼で代表大会を開催し、「動員戡乱時期臨時条款修正案(延長案)」を満場一致で可決したのです。一九四八年の発布以来、時限立法的性格を有する臨時条款の期限延長を毎年自分たちの手で行うという悪例がまかり通っていたのです。

 しかし、民主化への胎動が聞こえ始めたこの年、高待遇の特権を手放そうとしない国民大会代表に抗議する学生たちが中正紀念堂で座り込みを始め、人民の怒りを表明したのも当然の帰結でした。

 学生たちの声は燎原の火のごとく広がり、民主化を望む声は時間が経つごとに大きくなっていきました。そこで私は学生たちが座り込みを始めた翌日には、テレビを通じて、人民に対し冷静に理性を持って行動するようにと呼びかけると同時に、政府側も民主改革を加速させることを再度表明して、その要求に応えようとしたのです。

 日増しに大きくなる人民の声に押されるように、私は十九日に「一カ月以内に国是会議を開催す」と表明しました。翌二十日には立法院で与野党が協議し、国是会議開催に加え、「動員戡乱時期の終結」や「民主化のタイムテーブルの提示」を総統に提言することが決まったのです。

 実際、学生たちの要求が、私自身が推し進めたいことと完全に一致していたのは間違いありません。二十一日、学生運動によって政局はやや混乱していたものの、国民大会の支持を取り付け、選挙を勝ち抜いて総統の座に就いた私は、早速学生代表を総統府へ呼び、彼らの声に直に耳を傾けたのでした。

 実を言うと、学生たちが座り込みをしている中正紀念堂へ私のほうから赴きたかったのですが国家安全局から「万全の警備ができず、不測の事態が起きかねない」として強く反対されたのです。そのため、夜中に車両で中正紀念堂の周囲を一周して学生たちの様子を見て回ったこともありました。

 私が会った学生代表は、記録によると五十三人となっています。彼らも混乱していたのでしょうか。日中に秘書長を派遣して「代表者は総統府へ来るように」と伝えてあったのですが、彼らが来たのは夜八時を過ぎていたと記憶しています。

 私は「皆さんの要求はよくわかりました。だから中正紀念堂に集まった学生たちを早く学校に戻らせ、授業が受けられるようにしなさい。外は寒いから早く家に帰って食事をしなさい」と彼らを諭したことを覚えています。

 彼らは中正紀念堂へ戻り、協議のすえ翌日早朝には撤退することを発表しました。それを聞いて私も心底ホッとしました。私の心のなかに民主化を推し進める意欲があったことはもちろんですが、寒さに震えながら座り込みを続ける学生たちの姿を見ていられず、一日も早くキャンパスや家族のもとへ帰してやりたいと思っていたからです。

 今年三月十八日、学生による立法院占拠に端を発した「太陽花(ひまわり)学生運動」ですが、二週間あまり経った現在でも馬英九総統は学生たちの声に耳を傾けようとせず、「サービス貿易協定がこのまま発効しなければ台湾の信用問題にかかわる。学生たちの立法院占拠というやり方は違法」などと、本質的な問題から目をそらし、「協定発効ありき」の姿勢を崩していません。

 ここで私は強く言いたい。

 立法院を占拠した学生たちには、学生たちなりの意見があります。彼らだって国のためを思って行動しているのです。あの場にいる彼らだって国のためを思って行動しているのです。あの場にいる学生たちのなかに個人の利益のために座り込んでいる者など一人としていません。彼らに何の罪があるというのでしょうか。馬総統は一刻も早く彼らの話を聞き、少しでも早く学校や家に帰す努力をするべきです。

 本文でも述べていますが、指導者たる者、常に頭のなかで「国家」と「国民」を意識していなければなりません。指導者は人民の声にできるかぎり耳を傾け、その苦しみを理解すると同時に、誠意を持って彼らの要求に具体的に応え、解決の道を探るべきだと私は信じています。馬総統は「党」や「中国」のことしか考えていないようにも思え、同じ総統の立場にあった者として残念でならないのです。

 とはいえ、この十数日の間、学生たちが台湾に対して見せた情熱や理想の追求は明るい希望をもたらしてくれました。そして三月三十日には、総統府前でサービス貿易協定の密室協議に反対するデモを行い、台湾の歴史上例をみない五十万人(主催者発表)という人々が総統府前広場を埋めたのです。

 実はこの日、私も参加したいと思っていたのですが、二人の娘と孫娘に「まだ風邪が完全に治ってないでしょう。そのかわり私たちが行くから」と諭される始末でした。

 帰宅した孫娘が興奮気味に「本当にたくさんの人が集まっていて身動きもとれなかった。あんなにもたくさんの台湾人が立ち上がったのよ」と報告してくれるのを聞きながら、私は学生たちに対して感謝の念さえ持ち始めていました。なぜなら、民主主義というものは、単に投票の権利を手にすることではなく、人民自ら政治へ参加すると同時に、政府を監督することによって初めて実現されるということを広く知らしめてくれたからです。

 ともあれ、この学生運動はすでに台湾の民主主義の将来と発展に多大なる影響を与えたものと私は確信しています。人民こそが国家の主人であり、台湾の未来は台湾人によって決せられるものだということを学生や人民たちが実践躬行で示したのです。指導者たる馬総統は問題を正視し、台湾の発展のため積極的に解決する努力をするべきです。

 この学生運動がどのような結末を迎えるか心配は続きますが、その一方で台湾の民主主義の発展を全世界に披露する契機ともなったことは間違いありません。そのことを一人の台湾人として何よりうれしく、そして誇りに思うのです。

「日本人の文革認識」(福岡愛子著)を読む

2014年02月26日 20時24分56秒 | 
 「日本人の文革認識~歴史的転換をめぐる”翻身”」(福岡愛子著 新曜社 2014年1月)を読む。



 本書は著者が東京大学に提出した博士論文に基づく。その要旨については、「論文の内容の要旨」に詳しく掲載されている。
 本書の構成は、次のとおり。

序章 歴史の転換点に伴う問題的状況にどう迫るか
Ⅰ 「翻身」をキーワードとする分析枠組み
Ⅱ 戦前世代の青年期における根源的・個人的変化
Ⅲ 日中復交をめざす政治としての文革認識
Ⅳ メディアにおける政治としての文革認識
Ⅴ 革命理論・思想としての文革認識
Ⅵ 運動としての文革認識
Ⅶ 「六〇年代」の学生運動と文革認識
終章 文革認識の語り方と「翻身」の意味


 団塊の世代の一年下である著者は、1970年前後の学生運動に多大な影響を受けた世代である。当時の学生に影響を与えた中国の「文革」(プロレタリア文化大革命)を通して、同時代に関わった関係者への聞き取りを交えて、本論を展開する。
 
 本書のタイトルにある「翻身」は、1972年、日本語訳が出版されたウィリアム・ヒントン著「翻身」(ファンシェン)に由来する。著者ヒントンが中国の農村に入り込み、文革が「人間を生まれ変わらせた」現実の記録として、全共闘世代にもてはやされた。

 だが、当時の「文革中国」が自由な取材を許可していたはずはない。農民への聞き取りと称するものも、実は当局が選定した農民を当局が派遣した中国人幹部の英語通訳者を通してまとめたものだった。本多勝一「中国の旅」(朝日新聞社)も全く同じパターンの「ルポルタージュ」だった。エドガー・スノーアグネス・スメドレーの流れを汲むこのような「中国感動物語」には、中国のプラス・イメージを宣伝しようとする中共(=中国共産党)当局の意図が働いているわけで、今やそのまま鵜呑みにする人はいない。何故、著者がこの「翻身」という手垢にまみれた言葉を論文執筆のキーワードとして使ったのか、私には理解できない。

 「中華帝国」の再興を目指し、その不安定な内政を「反日」ではぐらかそうとする現在の中国を見れば、文革期の中国など「可愛げな」存在にさえ思えるだろう。そう、時は移ろい、「文革」は遠い彼方の、忌まわしい昔話となってしまった。

 
 本書の中で私が興味を持ったのは、新島淳良のケースだ。新島は、旧制一高中退という学歴ながら、早稲田大学政経学部教授(中国語)を勤め、「毛沢東思想」を高く評価する人物として有名だった。この本の中で本人が述懐しているのは、「文革」「毛沢東思想」を宣伝するためには、あえて「文革」の負の部分(武力抗争、紅衛兵の残虐行為など)には目をつむったという事実である。「中国」専門家を自称しながら、実は、当時の中国共産党の「宣伝係」だったと、ここで「担白」(=告白)しているのだ。
 「文革」が収束に向かう過程で、新島は中国の非公式資料を使って「毛沢東最高指示」を出版したが、このことが中国当局の怒りを買い、「日中友好運動」から破門される。


 『…「毛沢東最高指示」出版後については、「親中国派」からの猛烈な非難を受けたこと、その理由は中国が禁じている資料を公表し、また「台湾から出ているいかがわしい資料を使っている」ためだったっことが回想されている。中国ユートピアをともにする「戦友」ともいうべき「A教授」からも、かつて全世界の知識人とプロレタリアートが革命直後のソ連を擁護したように中国を擁護すべき時だ、と言われ、自己批判するよう忠告された。それらの反応は予想してはいたが、しかし日中関連の運動からことごとく排除されて、「親中国」陣営内で四面楚歌状態になると、新島は中国について書く気が全くなくなったという。』(本書p.186-7)


 ここに書かれているA教授とは、新島の同僚だった早大政経学部教授・安藤彦太郎のこと。安藤は、新島とは異なり、中国当局との太いパイプを誇示しつつ、定年まで早大教授の座に留まった。この件で新島は、早大教授を辞し、「ヤマギシ」に入って、コミューン幻想をさらに追い求める。「ヤマギシ会にも小毛沢東がたくさんいた」という迷言を残して、一旦はヤマギシ会を去る新島だが、その後、同会に舞い戻って、不遇な最期を遂げた。
 同じ「反日共」「親中国」の左翼学者でありながら、この二人の身の処し方は、あまりに対照的だったが、自らを「前衛」と自惚れ、狭量な党派意識、独善的世界観で凝り固まった「日中友好屋」という点では「同じ穴のムジナ」だったと言えよう。

 本書には、このように「文革」に取り憑かれた人々が、ケーススタディの対象として何人も登場する。例えば、朝日新聞北京特派員であった秋岡家栄西園寺公一の長男である西園寺一晃などだ。
 あの時代を知らない若い世代が本書を読んだ場合、日本中の多くが「日中友好」「文革」に熱中していたと勘違いしかねないが、実際はそんなことはなかった。真のエリート(東大法学部を頂点とする)は「中国」にさして関心を示さず、将来性の確かな本道を選んでいた。一方、「中国」に憑かれた人々は、現実の社会に対する不安や不満を、中国を「ユートピア」に見立てることで解消しようとしていたと言えるのだろう。それは、大学を卒業しても、少数のエリート校を除いては、さしたる社会的な地位を得られなくなったという現実とまさにリンクしていた。

 「文革」に憑かれた人々のみに着目する著者が全く言及していないことだが、「中国研究」という小世界でも、「文革」や中国の現実を冷徹に分析した研究者がいた。石川忠雄(故人・元慶應義塾長 中国政治)や中嶋嶺雄(故人 前国際教養大学学長 国際関係論)、柴田穂(故人 産経新聞北京特派員)などは、新島のような「中国に憑かれた人々」とは正反対の立場にいた。そのどちらが正しかったかは、今や明らかである。

 
 「翻身」をキーワードに日本人のごく一部に過ぎない親中国派の「分析」をおこなった本書は、個人的にはデジャブ感いっぱいの「昔話」に過ぎなかったのだが、若い世代はまた異なった「物語」をそこに読み取るのかも知れない。

「蒋介石の外交戦略と日中戦争」(家近亮子著)

2014年02月10日 11時33分50秒 | 
 「蒋介石の外交戦略と日中戦争」(家近亮子著 岩波書店 2012年)を読む。
 
 中国研究の世界では、戦後から改革開放期に至るまでもてはやされた毛沢東・中国共産党史の研究が衰退し、今や蒋介石の国民政府期(1931~1949)に関心対象が移っているという。この著作もその成果のひとつで、これまでの学界の大勢を占めてきた「中共史観」をうち破ろうと試みている。
 戦後の中国研究は、戦前の日本軍国主義を批判し、それに抵抗・勝利した「新中国」にシンパシーを寄せるという研究が主流だった。中国(中華人民共和国)政府の公式史料を使わずに、中華民国(台湾)で発行されていた専門誌「中共研究」を引用したというだけで、「反中国」だと非難され、学界を逐われた研究者も出現した。「親中国」か否か、すなわち毛沢東の中華人民共和国、蒋介石の中華民国のどちらを支持するのかが、「踏み絵」になったような時代が続いた。そんななかでも、故・石川忠雄氏(慶應塾長・中国政治史)門下のグループは、時流に流されず、冷徹な中国研究を進めた。そのひとりがこの著者である家近亮子氏だ。



 1938年、日本は第一次近衛文麿声明で蒋介石の国民政府を「対手とせず」とした。その後、日中戦争は泥沼の深みに陥っていく。このとき、蒋介石が外交、内政問題をどう見ていたか、本書には興味深い史実が数々示されている。特に際だつのが、蒋介石の歴史眼の確かさ、構想力の大きさだ。蒋介石は欧州大戦の動向を見極めるとともに、日本の対米、対ソ関係を注視し、「以夷制夷」を目指した。民衆にどんなに犠牲者が出たとしても、あえてそれには目をつむり、「中華民族」の最終的な勝利を目指した。これは、いきあたりばったりで「大東亜共栄圏」を唱えた日本政府とは大違いだった。今日、中国が国連で常任理事国の椅子に座り、国連公用語の一つが中国語であり、中国政府が尖閣諸島の領有権を主張できるのも、蒋介石の言う「惨勝」の果てに中国が手にした果実に他ならない。

 蒋介石も毛沢東も「日本軍閥」と「日本人民」を峻別した。二人は最終的に中国が勝利することを確信していて、終戦後、「日本軍閥」を解体したとしても、「日本人民」の恨みは買わないようにと巧妙な戦略を巡らした。
 日本敗北後、権力の空白が生じた中国大陸では、国民党が中国を統一するかと思われたが、最終的に中共(中国共産党)が国民党を台湾に追い出して、大陸を統一した。「国民党の腐敗がひどく、国民に見放されたため」というのが従来の一般的な説明だったが、事実はソ連の強力な軍事援助によって、中共が国民党軍をうち破ったためだということが、本書で明らかにされている。
 
 蒋介石の妻である宋美齢、その甥の宋子文が、中国の立場を米国や欧州諸国にPRしたことも、欧米諸国に中国への同情を深めさせ、日本を「悪者」として描くことに大きな成果を挙げた。日本はこのようなロビー活動では、中国と比して圧倒的に劣勢だった。それは、現在までずっと続いている。

 本書によって、従来語られることの少なかった蒋介石の外交戦略、歴史観がよく伝わってくる。習近平の中共政権は「中華帝國」の再興を広言するが、これこそ蒋介石が思い描いてきた「中華」と同一なのだと思い至る。

「身体を躾る政治~中国国民党の新生活運動」

2014年02月02日 10時57分56秒 | 
 「身体を躾る政治~中国国民党の新生活運動」(深町英夫著 岩波書店 2013年)を読む。
 本書については、著者自身の簡潔な紹介がある。詳しくはそれを読んでいただくとして、若干感じたことを記そうと思う。



 1934年から1949年まで、中国国民党の国民政府支配下にある地域において、「新生活運動」なる社会運動が展開された。具体的には、つぎのような95ヵ条からなる「新生活須知」によって示された。

(「新生活須知」 本書p.5より引用))

 この「新生活須知」には、高邁なスローガンが掲げられている訳ではなく、むしろ日常生活の基本がどうあるべきか示されている。一読して分かるように、早寝早起き、身だしなみ、礼儀作法、社会生活の基本などが具体的に示されている。蒋介石がこの運動を提唱したのは、日本留学時代の実体験に基づくとされる。すなわち、日本がいち早く近代化に成功したのは、「新生活須知」に掲げられているような社会規範を身につけた「国民」を日本が創出できたからだと理解したからに他ならない。そこで、「賢人支配の善政主義」(横山宏章)に基づき、無知で遅れた大衆にこのような規範を示したのだった。

 「…創造されるべき近代的国民の原型たることに、支配の正統性原理を求めていた国民党は、さながら自身に似せて人間を創造した神のごとく、国民の創出という責務を抛擲することはできなかった。なかんずく蒋介石は、中国の独立と統一脅かしつつあった日本に対抗するため、まさにその日本で”身体の躾”を受けた自身を模範として、中国人民を勤勉かつ健康な近代的国民に改造することを企図する。…中国では国民皆兵・国民教育の制度が非常に遅れていたため、上からの大衆運動という方法で、”身体の躾”が試みられなばならず、それゆえ新生活運動が発動・推進されることになったのである。」(本書p.324)

 中国に旅行すると実感するのだが、「新生活須知」に書かれている「駅で切符を買うときは一人ずつ順番に進むこと」「乗物に乗り降りするときは、女性・子供・老人・弱者を助けること」などは、現在の中国大陸でも全く守られていない。公衆道徳の欠如という観点から見れば、それは中共がもたらした暴政(大躍進、文化大革命など)に大きな責任があるのだろう。

 1968年、中国大陸に文革の嵐が吹き荒れる中、中華民国=台湾では、「国民生活須知」99項目が公布・施行されたという。それは、半世紀前の「新生活須知」と酷似したものだったという。それだから、というつもりは全くないが、そう言えば、台湾の公衆道徳は見事なものだと思う。

 最近の中国研究の動向として、国民政府時代に関心が高まっているという。中共(=中国共産党)研究への幻滅、あるいは左翼史観の呪縛から解き放されたからなのだろうか。本書も、その流れを汲む研究として、極めて興味深く読んだ。

矢吹晋著 「尖閣問題の核心~日中関係はどうなる」 

2013年12月09日 11時00分46秒 | 
 HDDレコーダに溜まったTV番組を整理しているうちに、「西部邁ゼミナール」に矢吹晋・横浜市立大学名誉教授が出演しているのを見つけ、改めて見直した。その映像は、下記に添付したYouTube映像のとおり。
 
 矢吹晋氏と言えば、中国分析専門家(チャイナウォッチャー)の中で、ぶれることもなく、現代中国を見続けた数少ないひとりである。私個人としては、石川忠雄、中嶋嶺雄、竹内実などと同じくらい、信頼に値する学者だと思っている。

 「尖閣問題の核心―日中関係はどうなる」(花伝社 2013年1月)は、その矢吹氏の最新刊であるが、西部邁氏によれば、この本について、書評さえ書かれない状況だという。

 それは、この本が「尖閣紛争をどう解決するか。「棚上げ合意」は存在しなかったか?日中相互不信の原点を探る。日米安保条約は尖閣諸島を守る保証となりうるか?紛争の火種となった外務省の記録抹消・改ざんを糺す>」(アマゾンの紹介文)という内容なので、対中不信が盛り上がった現在、「中国側の肩を持つ」かのような本には人気が出ないというわけだ。

 アマゾンには、下記のようなブックレビューが掲載されている。異論もあるが、単純な思いこみを排するという視点に共感できる。

 TV番組の最後に矢吹氏は「尖閣は結局、日中の共同管理という形で決着せざるをえない」と語っている。同様の話を天児慧・早大教授がNHKラジオで語っていたが、全く信用ならない話という印象だった。それに対して矢吹氏の発言には、誠実さと信頼感があり、傾聴に値すると感じた。

【アマゾン・ブックレビュー】より引用
世界は複雑にできてる 2013/7/4
By ryu
 Amazon.co.jpで購入済み先日、ご縁があって、シンガポール人のビジネスマン(日本語はネイティブにしか思えないほど堪能です)と話をする機会があった。
 中国ではいま、尖閣諸島は中国のものであるという報道や発言が毎日メディアに登場しているという。彼曰く、あれじゃあ、中国国民は洗脳されるよなあ、といった話をしてくれた。
へえ、と私は思ったのであるが、実は、気になることがある。
 日本では、少なくともネット上のニュースサイトでは、「尖閣諸島は日本のものである」という言説を目にしないときはない。逆に中国人がこれをみたら、日本人は洗脳されていると思わないだろうか? 尖閣諸島が日本のものであるという歴史的根拠が地図入りで紹介され、なんとなく、尖閣はそりゃ日本のものだろうと思ってしまう。
 対して、私たちはどのくらい中国の言い分を冷静に考えているのだろう。彼らの言い分にもしかしたら、幾分かの正当性があるかもしれないという姿勢でこのことを捉えたことがあっただろうか。
 今、ネットのニュースサイトで、中国が滅びる、衰退する、バブルがはじける、海外からの投資がどんどん逃げるという話を見ないことはない。同様に、韓国のサムスンや現代自動車は円安、ウォン高で収益が激減していると報道される。
 韓国は日本と違って貿易に過度に依存する国だから、一企業の業績が国の存亡をゆるがすという。韓国の原子力発電所の部品の品質にウソがあり、原発が止まっている。夏は大規模な停電があるかもしれない。みな本当のことなのだろう。
 中国にしろ、韓国にしろ、それの衰退のニュースはとても心地よく感じる。なんだ、彼らが破竹の勢いだったのは、彼らが優秀なのではなく、安い労働力や、ウォン安のおかげに過ぎなかったのだ。中国は領土拡張の野心むき出しの覇権的な国家であり、危険だ。だから私たちは東南アジアの諸国やインド、ロシアと結んで自衛のため軍事的な協力関係を結ばなくてはならない。中国のような傍若無人の国の言うことなど何一つ信用できない。まして尖閣諸島の中国の主張などお話にならない。すべて、聞いていて胸のすく話ばかり。聞いていて愉快になることばかり。(愉快になるのはお前だけだろう、と言う人はあまり信用できない…)
・・・・・
 危険を感じないだろうか?私たちが聞かされて、「気持ちのいいこと」のみが流布する。
気持ち悪くないだろうか?「気持ちのいいこと」に反する言葉は抹殺される。

 現に、野中広務元官房長官や鳩山由紀夫元首相は、日中間に尖閣諸島のついて棚上げの暗黙の了解があった旨の発言をしたが「売国奴」呼ばわれされて撃沈である。 
 彼らの言葉が実際に馬鹿げたことであったとしても、私はこの反応のエキセントリックさが怖い。
 かつて、第二次世界大戦中、実際の戦況は正確に報道されず、日本が戦争に突き進んでいった背景に、新聞、ラジオ等のマスコミの偏向報道があったという。マスコミは政府からの圧力でそういう報道をしていたわけではないのだ。結局、国民の聞きたくない内容は報道されないのである。今、同じ匂いがしないだろうか?
 
野中広務は戦争の体験者として、「田中角栄と周恩来には尖閣の棚上げについて暗黙の了解があった」と発言したが、日本と中国がこのまま互いの主張をぶつけていけば、軍事衝突もあると考えているのではないか。いま、この日本の状況で野中氏の発言がどういう反応を巻き起こすか予想がつかないはずかなかろうに(鳩山さんは予測ついてないかも…)どうしても言わざるを得ないことではなかったのか。簡単に無視していいのだろうか?

 「尖閣問題の核心」矢吹晋 花伝社 という本がある。尖閣の棚上げに関して日本の外務省文書に改ざんあると主張する本だ。日本が棚上げを否定することになって、中国はむしろ、その領有をおおっぴらに主張できるようになったという(詳しくは読んでください)ミュージシャンや登山家がそろって売国奴の言葉を発しているが、気味が悪い。世界は複雑にできているのだ。
 中国が全くの悪で、日本の主張は非の打ち所が無いという単純さを私は憎む。領土問題について、互いの国がガチンコで主張し、どちらかの主張が全面的に認められて平和的に解決するなどということがはたして起こるだろうか?
 それとも戦争しますか?(しましょうという言葉がたくさん聞こえる気がする)日本の外務省が、暗黙の了解など百も承知、でもそれは秘密にしておいて中国の領土的野心が世界中から非難されているうちに、ごり押しして尖閣は日本のものだと世界に認めさせてしまおうと悪賢く考えているならむしろあっぱれである。
でも、今さら外務文書改ざんしてました、と言い出せないで取り繕うとしているとしたら、原発と同じなのかもしれないとも思う。
ネットのニュースサイトでも、尖閣に関して周恩来と田中角栄とのあいだにやりとりがあったと認め始めている。ただ、これを棚上げの合意とは認められないとの論調だ。もう既に雲行きがあやしい。
 尖閣に関して二人にやりとりがあったと認めたなら、それをどう解釈するかに議論の余地は発生するではないか。日本の文書には何も書かれていない。中国の文書には記述がある。二人のあいだに尖閣についてなにか話があったと認めるだけで、日本は既に不利だ。中国が行儀の悪い国であることは確かだろう。とはいえ、だから悪ガキは叩いて懲らしめないとわからないのだから、戦争だぁ、になるのは嫌だ。
 私はせめて世界の複雑さに耐える大人でありたいと思っている。






尖閣問題の核心―日中関係はどうなる
矢吹 晋
花伝社

「漫画 台北高校物語」(陳中寧 著)

2013年11月01日 22時05分25秒 | 
 さきほど、台湾の友人から「漫画 台北高校物語」(陳中寧 著 台北・前衛出版社 2013年6月)※が届いた。日本統治時代の旧制・台北高校の歴史と学生たちの青春模様を描いた作品。 「産経」の記事で、この本を知り、友人にお願いして入手した。



 もう20年以上も前になるだろうが、旧制高校卒業生の「日本寮歌祭」が毎年開かれていて、中高年のオッサンが蛮声を張り上げて、青春を懐かしんでいた。だが今はもう、旧制高校そのものを知る人さえ数少なくなってしまった。

 次の写真をみてほしい。台北高校の制服・校歌まで紹介されている。



 「安堂ロイド」という番組では、主演のキムタクが「東京帝國大学物理学教授」を演じていると聞き、驚きあきれ果てた。脚本家がいかに歴史を知らないか、あるいは無頓着なのか、腹立たしく思った。
 
 日本と台湾の鮮やかな対比、これはどう考えるべきなのか?

「黄禍論と日本人」(飯倉章著)を読む

2013年04月01日 01時27分01秒 | 
 「黄禍論と日本人~欧米は何を嘲笑し、恐れたのか~」(飯倉章著 中公新書 2013年3月)をタイトルに惹かれて購入、一気に読了した。

 尖閣事件が起きたとき、野田・前首相は「もう止めましょうよ。我々は良識のある国民だから」と言った。もし、戦前日本の指導者がこの野田の間が抜けた妄言を聴いたら「日本人もここまで落ちたのか…」と愕然としたに違いない。「地球市民」「共生」など軽々しく言う前に、野田サンもこの本を読むべきではなかったか。

 本書の特徴は、欧米の新聞雑誌に著された風刺画を通して、欧米人の見る近代日本・日本人像を描き出す。もちろん、それらは白人の優越感に基づく人種偏見に満ち満ちていた。明治時代の日本人は、白人の人種差別をうち破るためには、自らが彼らに伍する力をつけなければならないと痛感した。風刺画の代表的なものは、次のような画だ。



 これは「ヨーロッパの諸国民よ、汝らのもっとも神聖な宝を守れ!」と題する画で、プロシャのヴィルヘルム二世がヨーロッパの王室、仏大統領、米国大統領などに贈ったという。天使に率いられるのは欧州の各国、すなわち白人のキリスト教徒。右端に鎮座するのは、仏像と龍。これがアジアを象徴していて、龍は中国、仏像は日本を示唆していると言う。

 著者は言う。
 「日本は、アジアにおける非白人の国家として最初に近代化を成し遂げ、それゆえに脅威とみなされ、黄禍というレッテルを貼られもした。それでも明治日本は、西洋列強と協調する道を選び、黄禍論を引き起こさないように慎重に行動し、それに反論もした。また、時には近代化に伴う平等を積極的に主張し、白人列強による人種の壁をうち破ろうとした。人種差別はその後、日本によってではなく、日本の敵側の国々によって規範化された。歴史はこのような皮肉な結果をしばしば生む。」(p.246)

 東日本大震災と福島原発事故以降、マスメディアは「世界が驚く日本人のすごさ」を盛んに吹聴している。また、未曾有の経験をしたことで、何か日本人が「えらく」なったかのような幻想が蔓延しつつある。原発事故の教訓を世界に生かせるとかいう物言いがそれだ。驚くべき慢心と自画自賛。これを佐藤健志氏(評論家)は「単に自然災害に遭っただけ」と一刀両断にした。

 もしこれを明治人が見たら、現代日本人の幼稚さに驚き、憂国の念を深くするに違いない。「黄禍論」はいつでも形を変えて吹き出してくる。あまりに警戒心が足らない…と。



黄禍論と日本人 - 欧米は何を嘲笑し、恐れたのか (中公新書)
飯倉 章
中央公論新社

邱永漢氏のご冥福を祈る

2012年05月18日 12時52分29秒 | 

  直木賞作家で経済評論家としても活躍した邱永漢(きゅう・えいかん)氏の訃報が伝えられた。享年八十八。心からご冥福を祈りたい。

 私は、「香港」「濁水渓」などの小説で、邱永漢氏の存在を知った。大昔のことなので、そのストーリーの面白さは味わったものの、小説の歴史的背景については、あまりよく理解できなかった。
 
 いまになって私が知るのは、邱永漢氏の経歴は、李登輝氏と重なっているという事実だ。台湾の日本語世代に属し、旧制台北高校を経て、それぞれ東京帝国大学、京都帝国大学に学んだ。日本が敗戦し、それまで「日本」であった台湾の帰属が未確定ななか、1947年、台湾に上陸した中国国民党軍は、三万人にもおよぶという台湾人を虐殺する「二二八事件」を引き起こした。この事件は、台湾人としての両氏に言い表せぬほどの憤りと恐怖をもたらしたはずだ。

 邱永漢氏は、中国国民党の外来政権、蒋介石の独裁政治に反対して、台湾独立運動の一員となった。一方、李登輝氏は、テクノクラートとして国民党政権内に留まり、最後には総統の座を手中にした。二人の生き方は対照的に見えるけれども、台湾は台湾人のものであるという考えは共通している。
 
 台湾の日本語世代は、戦後、日本政府が何度も台湾を裏切っても、ずっと日本・日本人を信用してくれた人達だ。その人達が次々と去っていくのを見るのは、世の定めとはいえ辛く悲しいことだ。 
  


(在りし日の邱永漢氏)

 

直木賞作家 邱永漢さんが死去 「お金もうけの神様」として人気に

スポニチアネックス 5月18日(金)11時5分配信

 直木賞作家で経済評論でも知られた邱永漢(きゅう・えいかん、本名丘永漢)さんが16日午後7時42分、心不全のため死去した。88歳。台湾生まれ。

 葬儀・告別式は近親者のみで行い、後日「お別れの会」を開く。喪主は妻亜蘭(あらん)さん。

 日本統治下の台湾・台南で生まれ、旧制台北高校から東大に進学。卒業後、台湾に戻ったが、戦後の台湾独立運動に関係したとして国民党政府の弾圧を受けて香港に逃れた後、再び日本へ。1956年、小説「香港」で直木賞を受賞した。

 その後は日中の文化比較や食文化などをテーマに多くの著作を発表。高度経済成長期やバブル経済期には、株や不動産への積極的な投資を背景にした経済評論でも知られ「お金もうけの神様」として人気があった。

 晩年も、中国でコーヒー園を経営するなど多角的な事業を展開するとともに、旺盛な執筆活動を続けた。著書は「食は広州に在り」「中国人と日本人」「お金持ちになれる人」など多数。

 80年に日本国籍を取得した。

 


「地震雑感 津浪と人間」(寺田寅彦著)を読む

2012年02月22日 15時58分13秒 | 

 寺田寅彦著「地震雑感 津浪と人間」(中公文庫 2011年7月)を読む。

 寺田寅彦※(1878-1935)は、物理学者にして随筆家。東京帝国大学で物理学を講ずる傍ら、数々の随筆(エッセイ)を執筆した。

※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%85%E5%BD%A6

 ある程度の年配の人なら、寺田の随筆を「国語」「現代国語」の教科書で読んだことがあるのではないか。
 寺田は、東京帝大地震研究所長も務めた地球物理学者。1923年9月1日、東京を襲った関東大震災※について、地震学者として調査を行うとともに、大震災前後の社会状況についても、詳しく記録を残している。
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD

 「M7クラスの東京直下地震が4年以内に起こる確率は70%」という衝撃的な発表が話題になっているが、寺田の随筆を読むと、関東大震災前後の状況も、今と似通ったものだと分かる。次の一文は、今日書かれたとしても何の違和感のない文章である。

「大正十二年の大震災は帝都と関東地方に限られていた。今度のは箱根から伊豆にかけての一帯の地に限られている。いつでもこの程度で済むかというとそうは限らないようである。安政元年十一月四日五日六日にわたる地震には東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、四海諸道ことごとく震動し、災害地帯はあるいは続きあるいは断えてはまた続いてこれらの諸道に分布し、到る処の沿岸には恐ろしい津波が押し寄せ、震水火による死者三千数百、家屋の損失数万をもって数えられた。これとよく似たのが宝永四年にもあった。こういう大規模の地震に比べると先年の関東大震災などはむしろ局部的なものとも云える。今後いつかまたこの大規模地震が来たとする。そうして東京、横浜、沼津、静岡、浜松、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、広島から福岡辺まで一度に襲われたら、一帯我が日本の国はどういいうことになるであろう。宝永安政の昔ならば各地の被害は各地それぞれの被害であったが次の場合はそうは行かないことは明らかである。むかしの日本は珊瑚かポリポ水母(クラゲ)のような群生体で、半分死んでも半分は生きていられた。今の日本は有機体の個体である。三分の一が死んでも全体が死ぬであろう」
(同書p.53-54   「地震国防」 昭和六年一月「中央公論」に発表)

 小松左京のSF小説「日本沈没」が決して絵空事ではないと思えてくる。この暗い予感は、特に若い人たちに重苦しくのしかかっていくのだろうか。

 

地震雑感/津浪と人間 - 寺田寅彦随筆選集 (中公文庫)

寺田 寅彦

中央公論新社                             

                                                               

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「気違い部落周游紀行」の原風景~八王子市上恩方町上案下

2012年02月07日 02時01分56秒 | 

 親族の遺品を整理していたら、昔の写真がたくさん出てきた。この写真は、東京都八王子市上恩方町上案下(かみあんげ)の昭和の初めの光景。当時は、東京都南多摩郡恩方村上案下という地名だった。


 昭和初期、恩方村上案下(現・八王子市上恩方町上案下)の風景
 
 どこにでもある典型的な山村の風景だが、第二次大戦の戦中・戦後期、この村に移り住んだ文筆家がいた。「きだみのる」がその人だが、今やその名前を知る人も少ない。
 「きだみのる」をWikipediaで検索すると、次のように書かれている。

「若年期は転居、家出、旅を多くする。アテネ・フランセ創設者のジョセフ・コットに身近く薫陶を受け、後には仏語教師として自らもアテネ・フランセの教壇に立つなどした。開成中学慶應義塾大学中退後にパリ留学。ソルボンヌパリ大学)でマルセル・モースに師事し社会学人類学を学ぶ。帰国後は戦中戦後の長期に亘り、東京恩方村に、こもるようにして暮らすことになった。1948(昭和23)年気違い周游紀行』で第2回毎日出版文化賞を受賞。」

 きだみのるの代表作「気違い周游紀行」は、この恩方村(現・八王子市恩方)の「ムラ社会」における人間模様を描いた作品。今や「放送禁止用語」となった「気違い」と「」が重なった書名であるから、勘違いして、眉をひそめる人もいるかも知れない。だが、もちろん、「気違い」が登場するわけでも、「問題」を描いたものでもない。日本の原風景とも言える「ムラ社会」を、近代主義的な立場から、ユーモアも込めて描き出した作品だ。
 
 この恩方地区は、童謡「夕焼け小焼け」の里としても有名。作詞者の中村雨紅(1897-1972)※が生まれ育った村でもあるからだ。

※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%9B%A8%E7%B4%85

 今やこの写真の面影は、残っていない。写真ではきれいに手入れされているように見える山や林が、現在ではかなり伐採されて放置されているのが残念だ。

  なお、きだみのる著「気違い周游紀行」は、現在も入手可能。それだけ、普遍性のある作品なのだろう。興味のある方は、下記のamazonをクリック!
 

気違い周游紀行 (冨山房百科文庫 31) 

                             

クリエーター情報なし

冨山房                        

 


「革新幻想の戦後史」(竹内洋 著)雑感

2012年01月19日 17時52分55秒 | 

 昨日、東大の総長諮問会議が、5年後から「秋入学」を提案(中間報告)して、早速、TVなどで大きく採り上げられている。「大学紛争」から40年以上経った今でも、「東大」の座は揺るぐどころか、ますます強固になっているように見える。
 また、由紀さおりのアルバム「1969」が米国でヒットしたとかで、1969年が注目されている。この年は、全国の大学紛争が頂点に達し、東京大学、東京教育大学(現・筑波大学)の入試が中止となり、東京外国語大学では、暴力学生の介入を排除するという名目で、何と各教科30分という変則入試が強行された。
 
 先日、「大学センター入試」にトラブルがあったとかで、受験生間での「不公平」が問題になっているが、この程度で不公平云々というのなら、1969年には途方もない不公平、不正義がまかり通ったことになる。

 さて、肝心の「革新幻想の戦後史」(中央公論社 2011年)について。著者・竹内洋は、1942年生まれの教育学者で、元京都大学教授。自らの体験に基づき、戦後日本の学界、論壇を回顧したのが、本書だ。
  
 第三章「進歩的教育学者たち」には、次のような興味深い記述がある。

教育学部は進歩的学者が多かった。ここでいう進歩的学者とは左翼~共産党あるいは社会党左派~の同伴者の謂(いい)である。二流の学問と言われる教育学は、時流にもうごかされやすい。教育学部出身のわたしはある教授から同情めいたことを言われたことがある。」

 ある教授とは衛藤瀋吉(東大教授、亜細亜大学学長 1923~2007)のことだった。2002年、松本で開かれたパネル・ディスカッションに出席した著者は、同じパネラーとして出席していた衛藤に次のように言われたという。

「教育学部教授と知って警戒したのだが、それにしても君のような人がよく教育学部で生き残れたね。」(
p129-130

 第四章「
福田恆存の論文と戯曲の波紋」では、こんな記述も見られる。

進歩的文化人の後裔は「キャスターやコメンテーターなる人種」だとして、かれらのコメントが「下流大衆世論」を再生産させる。

「福田恆存に倣って、進歩的文化人の現代版キャスター・コメンテーターを笑劇にしたらどうなるだろうか。「解ります。よーく解ります」のかわりに、深刻そうな表情と「(首相は、大臣は、社長は)なにを考えているのでしょうか。…つぎへいきます」という台詞を多発させることになるのであろうか。」(p.310)

 第七章「知識人界の変容」では、次のようなことも。

「…いま三木清ほかについて、在野知識人と言ったが、帝大教授という官学知識人に対しての用語で、かれらが大学に籍をおいていなかったということではない。小林秀雄は明治大学文学部文学科教授、三木清は法政大学文学部哲学科教授 羽仁五郎は日本大学文学部日本史学科教授、林達夫は東洋大学文学部文化学科教授、谷川徹三は法政大学文学部哲学科教授だったからである。かれらは生活の資のために私立大学に職を得ていたが、三木や羽仁のように、治安維持法違反容疑で逮捕され、退職に迫られた人もいる。当時は、大学といえば帝国大学であり、私立大学は、名前は大学でも、帝大との差は今日の東大と専門学校くらいの差があった。だから、三木清や小林秀雄は自らのアイデンティティは“(私立)大学教授”などではなく、“哲学者”や“文藝評論家”だった。」(p.412-413

  故・衛藤瀋吉氏のエピソードは、さもありなんという感じ。ちなみに、1969年の東大入試中止を文部省に進言した東大教授のひとりが、この衛藤だったそうだ。最近、そのことを何かで読んで、怒りがこみ上げてきた。

 「当時は、大学といえば帝国大学であり、私立大学は、名前は大学でも、帝大との差は今日の東大と専門学校くらいの差があった」とは、身も蓋もない話ではないか。
 大昔、わたしは、その三流私大に在籍していて、衛藤瀋吉氏の授業を受けたことがある。衛藤は著書の中でも「宮崎滔天は私大出ながら、漢文がよくできて…」というような書き方をする人だったから、東大教授の傍ら非常勤講師として私たちに教えていた内容は、とても東大生と一緒とは思えなかった。われわれを教えていた衛藤の内心は、おそらく小林秀雄や三木清と同じような気分であったに違いない。

 1960年代以降、大量生産された大学卒業生は、社会のエリートでも、知識人の卵でもなかった。正確に言えば、旧・帝国大学やその周辺の卒業生だけは、充実した教育内容、教育環境の中で「エリート」への道が開かれてはいたが、私大などは、名ばかりの「大学生」を大量に生産する「株式会社」のようなものだった。
 マスプロ生産された名ばかりの大学卒業生でも、いっぱしに「知識人」面をして「朝日新聞」や「世界」(岩波書店)を読んだ。一方、「朝日」や「岩波」に大層なご高説を書くのは、東大卒の知識人というのが、戦後社会の定番だったのだ。こうした相互の生産、消費の関係が、戦後民主主義と呼ばれるものを支えていた。だが、大学を出ても就職できない若者が大量に排出される現在、日本の大学社会もまた変容せざるを得ない。「朝日」や「岩波」など信じない若者が、ネトウヨに走るのも時代の流れというものだろう。

 本書は、同時代を体験した人にとっては、「デジャブ感いっぱい」「身も蓋もない話」という感想になるだろう。

革新幻想の戦後史
竹内 洋
中央公論新社

「朝日新聞の中国侵略」と「革新幻想の戦後史」

2011年12月07日 07時53分19秒 | 

 最近、本を読もうとする意欲が減退しているので、それじゃあだめじゃん、と考えて、我が町の大手書店に行く。
 このところ、本を買う場合でも、アマゾンをまず検索する。もし、中古品で適当なモノがあれば、それで済ますというのが習慣になった。それと、ブックオフに行き、安いからと買ってしまう本が増えた。どちらも、本来の本と出会う楽しみ(そんなものが今あるのかどうか知らないが)を損なうものだ。

 というわけで、書店の新刊書の中から気になった本は、次の四冊だった。

1 「朝日新聞の中国侵略」(山本武利著 文藝春秋社 2011.2)
2 『「諸君!」「正論」の研究~保守言論はどう変容したか』(上丸洋一著  2011.8 岩波書店)
3 「革新幻想の戦後史」(竹内洋著 中央公論新社)
4 「新しい世界史へ」(羽田正著 2011.12 岩波新書) 


 戦前、朝日新聞は紙面で大々的に「中国侵略」を鼓舞したが、その足跡を調べるのは容易ではないようだ。朝日が関係資料を公開しないので、「朝日新聞の中国侵略」の著者は、米国の公文書館まで出向いて調べたそうだ。現在の「朝日新聞」は、むしろ開き直って、その戦前の「反省」に立って中国との友好に尽くすこと(親中)が社是なのだそうだ。辛亥革命100年を記念する社説では「封建王朝を倒して革命を成し遂げた中国」と言った朝日だが、媚中の源流がどこにあるのかよくわかる。

 最近、じり貧の岩波は、同業他社の総合誌である「諸君!」(現在休刊 文藝春秋社)、「正論」(産経新聞社)を貶す本まで出版した。昔だったら、岩波という「権威」にアグラをかいて、こんな雑誌は歯牙にもかけなかったのだが、時代は変わったものだ。それにしても、岩波は「変容」という言葉が大好きだなあ。

 「新しい世界史へ」(岩波新書)のサブタイトルには、嗤った。地球市民の構築…とか書いてあった。最近のニュースを見ただけでも、東日本大震災、ECの経済危機、中国の膨張、中東問題など、「地球市民」への道など遠ざかるような事象ばかり。岩波は、この期に及んで、理想論、あるべき論、いやおとぎ話のようなことを書き連ねる本ばかり出す。今時、「岩波だから」と言って、こんな本を買う人などいるのだろうか。まあ、世間知らずの高校社会科教師が推薦書にすることは間違いないだろうが。

 昔のままの「権威」をふりかざし、「平和呆け」「進歩主義幻想」を振りまく岩波書店に対して、真っ向から立ち向かったのが「革新幻想の戦後史」。これは、小熊某が書いた本と内容がだぶっているようだが、実は同時代を知る人が読めば、特に目新しい内容は含まれていない。同時代を生きた人は、時代のディテールを覚えているから、歴史的に総括した本書には、違和感を感じる人も多いだろう。

 結局、本は何も買わなかった。雨が降ってきたが、傘がない。そこで、雨傘だけ買って帰ってきた。
 読まなくても、本の内容が想像できるというのは、つまるところ、知的好奇心が減退し、デジャブ感ばかりということ。トシをとったな…。

 


「北朝鮮に消えた歌声~永田絃次郎の生涯」を読む

2011年10月20日 17時47分52秒 | 

 喜多由浩著「北朝鮮に消えた歌声~永田絃次郎の生涯」(新潮社 2011年)を読む。

 昨年、韓国で刊行された「親日人名辞典」に金永吉(1909-1985)という名前が載っているという。韓国で「親日派」というレッテルを貼られることは、今なお社会的な「死」を意味するほど重大なことだ。本人が死んでもなお、その一族は「親日派」という汚名を着せられて生きなければならない。これが二十一世紀の出来事とは思えないが、事実なのだ。

 韓国でブログを開設している韓国人から、最近、次のようなメールを受け取った。この人は、韓国の「反日教育」は間違っていると主張している希有の人だ。

「韓国は日本に感謝しなければならない。
しかし、学校で強力な反日教育を受けます。
私は日本が嫌いでした。私は子供の時に日本人は悪魔だと思っていました。
しかしあるとき、その教育が間違いだと分かりました。
教科書に書いてあるのが根拠のない嘘だと分かりました。
私はショックで少し精神的に不安定になりました。
何を信じていいのか分からなくなって、誰も何も信じることができなかったでした。

韓国の教育は間違っています。
しかし、幼いころから、学校で学んだことを否定し、
正反対のことを受け入れることは容易ではありません。
天動説を信じている人が、地動説を受け入れないのと同じです。
私はひとりでも多くの韓国人に、真実を知ってほしい。
間違っていることは天動説で、正しいことは地動説だと。

しかし、文字だけで理解してもらうのは困難です。
だから映像を探しています。

日本に韓日併合時代の映像はありますか?」

 話が脱線したが、上述の金永吉という人物は、日本名が永田絃次郎※。陸軍軍楽隊出身のテノール歌手だった。陸軍軍楽隊の後輩には、團 伊玖磨、芥川也寸志もいた。

※ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E7%B5%83%E6%AC%A1%E9%83%8E

 永田絃次郎は、日本人として敗戦を迎える。だが、戦後の混乱期に現在の朝鮮総連との関係を深め、1960年、「帰国事業」で一家六人とも北朝鮮に渡る。帰国後、4年間ほどは、華々しい「活躍」が伝えられたが、その後消息不明となる。消息が明らかになったのはつい最近で、1985年、肺結核で死去していたことが明らかにされた。これは、ある種の「名誉回復」だと理解されているようだ。

 北朝鮮では「帰国者」として異端視され、韓国では「民族の歌切り者=親日派」と目される。そして日本では、とっくに忘れ去られた存在。これほど数奇な運命を辿った音楽家は極めて稀だろう。

 著者は次のように記す。
『1909年に生を受けた金永吉少年にとって、”物心がついたころ”には、すでに周囲は「日本」であった、ということだ。…戦前から戦中にかけて、永田は軍部に協力し、「内鮮一体」のスローガンや、朝鮮人志願兵を集めるための宣伝映画にも出演している。軍歌の吹き込みも極めて多い。それを理由に韓国では、いまだに「親日派」として糾弾されている。だが、日本語をよどみなく話し、何のコンプレックスも感じていなかった永田が、軍部に協力したのもまた、「ごく自然な感情」ではなかったか。当時の永田にとっては、まさしく「日本」が自分の国だったからである。」(pp.39-40)

 「日本」が祖国だと思っていたことを誰が責めることができるだろうか? いま、韓国が続けている「反日教育」には、歴史を直視せず、ないものねだりを言い募る幼児性を感じざるを得ない。
 永田絃次郎は、日本にいた方がずっと幸せだったに違いない。日本人だった奥さんの不幸は、考えるのも辛いほどだ。

 

北朝鮮に消えた歌声―永田絃次郎の生涯
喜多 由浩
新潮社