9月から10月に変わる辺りから
気候の変化が感じられるようになった。
まず、
毎日雲ひとつ無い快晴であった空に、
雲がぽっかり、ぽっかり
浮かぶようになってきた。
娘曰く、
「季節の変わり目の証拠だよ」とのこと。
それが全天を覆う雲に代わり、
その色が黒くなってきて、
遂に、10月2日の夜、
突然の雷雨となった。
トルコ入国以来、
51日目にして
初めての本格的な雨であった。
いわゆる驟雨である。
3日には
最高気温が10度に届かず、
最低気温はー4度で
12月の気候だったとか。
流石に「異常気象」と
報じられているらしい。
4日も曇りがちの
寒い日が続いた。
今朝5日は
最低気温がー2度とか!
起床の際、「寒さ」を感じたが、
特別な対応はせず
パソコンに向かっていたところ
激しい腹痛を感じて
トイレに駆け込んだ。
娘曰く
「トルコの寒さをなめちゃいかん!」とか。
確かに、急激に変化する気温は、
日本では経験できない。
10月7日(月)久々に外出した。
カイマクルの地下都市である。
「初期のキリスト教はユダヤ人社会から広まった」
という前提に立つと、
「カッパドキア地方にもユダヤ人社会があった」
ということになるのだが、
この岩窟教会と地下都市のある
がらんとした地域のどこに
ユダヤ人社会が存在したのだろうか?
という思いですっきりしなかった。
そのうち、
「ガラテアの信徒への伝道」は、
聖パウロが直接、
異邦人に伝道したもの(使徒言行録2;9には、ガラテヤ、リカオニアはない。)
という記述を
パソコンで見つけた。
そして、
「そうか、ユダヤ人社会を経由しない
伝道もあっても良いんじゃないか」と考えてみた。
そういえば、
同じ手紙の2;7~9には、
ペトロとパウロの
任務分担についての記載があるではないか。
そして、今回(10月7日)行った
カイマクリの地下都市の説明書に
「戦争が頻発したり
宗教的迫害が虐殺にまで高じた時代、
アナトリアの住民やシリア、パレスチナから来た
初期キリスト教徒たちは、
カッパドキアの谷の渓谷で、
厳格な修道生活の中に平安を見出していた。」とある。
パウロも、第二回、第三回
伝道旅行の際には、
シリアから陸路北上して
小アジアに入っており、
このルートが地中海から
アナトリアへの
重要な通商ルートで
あったことを考えれば、
キリストの福音が、
このルートでガラテヤ、リカオニア、カッパドキアに
伝えられていたとしても
不思議ではない。
(カイマクリの地下都市の教会跡。正面がアプスで中央の台は聖餐台であろうか。)
更に、7世紀の後半から
8世紀にかけて、
アナトリアの中心都市として
栄えていたカイセリに向けて、
アラブ人の襲撃が頻発し、
その為に、
その街道上にあったデリンクユ、
カイマクリで
古代からあった地下都市を
更に改良した
大規模な地下都市が
整備されたと考えれば納得がいく。
カイマクリ地下都市への途中、遠望できたエルジエス山(3917m)。この山ほかハサン山(3300m)などの噴火によってカッパドキアの大地は造られた。
しかし、この辺のところは、
別に書いた「カッパドキアの歴史とキリスト教」に譲る。
これは、あくまで、
トルコでの77日間の日記である。
この頃から風邪が
完全に抜けたようで
体調が急激に回復してきたのを
自覚できるようになった。
またまた、続く~♪
本日もお付き合いいただいて
ありがとうございます!
左の「トルコ情報」から
ぽちっと応援、よろしくお願いしまっす♪
気候の変化が感じられるようになった。
まず、
毎日雲ひとつ無い快晴であった空に、
雲がぽっかり、ぽっかり
浮かぶようになってきた。
娘曰く、
「季節の変わり目の証拠だよ」とのこと。
それが全天を覆う雲に代わり、
その色が黒くなってきて、
遂に、10月2日の夜、
突然の雷雨となった。
トルコ入国以来、
51日目にして
初めての本格的な雨であった。
いわゆる驟雨である。
3日には
最高気温が10度に届かず、
最低気温はー4度で
12月の気候だったとか。
流石に「異常気象」と
報じられているらしい。
4日も曇りがちの
寒い日が続いた。
今朝5日は
最低気温がー2度とか!
起床の際、「寒さ」を感じたが、
特別な対応はせず
パソコンに向かっていたところ
激しい腹痛を感じて
トイレに駆け込んだ。
娘曰く
「トルコの寒さをなめちゃいかん!」とか。
確かに、急激に変化する気温は、
日本では経験できない。
10月7日(月)久々に外出した。
カイマクルの地下都市である。
「初期のキリスト教はユダヤ人社会から広まった」
という前提に立つと、
「カッパドキア地方にもユダヤ人社会があった」
ということになるのだが、
この岩窟教会と地下都市のある
がらんとした地域のどこに
ユダヤ人社会が存在したのだろうか?
という思いですっきりしなかった。
そのうち、
「ガラテアの信徒への伝道」は、
聖パウロが直接、
異邦人に伝道したもの(使徒言行録2;9には、ガラテヤ、リカオニアはない。)
という記述を
パソコンで見つけた。
そして、
「そうか、ユダヤ人社会を経由しない
伝道もあっても良いんじゃないか」と考えてみた。
そういえば、
同じ手紙の2;7~9には、
ペトロとパウロの
任務分担についての記載があるではないか。
そして、今回(10月7日)行った
カイマクリの地下都市の説明書に
「戦争が頻発したり
宗教的迫害が虐殺にまで高じた時代、
アナトリアの住民やシリア、パレスチナから来た
初期キリスト教徒たちは、
カッパドキアの谷の渓谷で、
厳格な修道生活の中に平安を見出していた。」とある。
パウロも、第二回、第三回
伝道旅行の際には、
シリアから陸路北上して
小アジアに入っており、
このルートが地中海から
アナトリアへの
重要な通商ルートで
あったことを考えれば、
キリストの福音が、
このルートでガラテヤ、リカオニア、カッパドキアに
伝えられていたとしても
不思議ではない。
(カイマクリの地下都市の教会跡。正面がアプスで中央の台は聖餐台であろうか。)
更に、7世紀の後半から
8世紀にかけて、
アナトリアの中心都市として
栄えていたカイセリに向けて、
アラブ人の襲撃が頻発し、
その為に、
その街道上にあったデリンクユ、
カイマクリで
古代からあった地下都市を
更に改良した
大規模な地下都市が
整備されたと考えれば納得がいく。
カイマクリ地下都市への途中、遠望できたエルジエス山(3917m)。この山ほかハサン山(3300m)などの噴火によってカッパドキアの大地は造られた。
しかし、この辺のところは、
別に書いた「カッパドキアの歴史とキリスト教」に譲る。
これは、あくまで、
トルコでの77日間の日記である。
この頃から風邪が
完全に抜けたようで
体調が急激に回復してきたのを
自覚できるようになった。
またまた、続く~♪
本日もお付き合いいただいて
ありがとうございます!
左の「トルコ情報」から
ぽちっと応援、よろしくお願いしまっす♪