被差別の起源については諸説が存在するが、研究者で近世起源説を唱える者はいないとされ、中世あるいは古代以前から存在したとみられているが、人種起源説と職業起源説とがあり、未だ意見の統一を見ない。
政府が同和対策に取り組み出した1960年代からおおよそ1980年代の頃までは「近世に幕藩権力が無から全てを作り出した」といういわゆる「近世政治起源説」が信じられていたが、これが学術的に否定されたことによって、現在では中世以前の様々な要素を踏まえた上でその起源についての考証が行われている。
近世の身分制度は社会的地位であり、血統とは違っていた。
江戸時代以前にも当然存在したが、江戸幕府による政権安定化のための身分世襲化が進んだ。
身分制度は儒教的な思想の影響を受け、社会的役割の固定化によって安定がもたらされると考えられていた。
しかし、差別に関しては、明確に「(えた)」という言葉が使われていた鎌倉・室町の時代から、「卑しい者とは結婚しない。
血は一度汚れるときれいにはならない。の子はいつまでもである」という差別意識まで記した史料[要出典]が現れており、その血統的な差別の起源は古く、最近あるいは今日まで、職業・地域を離れた血統差別の様相を示してきた。
なお、江戸時代の慣習により「士農工商」と呼ばれる四身分がよく知られているが、実際はそれ以外にも多種の身分が存在しており、また「四民」のうち武士以外の上下関係については疑問が呈されており、2016年4月現在の歴史教科書においては採用されていない。
現代に続く「差別」の問題の制度的源流は歴史的なものであるが、具体的な差別構造の成立は明治政府の政策や民衆に根付いた忌避感の表れであるとみる者もいる。
差別の具体的な形態は、個人においては交際や結婚や就職、集落においてはインフラの整備における公然とした不利益などである。いわゆる被差別では貧しさによる物乞いが後を絶たなかった。島崎藤村の「破戒」は、この時代の差別を扱っている。
運動[編集]
このような状況を改善するために、かつての階層の人々(いわゆる「民」)は、自主的な運動を始め、差別糾弾・行政闘争を軸に運動を展開した。
「問題が社会不安の原因になることを憂慮」した政府はこれらの運動が「左傾化」することを恐れ、弾圧と懐柔の両面で相対した。もっともは当初、「帝国臣民である以上、天皇の赤子として共に報国の権利と義務があり、それを差別により侵害するのは不当である」という意味の宣言をしていた。
「国民の融和」を目的とし、人権侵害の防止に積極的でなかった政府の運動に反発した西光万吉、阪本清一郎らが中心となり1922年(大正11年)に全国が結成された。そして「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる創立宣言で「全國に散在する吾が特殊民よ団結せよ。吾々がであることを誇る時が来たのだ。」と宣言した。今でこそ「特殊」は差別用語として扱われ民も避ける傾向があるが、結成時には扱いが異なっていたことが機関紙第一号から読み取れる
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