勝村 幸博
2006.07.31 日経
現在では,専門誌やITニュース・サイトに限らず,一般誌/紙や通常のニュース・サイトなどでも,コンピュータ・セキュリティの重要性を解説することが増えている。それにもかかわらず,一般ユーザーの多くは,セキュリティに対して無関心のように思える。
その理由としてよく聞かれるものの一つが,コンピュータ・ウイルスなどの被害に遭ったとしても,身体に危害が及ぶことはないからということ。あるベンダーの方は,セキュリティ対策を一切施さないユーザーから,「本物のウイルスとは異なり,コンピュータ・ウイルスに感染しても寝込むことはない。何かあったらOSを再インストールすれば済むこと」と言われて,言葉に詰まったという。
筆者も,「被害に遭ったとしても致命的なことにはならない」と思っていることが,一般ユーザーの多くがセキュリティ対策に無関心であることの大きな理由の一つだと考えていた。しかし,最近ある講演を聞いて,たとえ身体に危害が及ぶとしてもセキュリティ対策は進まないのではないかと思い始めた。どのような状況であれ,人間というものは思った以上に「自分だけは大丈夫」と考えるようだ。
事故には遭わないが宝くじには当選?
筆者が拝聴したのは,群馬大学工学部建設工学科 都市工学講座教授の片田敏孝氏による講演である(片田研究室のWebサイト)。片田氏は,災害時の住民避難などについて研究されている。
筆者は片田氏の講演で初めて知ったのだが,「自分にとって都合の悪い情報を無視したり,過小評価してしまう人の特性」を「正常化の偏見(normalcy bias)」と呼ぶそうだ。
講演では具体例の一つとして,交通事故と宝くじのそれぞれに対して抱く,期待(不安)の違いが挙げられた。交通事故に遭って死亡する確率は,宝くじの1等に当選するより高い。にもかかわらず,会社からの帰りに車にはねられると考えている人はほとんどいない。一方で,宝くじには当選を期待して,多くの人々が人気の売り場に行列を作る。
そのほか,建物内で非常ベルが鳴っても,すぐに逃げ出そうとする人がいないことも,正常化の偏見の表れだという。ほとんどの人は,非常ベルに加えて,非常事態を裏付ける他の情報がないと,本当の非常事態だとは判断しない。逆に,非常ベルだけで逃げ出そうものなら,「慌て者」と笑われてしまうおそれさえあるとする。
また,「もし大地震が起きたら,どのように対応するか」と尋ねると,「机の下に避難する」「建物の外に避難する」「瓦礫の下敷きになっている人を助ける」---といった答えばかりで,自分が被害に遭うことを想定した答えは,一切ないという。
津波が来るのに避難しない?
片田氏は,一刻を争う災害時の避難に関しても,正常化の偏見が見られることを,以前実施した調査研究を引き合いに解説してくれた。2003年,ある沿岸地域で震度5強の大きな地震が観測された。同地域は,過去に何回か津波によって犠牲者を出している,いわゆる「津波常襲地域」である。実際には地震による津波は発生しなかったものの,過去の経験に基づけば,住民は大きな地震から津波の襲来を想起し,避難することが予想される地域である。
そこで,片田氏が2003年の地震発生時におけるその地域の避難状況を調べてみたところ,興味深い結果が得られた。3000名を超える住民への調査では,確かに87.1%の住民が,地震発生時に津波の襲来を思い浮かべたという。そして,全体の25.4%が「津波が来ると思った」,38.4%が「来る可能性は高いと思った」と回答した。回答者の過半数は,津波の襲来を予想していたのだ。津波常襲地域だけのことはある。
だが,津波を警戒して実際に避難したと答えた住民は,わずか1.7%に過ぎなかったという。1.7%である。ほとんど避難しなかったといってもよいだろう。その行動の裏付けとなったのは,正常化の偏見であるという。「津波によって身に危険が及ぶと思ったかどうか」の問いに,「危険は及ばないと思った」との回答が24.1%,「危険が及ぶ可能性は低いと思った」が25.5%で,およそ半数は「自分は大丈夫」と思ったようだ。
ちなみに,「危険が及ぶと思った」と答えたのは11.3%,「可能性が高いと思った」としたのは17.9%,「どちらともいえない」が21.3%だった。
以上の調査結果を興味深く聞いていた一方で,筆者は「津波に比べれば,コンピュータ・ウイルスなどかわいいもの。津波が来ると思っても逃げないくらいなのだから,『危ないぞ』といくら呼びかけてもウイルス対策など施すわけがない」と,暗い気持ちになってしまった。
ただ,上述の津波のケースでは,高い情報依存が避難を妨げた側面もあるという。このときの地震では,津波警報は出されず,避難に関する情報はテレビやラジオで放送されなかった。結局,地震発生から12分後に「津波による被害なし」という情報が出された。とはいえ,もし津波が発生していれば,この12分間が原因で,被害が発生した恐れはあった。
「逃げなければいけないことは分かっているが,正常化の偏見によって逃げていない自分がいる。このため『認知的不協和』が発生して,逃げていない自分を正当化する理由を探す。だが,そんな理由は簡単に探せる。『前に避難勧告が出たときも,大丈夫だった』『隣の人も逃げていない』『テレビでも何も言っていない』などだ」(片田氏)。
「脅す」よりも「理解してもらう」ことが大事
とはいえ,暗い気持ちばかりになっていても仕方がない。今後の記事執筆の参考になることはないかと講演を聞き続けていると,片田氏からヒントになりそうな次の言葉をいただいた。「脅かすだけでは効果は薄い。その場では『怖い』と思っても,長続きはしない。重要なことは,なぜ危ないのか,どのように回避すればよいのかを理解してもらうこと」。
脅かす一方では,相手は思考停止に陥って,結局,正常化の偏見に“すがって”しまう。相手に危険性と対策をきちんと理解してもらうことが重要であるという。もちろん,一朝一夕にできることではない。片田氏は津波常襲地域に足しげく通い,住民を対象に説明会を実施している。説明会では,コンピュータ・シミュレーションによるデモを交えて,「津波によってどのような被害が発生するのか」「いつの時点で避難すれば助かるのか」などを繰り返し解説している。その甲斐あって,住民の理解は確実に深まっているという。
コンピュータ・セキュリティについても同様だろう。危険性と対策を分かりやすく,かつ繰り返し伝えることが重要だと思う。記者の立場からすれば「同じような記事を先日書いたばかりだが……」と思うことは少なくないが,大事なことは繰り返し書くべきだろう。ITproをいつもご覧いただいている読者の方には食傷気味の感があるだろうが,今後もお付き合いいただければ幸いである。