5/25(月) 5:31配信 東洋経済オンライン
人気番組「テラスハウス」に出演していた、女子プロレスラーの木村花さん(2016年当時 写真:平工幸雄/アフロ)
プロレスラーの木村花さんが急逝した。5月24日時点では詳細が明らかになっていないが、彼女は自ら死を選んだとみられている。
その原因については、出演中の人気番組「テラスハウス」(フジテレビ系、ネットフリックスで配信)の中で、彼女が他の出演者に対して厳しい言葉を発したことなどに対して、視聴者などからSNS上で誹謗中傷が相次いだためではないか、と言われている。
ネットでのバッシングが、22歳という一人の若い女性を追い詰めてしまったのだとすれば、それは非常に悲しい出来事であるし、誹謗中傷をした人々の行動は非難されてしかるべきものだと思う。
その点については、すでに多くの人々が意見を表明されている。私はテレビ番組の制作に長年携わってきた立場として、今回の悲しい出来事の原因になったかもしれないと考えられるもう1つの問題について指摘したい。彼女が出演していた「恋愛リアリティーショー」が抱える「恐ろしさ」と「危うさ」だ。
■人気の番組形態に潜む落とし穴
「テラスハウス」をはじめとする「恋愛リアリティーショー」は、いま非常に流行している番組形態と言っていいだろう。若者のテレビ離れが指摘される中、この番組形態は数少ない「若者たちにも見てもらえるコンテンツ」だからだ。中でもインターネット配信の番組としては、これ以上ないほどのキラーコンテンツだといえる。
男女のリアルな恋愛や駆け引きを、あたかも“覗き見”する感覚でハラハラドキドキしながら見守るのは、とても面白い。思わず没入してしまうし、学校や会社で思わず友達に話したくなってしまう内容だ。視聴者に深く刺さるし、話題性もあるという意味では、まさにこの上なく「テレビ的」であると言えるだろう。
しかし、ここに1つの「罠」があると言えるかもしれない。あまりにリアルなので視聴者はあたかも本当の恋愛を目撃しているつもりになるが、実はそれはあくまでも「リアリティーのあるショー」だということだ。リアル男女の恋愛模様を描いているかのように演出されている「フェイク」であるということを、見ている側が忘れてしまいがちなのだ。
それはある意味、仕方のないことかもしれない。制作側はそれこそ、できるだけ“演出がそこには存在しないように”演出しているからだ。いうなれば、視聴者が「これは本当の話だ」と錯覚するように巧みに演出している。だから、そうした勘違いをしてしまうのも無理はない。
木村花さんの場合も、番組の中で彼女がとった行動が、あたかも彼女が現実でとった行動であると多くの視聴者にとられてしまい、その結果、ネット上での誹謗中傷につながってしまったのだと思われる。
しかし、考えてみてほしい。木村さんはあくまでも「ショー番組の出演者」だ。番組で描かれたものは「真実」ではない。そこには演出が加えられている。たとえ彼女が共演者に向かって語った言葉が「彼女が言ったそのまま」であったにしろ、その言葉が発せられた背景や文脈は、多分に「演出されている」と考えなければならない。
あえて言えば、ドラマで悪役を演じた俳優さんのことを、ドラマの中でその俳優さんが語ったセリフを元に「悪いやつだ」と判断して、誹謗中傷するようなものなのではないか。
■恋愛リアリティーショーは「やらせ」なのか
ここで誤解のないように説明しておきたいが、恋愛リアリティーショーは「やらせ」のようにすべてを捏造しているのかというと、そうではない。その番組がどこまで誠実に制作しているかによって程度の差はあるが、番組の出演者たちは実際にリアルな設定の中に置かれ、実際に誰かのことを好きになったり、嫌いになったりしている場合が多いと思う。
以前に、こうした番組の演出に関わった知り合いから「若い子たちは本当にすぐ恋愛しちゃうから、それを見るのは本当に面白いよ」と聞いたことがある。制作側も、できるだけリアルなものを撮影するために、可能なかぎり、リアルな状況にこだわっているのは確かだ。
むしろ、恋愛リアリティーショーにおける主要な演出は「増幅」だ。実際にある要素を何倍にも大きく膨らませて、大げさに描いていくことによって、よりドラマチックに恋愛の駆け引きを見せていくという手法は、どの番組でも確実に使われている。
もし、撮影したそのままの材料をニュートラルな視点で編集したら、あまりドラマチックにはならない。リアルな人の感情表現なんて、そんなものだ。まして、あまり感情を表に出さない日本人のデート風景なんて、見ていてそれほど楽しいものではない。
「芽生えた恋心」や「嫉妬の感情」を、ナレーションや、映像の順番を変えたり、他の映像やインタビューを間に挟んだりして、実際よりも大袈裟に「煽って」見せることで、より一層面白くしていくのだ。
もう1つの主要な演出は「単純化」だ。あたかも矢印で結ぶように人間関係を整理し、わかりやすく型にはめていくことで、視聴者は恋愛ストーリーに没入しやすくなっていく。
「誰は誰のことが好きだけど、誰は誰のことは気になっていない」とか「他の人のことが好き」などのわかりやすい構図は、撮影された素材を元に、ある程度、意図的に演出陣によって「解釈」されていく場合が多いだろう。
そして、その解釈を補強するように、次からの撮影は行われ、演出陣が描いたストーリーに沿って物語は進行されていく。そして、どこかでその物語は「面白く裏切られる」ことにならなければならない。どんでん返しで意外な結末に向かうように、出演者たちの行動はある程度、演出側の意図に沿った形で撮影・編集されていくのが通常だ。
これがもし、ニュース番組やドキュメンタリー番組であったとしたら、このような「演出意図に基づいた意図的な編集」は許されない。しかし、「リアリティーショー」なわけだから、出演者の行動はあくまで、面白くストーリーを展開するための素材にすぎない。
演出側は、それをリアリティーを損なわない範囲で“おいしく料理”して、ショーとして面白く仕上げていく。つまり、恋愛リアリティーショーの怖ろしいところは「出演者の人格がリアルなショーの素材として演出されてしまう」ことにあるのではないだろうか。
番組の展開上、「嫌な女」であることを求められた出演者は、「嫌な女」として描かれていく。「ズルいやつ」「裏切り者」「純情で可愛い女」「浮気者の男」「一途なイイやつ」……。プロデューサーやディレクター、そして放送作家の頭の中で決められた配役が、実在の人物に次々と「その人物が実際に持つ人格」として割り振られ、誇張されていく。
もちろんそれは、面白い恋愛ショーを作るうえではある程度必要なことなのではある。だが、制作側は「リアル」を謳う以上、出演者の実生活にその演出が与える影響を考えて演出しなければならないのではないか。番組がその人に与えた「誇張された人格」は、その人に良い意味でも悪い意味でも一生ついて回るのだから。 そして番組の性質上、出演者の多くはまだ若い、悩み多き未成熟で繊細な人たちであることも十分に考慮されなければならないのだと思う。