なぜ版図は拡大したのか
佐々木雄一著
<大日本帝国はどうやってできたのか>
当時の日本外交の原則は、利益と正当性の双方を重んじ、これらが合わさったところの<等価交換>であったと主張する。
日本外交の変質していくようす。
実際もこの30年間は、目まぐるしい時代であっただろう。
1894年、1904年、1914年と、近代日本はちっちりと10年毎に戦争を戦い、中国、ロシア、ドイツという大国と渡り合い、何とか格好をつけたであろう。
思いあがるなとういほうが難しかったかもしれない。
改めて朝鮮半島が、時代の要であることを痛感した。
状況は、同時代のバルカン半島に酷似している。
朝鮮半島情勢が流動化しかねない今、明治の外交家の外交家たちの苦悩は、恐ろしく生々しかった。
この時期は、国際関係の大変動期である。
ナポレオン戦争後のヨーロッパに成立した「ヨーロッパ協調」システムは、問題が生ずる度に大国が参集して会議を開き、解決策を見出す一種の合議制であった。
ほぼ100年間、クリミア戦争を除けばヨーロッパに大戦は起こらなかった。
これが機能したのは、大国間固定化された敵対関係がなく、システムが柔軟であったからだと言われている。
その柔軟性が失われていくのが、ビスマルクが失脚する1890から1914までの約20年間であり、本書の時代に重なる。
列強の外交が、特定の国を仮想敵国視するようになり、<古典外交>の精神が失われ、外交の硬直化、劣化がどの国にも起こっていく。
戦争は、限定的な利害を調整する制限戦争から、国家の存亡をかける全面戦争に変貌する。
日本の外交の硬直化と劣化は、具体的には、伊藤博文内閣から桂太郎内閣への移行期である。
このあたりで世代交代が起こり、価値観とその追求方法の微妙なシフトが起こっている。
何とかロシアとの決定的対立を避け、極東の国際関係を列強の協調外交の枠内に収めようと苦心してきた伊藤に対して、桂、小村寿太郎らは、対露戦争をも辞さない覚悟で日英同盟を選び、朝鮮半島を日本の勢力圏に置くことを強硬に追求し、韓国併合、満蒙権益の絶対視へと進んでいく。
ビスマルクが新生ドイツ帝国の海外植民地獲得に消極的であった点も、伊藤の政策と符合する。
ヨーロッパのすべての帝国が滅びる大戦争を、日本はあたかも特定の権益を巡る18世紀型の制限戦争であるかのような戦い方をした。
岩間陽子評
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日本は何処で誤ったのか?
最終的に日本の指導者の認識問題なのだ。
ある意味で、<無知は罪悪>である。
第二次世界大戦は、多くの犠牲者を生み出した無謀な戦争であった。
判断ミス以外のないものでもない。