小型機で飛んでいた頃、一番多く行ったのが伊豆諸島の島々。 島の魅力は湯量の豊富な温泉と旨い魚、それに地元で作られる年代物の焼酎だったが、もう一つ僕の興味を引いたのが今なお島に痕跡を残す「遠島」の歴史。 遠島は島流しのことで流罪とも呼ばれ死罪に次ぐ重刑、原則29年間は流刑地に留め置かれた。 江戸からの場合、大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御蔵島・利島の7島のうち罪が重いほど遠方に送られたというが、距離とは別に流人にとって評判の良かったのは大島・八丈・三宅。 流人は3島のいずれか行きを願ったが、嫌われたのは神津・御蔵・利島の3つ、とくに御蔵島の生活環境は最悪だったらしい。
大きな島ほど評判が良かった理由は住民が多く住み、着の身着のまま置き去りにされる流人達にとって、それぞれの技術や才能を生かして職を得る機会が多かったからではないか。 それにしても伊豆諸島は気候温暖で食べ物も比較的豊富、佐渡のように極寒で、しかも金山の重労働にこき使われることもなく、恵まれた流刑地だったと思う。 江戸時代に八丈に流された流人は1800人ほどで政治犯・思想犯などが主であるが、そのうち武士は約30%、他に僧侶が13%で、女の流人はおよそ70人。 流刑と決まると小伝馬町の牢で風待ちとなり、出航が決まるとその前夜、身分に応じ僅かな手当が支給された。
江戸から八丈までは約300kmで、50~80トンの帆船が出港するのは春か秋。 まず三宅島に着き、そこで半年ほど風待ちしてから八丈に送られた。 流人が港に着くとクジ引きで村割りを決め、預かった村では農家5世帯が1組となって1坪足らずの小屋に住まわせ、農業を手伝わせながら生活の面倒を見た。 絶海の孤島に暮らす島民にとって流人はさまざまな知識を持ち、江戸の様子や内地の新しい情報をもたらしてくれる貴重な存在でもあった。 また武家や僧侶出身の有識者は、学問を受ける機会のない村人や子供達を集め、寺子屋の師範として教育の普及に貢献した。
1722年~1873年のおよそ150年間に八丈から「島抜け」(船による脱出)した回数は18件、しかし確実に内地にたどり着いたのは1回のみ。 この話は後に歌舞伎でも上演されているが、幕末期の天保9年(1838年)、男女の流人が八丈で運命の出会いををする。 島抜けをするのはこの二人で3下総(千葉)佐原の大百姓の息子「本郷喜三郎」と元吉原の女郎「花鳥」。 他の5人と共に小船に乗って島を脱出、時化で帆柱を折られながらも鹿島・荒野浜へ流れ着き、二人は江戸に潜伏後、下関へ向かう途中で別々に捕らえられ、花鳥は死罪と決まる。 華やかな衣装で馬に乗り市中引き回しのうえ斬首となるが、死に臨んでいささかも動じず、7代目首切り浅右衛門を感動させたという。 花鳥28歳。
喜三郎は父親の金力で死罪を免れ永牢となるが、調べに当たったのが時の勘定奉行遠山の金さんこと、遠山左衛門尉景元。 やがて喜三郎は牢名主にまで出世し、文才・画才を生かして「朝日逆島記」を著し幕閣に提出したことが評価され、江戸十里四方追放に減刑され釈放されるが、長年の牢暮らしが原因で翌月病死、39歳。 逆島記には流罪となり船で運ばれる道中のこと、伝馬町牢内の絵や文章などを残し、江戸期の貴重な資料として八丈支庁に保管されている。 作家の吉村昭氏が2002年、流刑・脱島・漂流・逃亡を題材に種子島に流された流人たちの壮絶な逃避行を描いた「島抜け」を発表しているが、そのうち是非読んでみたいと思っている。
大きな島ほど評判が良かった理由は住民が多く住み、着の身着のまま置き去りにされる流人達にとって、それぞれの技術や才能を生かして職を得る機会が多かったからではないか。 それにしても伊豆諸島は気候温暖で食べ物も比較的豊富、佐渡のように極寒で、しかも金山の重労働にこき使われることもなく、恵まれた流刑地だったと思う。 江戸時代に八丈に流された流人は1800人ほどで政治犯・思想犯などが主であるが、そのうち武士は約30%、他に僧侶が13%で、女の流人はおよそ70人。 流刑と決まると小伝馬町の牢で風待ちとなり、出航が決まるとその前夜、身分に応じ僅かな手当が支給された。
江戸から八丈までは約300kmで、50~80トンの帆船が出港するのは春か秋。 まず三宅島に着き、そこで半年ほど風待ちしてから八丈に送られた。 流人が港に着くとクジ引きで村割りを決め、預かった村では農家5世帯が1組となって1坪足らずの小屋に住まわせ、農業を手伝わせながら生活の面倒を見た。 絶海の孤島に暮らす島民にとって流人はさまざまな知識を持ち、江戸の様子や内地の新しい情報をもたらしてくれる貴重な存在でもあった。 また武家や僧侶出身の有識者は、学問を受ける機会のない村人や子供達を集め、寺子屋の師範として教育の普及に貢献した。
1722年~1873年のおよそ150年間に八丈から「島抜け」(船による脱出)した回数は18件、しかし確実に内地にたどり着いたのは1回のみ。 この話は後に歌舞伎でも上演されているが、幕末期の天保9年(1838年)、男女の流人が八丈で運命の出会いををする。 島抜けをするのはこの二人で3下総(千葉)佐原の大百姓の息子「本郷喜三郎」と元吉原の女郎「花鳥」。 他の5人と共に小船に乗って島を脱出、時化で帆柱を折られながらも鹿島・荒野浜へ流れ着き、二人は江戸に潜伏後、下関へ向かう途中で別々に捕らえられ、花鳥は死罪と決まる。 華やかな衣装で馬に乗り市中引き回しのうえ斬首となるが、死に臨んでいささかも動じず、7代目首切り浅右衛門を感動させたという。 花鳥28歳。
喜三郎は父親の金力で死罪を免れ永牢となるが、調べに当たったのが時の勘定奉行遠山の金さんこと、遠山左衛門尉景元。 やがて喜三郎は牢名主にまで出世し、文才・画才を生かして「朝日逆島記」を著し幕閣に提出したことが評価され、江戸十里四方追放に減刑され釈放されるが、長年の牢暮らしが原因で翌月病死、39歳。 逆島記には流罪となり船で運ばれる道中のこと、伝馬町牢内の絵や文章などを残し、江戸期の貴重な資料として八丈支庁に保管されている。 作家の吉村昭氏が2002年、流刑・脱島・漂流・逃亡を題材に種子島に流された流人たちの壮絶な逃避行を描いた「島抜け」を発表しているが、そのうち是非読んでみたいと思っている。