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春が来た

「鳥島」 漂流者の命を繋いだアホウドリ

2012年01月25日 | 食・レシピ
江戸時代(1603年~1868年)のいわゆる無人島時代には、多くの漂流船が「鳥島」に流れ着いている。 当時徳川幕府の鎖国政策で大型船の建造や外洋航海が禁じられていたため、諸外国と比べ日本の航海技術は著しく遅れていた。 海岸の地形や山並みを目視しながらの沿岸航海では、ひとたび天候が崩れ視界が悪くなれば航行不能となり、りシケで沈没すれば溺死、大洋に流されれば漂流の末餓死・病死のいずれかで死亡した。 たまたま外国船に救助され者は異国の地で暮らすか、運がよければ帰国できる者もいた。 しかし幕府は異国からの帰還者がキリスト教信者になっていることを警戒し、徹底した厳しい取調べを受けるため、異国に留まり生涯を終えた者も多かった。

鳥島は太平洋・伊豆諸島の南端に位置し江戸から南に約600km、八丈島の約300km南で、島の直径が約5km・周囲約7kmの火山島で、最高峰は硫黄山で394m。 島は記録に残るだけでも過去4回の噴火が確認されており、植物類は貧弱だがアホウドリの繁殖地として世界最大。 しかし噴火の影響と、羽毛採取・食肉の目的で明治20年(1887年)から昭和8年までに推定1000万羽が乱獲されたことから、捕獲が禁止された当時は50羽ほどまで激減し絶滅寸前だった。 鳥島を有名にしたのは、幕末の日本で日米和親条約締結に尽力した「ジョン万次郎(本名中浜万次郎)」で、彼は天保12年(1841年)漁師仲間4人と共に遭難、5日間の漂流を経て奇跡的に鳥島に漂着している。

彼らは143日間島で生活し、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されているが、その命を繋いだのがアホウドリ。 実はそれから遡ること56年前の天明5年(1785年)、万次郎と同郷で土佐の運搬船で働く「長平」(野村長平)が他の乗組員4人と共に鳥島に漂着し、彼だけが実に12年間生き延び故郷に生還している。 島での生活体験は幕府役人の聞き取りによって詳しく記録されており、その情報は地元にも広く伝わっているので、おそらく万次郎たちはアホウドリが貴重な食料であり,その捕獲・保存・調理法を始め,島で生きていくための知識がかなり役立ったはず。 

作家・吉村昭」氏の著書「漂流」にその辺のところが詳しく記述されている。 長平たち4人の乗った三百石船は、10日以上も強風と激浪の荒れ狂う中で舵を壊され、帆柱を切り倒しながら沈没を免れ、10日以上も漂流して鳥島に流れ着く。 命は助かったものの食料や生活道具を船とともに失い、磯で拾った貝や海草を食べ空腹をしのぎながら人家を探しすが、やがて無人島と知って絶望する。 彼らはようやく崖の上によじ登ると思いがけぬ光景をみて立ちすくむ、今まで眼にしたことのない異様な鳥の大群がひしめき合うように地表を覆っている。 近ずいても逃げず大きな石で頭た叩いて殺しても、近くの鳥はまったく動揺しない。

生肉を海水でもみ洗いして食べると肉がしまり歯ごたえもあってたいへん美味く、内臓も上質な貝を口にするような新鮮さがあった。 肉の量も多く、4人で1日1羽を食べれば十分だったが問題は飲料水の確保、この島は井戸を掘っても硫黄を含んだ温水しか出てこない。 これも無数に有るアホウドリの卵に雨水をためることで解決する。 長平の偉いところはアホウドリが渡り鳥で、春から秋までは島に居なくなることに早く気ずいたことで、この期間は多くの干し肉を貯蔵することで乗り切った。 しかし3年間で長平を除く仲間の全てが病死、彼はその後流れ着いた別の漂流者と共に流木で船を作り、ついに八丈島を経由して土佐に帰り着く。 24歳で行方不明になった長平は37歳になっており、その後妻帯し子にも恵まれた。 文政4年(1822年)60歳で死去、墓碑には「無人島野村長平」と刻まれている。 


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