カキぴー

春が来た

僕の「乗り物遍歴」50年、自転車~飛行機まで (1)

2012年01月10日 | 乗り物
自転車の「三角乗り」をご存知だろうか? これを知ってる最後の年代は現在70歳前後の人ではないかと思うが、当時子ども用の自転車を持っている子など居らず、みんな大人の自転車を乗り回していた。 しかし体が小さいのでサドルに跨ると足が地面に届かず自転車を支えられない、そこで考えたのが「三角乗り」。 まず左足をぺタルに乗せて右足で地面をけってスピードつけ、足を離しても自転車が倒れないようになったら三角フレームの間から右足を突っ込んで右のぺタルにのせ、自転車を傾けることでバランスをとりながらぺタルを漕ぐ。 上手に乗りこなせるようになるまで何度も転びながらコツを覚えていくのだが、僕はいつも膝小僧の生傷が絶えなかった。

この三角乗りで砂利道の国道を走って隣町まで行ったりしてたのだから、当時の子供は逞しかったと思う。 やがて小学生も高学年になって大人の自転車が乗りこなせるようになると、担任の先生を中心にクラスの15人ぐらいの自転車好きが集まり、日帰りの遠乗りに出かけたりしていた。 当時は舗装道路が少なく、遠乗りでは必ず2~3台の自転車が釘を拾ってパンクした。 するとパンク修理の得意な生徒がタイヤをめくってチューブを引き出し、穴のあいた部分をヤスリでこすってから接着剤を塗って、古いチューブの切れ端をくっつけて修理したものだ。 タイヤが破ければ用意してある短く切ったタイヤを被せ、ゴトゴトするが結構走ることができた。

僕が中学に入る頃になると本田技研工業が50ccの自転車用補助モータ(小型エンジンキット)を売り出す。 エンジン搭載位置は後輪側面、駆動系統もすべて後輪回りで完結する構造で、純白の丸い琺瑯タンクと「Cub」のロゴの入った赤いエンジンカバーの組み合わせがひときわ目立った。 当時家業としてキャラメルの製造をしており、エンジンキットを取り付けた太いタイヤと大きな荷台の自転車に製品を積んで、遠方まで配達に行くことが嬉しかった。 しばらくすると原動機付き自転車にも運転許可書が必要となり、僕は許可年齢の14歳になっていたので、すぐに許可書の申請を済ませた。

警察署から呼び出しがあり受け取りに行くと、僕が第一号ということで交通部長から直々に許可書を手渡しされたのを懐かしく覚えている。 やがて家業の仕事も軌道に乗りオート3輪を使うようになり、助手をしながら運転を覚え、また僕の通う工業高校でも父兄から寄付されたマツダ・オート三輪を使って分解・修理の実習を受けていたので、16歳になるのももどかしく東京鮫洲の試験場まで行って免許を取得した。 当時福島県を縦断する高校駅伝があり、マラソン当日は僕の運転するオート三輪に応援団を乗せ、県南の白河市から県北福島市まで選手の伴送をするが僕の担当だった。

高校を卒業する頃、家業はキャラメル作りから、プロパンガスの販売に変わった。 大学に行かず家業を継ぐことにした僕を不憫に思ったのか、養父が僕に高価なスクーターを買ってくれた。 その名は「ホンダ・ジュノー(JUNO)K型」で、189cc4サイクル短気筒エンジンを搭載していた。 ボディデザインは当時特撮映画の美術を手がけていた小松崎茂氏で、最大の特徴はアクリル樹脂製の大型ウインドシールドと上部に収納された雨よけ用のルーフで、「全天候型スクーター」を目指した野心作。 また軽量化を図ってボディはFRP製、さらに当時は珍しいセルモーターを搭載していた。 しかし残念ながらパワー不足のため実用には適さなかった。