カキぴー

春が来た

僕の「乗り物遍歴」50年、自転車~飛行機まで (2)

2012年01月15日 | 未分類
僕が4輪車の免許取得に挑戦したのは高校3年の夏休み、福島市にあった県内唯一の自動車教習所へ汽車とバスを乗り継いで20日ほど通って合格した。 昭和30年(1955年)当時の4輪免許は普通と大型に区分されておらず、教習は大型トラックとバスを使って行われたが、ギヤチェンジでダブルクラッチが上手く噛み合わず、ガリガリ音を立てると減点だった。 当時2種免許の区分も無かったから4輪免許一枚で、営業用の車両も含め何でも運転できたわけ。 高校卒業(1956年)と同時に乗った車がトヨタ「マスターライン・ピックアップ」で、商用貨物車でも乗用車並みの乗り心地や仕様が売り物だったが、エアコンはおろかヒーターさえもなく、ラジェーターから取り出したホースを、露出した丸い温水ヒーターに繋いで暖をとった。

プロパンガスの事業も軌道に乗り、8トントラックや10トンタンクローリーで千葉や和歌山の製油所と郡山の備蓄基地を往復するようになると、運転手のやりくりがつかないときなど、僕の大型免許が結構役に立った。 当時は長距離トラック同士の殺傷事件も多く、運転席に日本刀を積んでた時代だ。 1954年~73年にかけての高度経済成長期、会社も恩恵を受けて成長し、1962年発売になったばかりの「日産セドリック・ステーションワゴン」を購入する。 リヤゲートは電動昇降式のウインドウを下ろしたあと下に開く構造で、客室にジャンプシートが設けられた8人乗り、僕たち夫婦はこれで1泊2日の新婚旅行に出かけている。 

やがて息子が生まれる頃になると社有車を私用には使いずらくなり、プライベートに買ったのが「日野・ルノー」で1963年生産中止になった最後の車。 リヤエンジン・モノコックボデーの4人乗り748cc21馬力の小さな車だったが、そのころ東京都内のタクシーで最も多かったのがこのルノーで、とにかくタフな車だった。 その後この車を下に出して取り替えたのが、同じ日野自動車から発売された「コンテッサ1300・クーペ」。 設計はBMW・トライアンフ・マセラティなどのデザインを手がけた、イタリアの著名な工業デザイナー「ジョバンニ・ミケロッティ」。 その優雅なスタイリングは、イタリアのコンクール・デレガンスで数年にわたり多数の賞を受賞する成功作となり、今なお国内にコンテッサクラブが存在し、僕の長男も会員の一人だった。

クルマの方はこれぐらいにして飛行機に移るが、最初に空を飛んだのはハング・グライダーにエンジンを付けたような代物で、車輪やシートの装備はなし。 離陸はスロットルを全開にしコントロールバーを握って走り、スピードがついて地面から浮いてきたら、垂れ下がった帯に足を突っ込んでスーパーマンのように飛ぶ。 これが進化して登場したのがアルミパイプに布張りで、飛行機として最低の機能を備えたウルトラ・ライト(超軽量飛行機)二人乗り。 最高スピードが時速80kmで約1時間のフライトが可能、郡山の河川敷から飛び立ち、伴走車からの給油を受けながら水戸市まで飛んだのが最長記録。 夏はフロートを付けて猪苗代湖や田沢湖などで遊び、冬はスキーを付けて磐梯山麓を飛び回ったりしたものだ。

本物の小型機を操縦したいと思ったのは、1986年公開の映画「愛と哀しみの果て」(アウト・オブ・アフリカ)の影響で、ロバート・レッドフォードが複葉機の前席にメリル・ストリーブを乗せ、アフリカの大地を舞うシーンにすっかり魅せらてしまったから。 2年後フロリダのスクールに入学し1ヶ月ほどでライセンスを取得、当時日本に存在する最も古い「セスナ・170」を4人で共同所有し、仙台をベースに腕を磨いた。 2番目に乗ったのが継続機種の「セスナ・172」、3番目が「パイパー・ターボアロー・PA-28RT]。 そして最後が「ビーチクラフト・Aー36・ボナンザ 」、この機体で2001年念願の世界一周フライトを果たすことができた。 終わりよければ全て良しといわれるが、人生ではその時期でしか経験できないことがある。 70才半ばになってからも、ワクワクするような乗り物に乗ることができるだろうか?