カキぴー

春が来た

郷愁を誘う、戦前の船旅

2010年04月04日 | 本と雑誌

旅客機が大西洋や、太平洋を横断出来るようになったのは1940年代に入ってからで、1930年代、日本から米国、欧州への渡航は、船か汽車がその主役だった。 欧州航路でパリに行くには、横浜港を出て、太平洋から南シナ海に入って、シンガポールやペナンに寄航。 マラッカ海峡を通過してインド洋、スエズ運河を渡ってポートサイド、そして地中海に面したマルセイユに上陸し、列車でパリに向かった。 この間およそ数十日を要した。 帰りに汽車旅を選んだ場合、モスクワに出てシベリア鉄道を利用し、およそ10日間でウラジオストク着、ここから日本海を渡って帰国した。 

当時、外国航路を持つ日本の船会社では、三菱系列の日本郵船がその代表格で、 船客の顔ぶれも、外国人を含む政治家、軍人、作家や芸術家、芸能人、皇族、王室関係など、豪華絢爛だった。 そうした多彩な顔ぶれが、長期の船旅の中で繰り広げる社交の世界で、どれほど多く情報や議論が行き交い、後の政治経済、芸術文化に、少なからず影響を与えたことは、想像に難くない。

日本を代表する作家の一人だった横光利一も、1936年 毎日新聞の特派員として、でヨーロッパに渡っている。 往航の乗客には高浜虚子や宮崎市定も居て、句会をしばしば開いている。 また出発直後2・26事件勃発。 帰国した翌年から1946年まで、断続的に書かれたのが大作 「旅愁」 で、紀行文に近い前半部分に、船旅の模様が次のように書かれている。 

「ある夜、イタリアへ船がかかり、渦巻の多いシシリー島を越えた次の夜であった。 一団の船客たち突然左舷の欄干へ駆け集まった。 八代も人々と一緒に甲板へ出て沖の方を見ると、真っ暗な沖の波の上で、ストロンボリ の噴火が三角の島の頂上から、山の斜面へ溶岩の火の塊をずるずる滑り流しているところだった」

氷川丸は、日本郵船が1930年に竣工させた12000トン級の貨客船。 その接客設備とサービスの優秀さによって著名人たちに愛用され、数多くの逸話を残した船として知られる。 1932年には、チャーリー・チャップリンが乗船、1937年には、イギリス国王ジョージ6世の載冠式からの帰国時、秩父宮夫妻が乗船。 その後、引揚船、病院船、として徴用されながら、終戦まで沈没を招かれた数少ない大型客船。

2007年から船体の修繕、内装の修復を行い、2008年4月から横浜港で一般公開されている。 私もぜひ一度足を運び、華やかなりし頃の旅情に、思いを馳せたいと思っている。

 


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