カキぴー

春が来た

薪ストーブの燃やし方と、「金閣寺の燃やし方」

2011年02月20日 | 小説
冬の間、やたら洋服の袖を焦がしてしまったり、覗き窓のカーボンを取るのに研磨剤まで使ったり、毎朝大量の灰を出しながら(必要以上の薪を燃しながら) 「薪ストーブは奥が深い」 などと言い訳をしなくなるまでに、僕は7シーズンを要した。 この間、薪の確保やメンテナンスを含めて、事前に知っていれば長い間苦労しなくて済み費用も削減できたのだが、役に立つ解説書や助言についぞめぐり遭わなかったのは、不運と言わざるをえない。

その辺のところは、またの機会とし今回は「最初の燃やし方」だけでも紹介したい。 まず覗き窓を専用のスプレーで綺麗にしてから溜まった灰を半分ぐらい取り出し、幅の狭い太めの薪をストーブの端に縦に置く(薪を寝せる枕木)。 その脇に炊きつけの「杉つ葉」を一掴みくべ、その上に使用済みの割り箸を十数本並べて火をつけ、これに薪割りのとき剥がれる「木の皮」または小枝を炊き付けとしてくべる。 頃合を見て細めの薪から枕木に2~3本並べればバリバリ燃えるはず。 ここまでの所要時間は約15分、ちなみに割り箸は牛乳パックに一つ100円で近所の受産施設が届けてくれる。

次に「金閣寺の燃やし方」だが、こちらの方は昨年秋に発売された「酒井順子氏」の著書のタイトル。 巧妙なネーミングに惹かれて本を購入した読者も多い筈だが、実は僕もその一人。 著者自身も「これしかない!」 と自信を持ってタイトルは決めていたらしい。 1950年7月2日午前3時、金閣寺に放火でしたのは当時21歳だった修行僧の「林養賢」(はやししょうけん)だが、その後この事件を小説で「再燃」させたのが 「三島由紀夫」と「水上勉」 の二人。 前者が「金閣寺」、後者が「五番町夕霧楼」と「金閣寺炎上」。 当然のことながら違う個性を持つ二人の大物作家は、燃やし方も異なる。

養賢は放火から13時間後、金閣寺脇の左大文字山で薬物を飲み、刃物で腹を刺していたところを逮捕され一命を取りとめる。 1955年刑期満了で出所後、新しく再建された金閣寺の写真を見たがることもなく、「どうでもよい、無意味なことだ」と言い残し、結核と重度の精神障害で翌年3月死去。 息子の放火後列車から飛び降り自殺した母親の志満子と共に、青葉山麓・安岡の共同墓地に眠る。

酒井氏は考察する・・・・三島の「金閣寺」を読んで強い違和感を感じた水上は、「自分が書かねば」と決意したはず。 主人公の溝口は「美が」とか「人生が」とか難しいことを頭の中でこねくり回した結果として金閣寺に放火している。 事件直後の母の死も、逮捕されてから死に至るまでの養賢の不幸も描ききっていない、と言うより、最初から描こうとしていない。 このままでは養賢が浮かばれまい。 養賢が言いたくても言えなかったこと、訴えかったことを、自分が世に出してやろう・・・。 水上は7年後に五番街夕霧楼、23年後に金閣寺炎上を発表する。 


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